第78話 剣王ヴェルグ
地下道は、思った以上に深くまで続いていた。
シルヴァは薄暗い石造りの通路を一人で進んでいた。
壁には古い燭台が並んでいる。火が灯っているものもあれば、黒く煤けたままのものもある。
人の気配はない。
けれど、空気だけは動いていた。
「こっちで合ってるな」
シルヴァが足を止める。
正面から、ごく僅かに風が流れてくる。
地上へ続く出口がある。
それだけではない。
風に混じって、あの感覚があった。
何かが引っ張られている。
死者の身体に絡みついていた、見えない力。
王都へ入ってから、ずっと強くなっている。
その流れの先も。
やはり王城の方角だった。
「ティナとクジャも、城に向かってればいいけど」
二人を心配していないわけではない。
むしろ気になる。
今すぐ探しに戻りたい気持ちもあった。
それでも。
二人なら、自分で動ける。
それは三か月を一緒に過ごしてきたシルヴァが、一番よく知っている。
だから今は。
決めた場所へ向かう。
「城で合流する」
小さく呟いて。
再び走り出した。
◇
地下道の先。
石の階段。
上る。
重い木扉を押し開けた瞬間、冷たい空気が顔に当たった。
「……出た」
そこは王城の内側だった。
巨大な中庭。
半分崩れた回廊。
枯れた噴水。
石像。
空には夜が広がっている。
振り返れば。
王都の建物が、城壁の向こうまで続いていた。
「地下から城まで繋がってたのか」
思ったより。
かなり奥まで来ている。
王城の正門は、もう背後だ。
「結果的には近道だったな」
そう言って。
一歩。
進む。
その瞬間だった。
シルヴァの右手が。
反射的に剣へ伸びる。
「……」
何かいる。
いや。
いるのは分かっていた。
ここまで近づけば。
嫌でも感じる。
城の奥。
重い。
巨大なオーラ。
ラースとは違う。
ラースのオーラは鋭い。
触れた瞬間に身体ごと凍らされるような、冷たく尖った圧力。
今感じているものは。
もっと。
重い。
動いていないのに。
前へ進むだけで押し返されるような。
「……こっちか」
シルヴァは王城を見上げた。
迷う必要はなかった。
◇
城内。
廊下には。
死者の兵士が並んでいた。
十人。
二十人。
その全員が。
シルヴァを見る。
けれど。
襲ってこない。
「通っていいのか?」
返事はない。
シルヴァが一歩進む。
それでも動かない。
さらに。
二歩。
三歩。
「……歓迎されてる?」
冗談半分に言う。
その時。
左側。
一人の兵士が口を開いた。
「陛下が待っている」
シルヴァが止まる。
「俺を?」
「剣を持つ者を」
「……なるほど」
やはり。
あの門番と同じ。
強者を拒まない。
それがこの国の。
いや。
ヴェルグという男の考え方なのかもしれない。
「じゃあ案内してくれる?」
「正面へ」
兵士はそれだけ言った。
シルヴァは苦笑する。
「分かりやすいな」
◇
王城は。
死んでいなかった。
壊れてはいる。
天井が崩れた部屋。
壁の裂けた廊下。
剣痕の残る柱。
焼けた床。
それでも。
明かりがある。
兵士が歩いている。
使用人らしき死者が床を掃いている。
厨房では。
誰も食べない料理を作っている者までいた。
「ここも同じか」
王都と。
変わらない。
滅びた国の。
日常だけが。
繰り返されている。
シルヴァは通り過ぎる。
やがて。
大きな扉へ辿り着いた。
左右。
兵士。
四人。
全員。
立ったまま。
「この先?」
シルヴァが聞く。
中央の兵士が答える。
「謁見の間」
もう一人。
「陛下がお待ちだ」
巨大な扉が。
ゆっくり。
開いていく。
ギィィィ……。
その隙間から。
強い風が吹いた。
シルヴァの白銀の髪が揺れる。
「……風?」
城内なのに。
風がある。
いや。
謁見の間の。
奥。
壁がない。
崩れている。
夜空が。
そのまま見えていた。
シルヴァは。
中へ入った。
◇
広い。
かつては何百人も入れたのだろう。
左右に太い柱。
床には。
長い赤い絨毯。
色は。
ほとんど消えている。
奥。
階段。
その上。
王座。
そこに。
一人の男が座っていた。
大きい。
けれど。
巨人のような体格ではない。
鍛え抜かれた。
剣士の身体。
古い時代の黒銀の鎧。
長い外套。
横には。
一本の剣が立て掛けられている。
派手な装飾はない。
ただ。
刃の厚みだけで。
普通の剣ではないことが分かる。
そして。
男は。
生きているように見えた。
肌に腐敗はない。
瞳にも。
他の死者のような濁りはない。
「……お前が」
シルヴァが呟く。
男が目を開く。
低い声。
「名を名乗れ」
部屋そのものが。
震えたように感じた。
シルヴァは。
王座を見上げる。
「シルヴァ」
一拍。
「シルヴァ・ライズ」
男の目が。
僅かに細くなる。
「剣士か」
「一応」
「一応?」
シルヴァが剣へ手を置く。
「俺は風も使うから」
「そうか」
男が立ち上がった。
その瞬間。
圧力が。
増した。
「……っ」
シルヴァの外套が。
風もないのに。
僅かに揺れる。
男は。
階段を下りる。
一段。
一段。
静かに。
「我が名はヴェルグ」
最後の一段。
「この国の王だ」
シルヴァが目を細める。
「剣王ヴェルグ」
「そう呼ぶ者もいた」
「死んだはずの?」
ヴェルグの足が止まる。
怒るかと。
少し思った。
だが。
違った。
「死んだ」
即答。
シルヴァが僅かに驚く。
「覚えてるのか?」
「忘れる理由がない」
「自分が死んだことも?」
「ああ」
「国が滅びたことも?」
「ああ」
ヴェルグは。
何の躊躇もなく答える。
シルヴァが周囲を見る。
「じゃあ何で」
王都。
死者。
兵士。
鍛冶師。
商人。
「こんなことしてる」
ヴェルグの目が。
初めて。
少しだけ。
鋭くなる。
「国が滅んだからだ」
「……?」
「滅んだのなら」
一歩。
進む。
「再び築けばよい」
シルヴァは。
言葉を失う。
ヴェルグは続けた。
「城が崩れたなら積み直す」
一歩。
「兵が死んだなら立たせる」
一歩。
「民が消えたなら戻す」
そのたび。
圧力が近づく。
「王が死んだのなら」
ヴェルグは。
自分の胸へ手を置く。
「王が戻ればよい」
「……それで国が元に戻ったと思ってるのか?」
ヴェルグの足が止まった。
シルヴァが言う。
「あいつら」
城の外を見る。
「昔やってたことを繰り返してるだけだ」
「それが何だ」
「何だって」
「兵は戦う」
「……」
「鍛冶師は剣を打つ」
「……」
「農民は土を耕す」
ヴェルグは。
当たり前のことを話すように言う。
「国とは」
一拍。
「役目を果たす者の集まりだ」
シルヴァの眉が。
僅かに寄る。
「生きてなくても?」
「生死など」
ヴェルグの声は変わらない。
「国の前では些事だ」
「俺はそう思わない」
「だろうな」
すぐ返ってきた。
シルヴァが少し驚く。
「否定しないのか」
「お前は我が民ではない」
「じゃあ気にしない?」
「違う」
ヴェルグが。
横に立て掛けていた剣へ手を伸ばす。
「己の考えを通したいなら」
柄を握る。
「剣で通せ」
シルヴァの目が。
少し開く。
そして。
口元が。
僅かに上がった。
「……なるほど」
分かりやすい。
確かに。
ラースが来たがる相手だ。
「じゃあ」
シルヴァも。
剣を抜く。
風が。
足元へ集まる。
「話は早いな」
ヴェルグが。
剣を持ち上げた。
構え。
それだけ。
なのに。
シルヴァの笑みが。
消えた。
「……」
隙が。
ない。
特別な構えではない。
剣先も。
普通。
足幅も。
普通。
なのに。
どこから入っても。
斬られる。
そんな感覚がある。
「来い」
ヴェルグが言った。
シルヴァは。
地面を蹴る。
同時に。
風。
一気に。
間合いを消す。
正面。
剣。
右。
ヴェルグの首へ。
振る。
ガンッ!
「っ!?」
止められた。
いや。
違う。
ヴェルグは。
受けていない。
シルヴァの剣の根元。
最も力が乗り切る前。
そこへ。
自分の剣を。
置いただけ。
「軽い」
ヴェルグが言う。
「まだだ!」
シルヴァが手首を返す。
剣を滑らせる。
身体を沈める。
左。
脇腹。
だが。
そこにも。
剣がある。
ギン!
「……!」
二撃目も。
止められる。
シルヴァは。
すぐ退かない。
右脚。
蹴り。
ヴェルグの膝へ。
しかし。
ヴェルグが半歩引く。
避ける。
そのまま。
剣の柄。
シルヴァの顎へ。
「っ!」
風。
身体を後ろへ。
ぎりぎり。
避けた。
その瞬間。
「遅い」
ヴェルグの剣が。
横へ。
シルヴァの目が。
見開く。
風。
さらに。
加速。
後ろへ飛ぶ。
ザンッ!
黒い外套が。
裂けた。
胸。
浅い。
血。
シルヴァは。
十歩ほど離れて着地する。
「……は」
胸へ触れる。
切れている。
「速っ……」
「違う」
ヴェルグが言った。
「お前が遅いのではない」
剣を。
静かに下ろす。
「先が見えているだけだ」
シルヴァの目が。
細くなる。
「未来でも見えるのか?」
「必要ない」
「じゃあ何」
「剣士は」
ヴェルグが構える。
「斬る前に動いている」
足。
肩。
腰。
目。
呼吸。
重心。
「それが読めぬ者を」
一拍。
「剣士とは呼ばぬ」
「……そういうことか」
シルヴァの中で。
何かが。
少しだけ熱くなる。
強い。
それも。
能力で。
押し潰してくる強さではない。
剣。
ただ。
それだけで。
こちらの攻撃が。
通らない。
「面白い」
シルヴァが。
剣を握り直す。
ヴェルグの目が。
僅かに変わる。
「笑うか」
「強い奴と戦ってる時くらい」
一歩。
「笑うだろ」
風。
今度は。
真正面ではない。
右。
そこから。
空中。
足元に風。
軌道変更。
左上。
さらに。
剣。
斜め。
ヴェルグが。
受ける。
ギン!
シルヴァは。
その反動を使う。
空中で身体を回す。
蹴り。
肩。
ヴェルグが。
頭を僅かに傾ける。
避ける。
だが。
「そこ!」
蹴りの風圧。
逆向き。
シルヴァの身体が。
再び。
ヴェルグへ戻る。
剣。
下から。
顎へ。
ガン!
また。
止められる。
「悪くない」
「まだ!」
今度は。
剣を引かない。
押す。
風。
刃と刃の間。
爆発的に。
放つ。
ドン!
ヴェルグの身体が。
僅かに。
後ろへ滑った。
「……」
初めて。
一歩。
「動いた」
シルヴァが笑う。
ヴェルグが。
自分の足元を見る。
そして。
再び。
シルヴァへ。
「風使いか」
「ああ」
「よい」
ヴェルグの。
口元が。
僅かに。
上がった。
「もう少し見せろ」
次の瞬間。
消えた。
「っ!?」
違う。
速い。
正面。
シルヴァの目の前。
ヴェルグ。
剣。
「くっ!」
受ける。
ドンッ!
腕。
痺れる。
「重っ……!」
二撃。
左。
シルヴァが受け流す。
三撃。
上。
風。
身体をずらす。
肩を。
刃が掠める。
四撃。
「――!」
見えた。
右。
そう思った。
だから。
剣を。
そこへ。
しかし。
ヴェルグの刃は。
左から来た。
「な――」
ドッ!
腹。
剣の柄。
シルヴァの身体が。
浮く。
そのまま。
蹴り。
胸。
吹き飛ぶ。
「がっ!」
床。
一度。
跳ねる。
転がる。
「……っ」
止まる。
息が。
一瞬。
入らない。
それでも。
シルヴァは。
すぐ膝をつく。
「何だ今の……」
ヴェルグは。
追わない。
「目だけで追うな」
シルヴァが顔を上げる。
「……教えてくれるの?」
「弱いままでは」
剣を向ける。
「斬る価値もない」
「言ってくれるな」
シルヴァが立つ。
腹。
痛い。
肩。
血。
それでも。
まだ。
動ける。
「じゃあ」
剣を構える。
「価値あるくらいまでは」
風が。
足元で。
渦を巻く。
「付き合ってもらう」
ヴェルグが。
静かに。
笑った。
「来い」
その夜。
死者の王城で。
風使いの剣士と。
死した剣王の戦いが。
本当に始まった。




