消費者である我々
下には過去が写る。上に写るのは未来の情報ならば、ここにあるのはその彼岸の消費者である我々だ。我々が消費を怠る以上そこに、自由意志など無いのだ。
その言葉は、研究室の壁に薄く浮かび上がっていた。誰が書いたのか、いつからあったのか、誰も知らなかった。ただ、そこにあった。白い蛍光灯の下で、文字はわずかに揺れているように見えた。
私はそれを初めて見たとき、笑った。笑いながら、指でなぞった。インクは乾いていて、指に何もつかなかった。それでも、なぞった跡だけが、妙に熱を持っていた。
私の名前は、時枝 透。国立時空観測研究所の末端研究員だ。専門は、非線形時間場の可視化。つまり、時間そのものを「見る」ための装置を、どうにかして動かす仕事だ。成功例は、まだ一つもない。失敗例は、山ほどある。
装置の名前は「鏡面」。正式名称は「双方向時間反射観測装置・試作七号」。略して鏡面。研究室では、ただ「鏡」と呼んでいた。
鏡面は、研究室の中央に据えられた、高さ二メートルほどの黒い直方体だった。表面は完全な鏡ではなく、わずかに曇ったガラスのように、奥行きを感じさせる。電源を入れると、中央から上下に二層の像が浮かぶ。下層には、観測者の過去が流れる。上層には、観測者の未来が流れる。中央の薄い帯だけが、現在を映す。
理論上は、そうだった。
実際に電源を入れた人間は、まだ一人もいなかった。試作一号から六号までは、すべて起動前に内部回路が焼損した。原因不明。報告書には「エネルギー過剰流入」とだけ記されていた。
七号は、前回の焼損データを基に、エネルギー吸収層を三倍に厚くした。それでも、起動ボタンを押す勇気のある人間はいなかった。誰もが、報告書の「エネルギー過剰流入」という言葉を、ただの技術的失敗だと片付けていた。誰も、その言葉の奥にあるものを、考えようとしなかった。
私だけが違った。
壁の文字を見てから、三日後、私は一人で研究室に残った。夜の十一時。空調の音だけが、低く響いている。私は鏡面の前に立ち、起動シーケンスを入力した。
電源が入る。低い振動が床を伝う。黒い表面が、ゆっくりと光を帯び始める。まず下層が、ぼんやりと白くなった。次に上層。最後に中央の帯。
下層に映ったのは、私の過去だった。
三歳の誕生日。母親がケーキにろうそくを立てている。ろうそくの炎が揺れている。私はそれを見て、笑っている。次に、十歳の夏休み。川で足を滑らせ、頭を打った瞬間。血が水面に広がる。十六歳の受験勉強。机の上に広がる赤ペンの跡。二十二歳の研究室配属。先輩に「お前みたいなのが来ても役に立たない」と言われた瞬間。そして、三日前。壁の文字を指でなぞった自分の手が、そこにあった。
過去は、正確だった。一ミリも違わなかった。
上層に映ったのは、未来だった。
私は、鏡面の前に立ったまま、動かなくなっていた。口から血が流れている。目は開いたまま、何かを見ている。床に膝をつく。手をつく。そのまま、前に倒れる。倒れた後、数秒して、鏡面の表面が真っ赤に染まる。そして、映像は途切れる。
私は、上層を見た瞬間、息を止めた。
これは、私の死だ。
しかも、近い。非常に近い。
私は後ろを振り返った。研究室には、誰もいない。扉は閉まっている。窓の外は、夜の闇だ。時計を見る。十一時十七分。上層の映像では、私の腕時計が、十一時四十二分を指していた。
二十五分後。
私は、その場に座り込んだ。膝が震えていた。心臓が、耳の中で鳴っていた。我々が消費を怠る以上そこに、自由意志など無いのだ、と壁の文字は言っていた。消費を怠る。何を消費しなかったというのか。時間か。エネルギーか。それとも、自分自身か。
私は、鏡面の電源を切ろうとした。指が、ボタンに届かない。指先が、まるで別の意志に従って、ボタンから離れていく。
私は、声に出して言った。
「これは、ただのシミュレーションだ。未来は確定していない。私はまだ、消費を続けている」
誰に向かって言っているのか、わからなかった。自分にか、鏡面にか、壁の文字にか。
下層の映像は、私の言葉をそのまま映した。上層の映像は、何も変えなかった。私は、二十五分後に死ぬ自分を、じっと見つめ続けていた。
十一時二十分。
私は立ち上がり、研究室の扉に向かった。扉を開ける。廊下は暗い。非常灯だけが、赤く点いている。私は走った。階段を駆け下り、一階の警備室に向かう。警備員に「誰か呼んでくれ」と叫ぶつもりだった。だが、足が動かなくなった。
正確には、足は動いていた。ただ、方向が違った。私は、研究室に戻る方向に、歩いていた。自分の意志ではなかった。足が、勝手に戻っていた。
「やめてくれ。私はまだ消費している」
私はそう言った。誰に。エネルギーにか。怠った消費にか。
壁の文字が、頭の中で繰り返される。
下には過去が写る。上に写るのは未来の情報ならば、ここにあるのはその彼岸の消費者である我々だ。我々が消費を怠る以上そこに、自由意志など無いのだ。
消費者。
我々は、消費している。何を。時間を。エネルギーを。意志を。だが、怠った瞬間、すべてが固定される。
私は研究室に戻り、鏡面の前に立った。上層の映像は、変わっていなかった。私は、そこに映る自分の死を、ただ見ていた。血が流れる。膝をつく。倒れる。鏡面が赤く染まる。
十一時三十五分。
私は、ポケットからスマートフォンを取り出し、研究所の緊急回線にかけようとした。指が、番号を押さない。画面を見下ろすと、電話アプリではなく、メモアプリが開いていた。そこに、何かが書かれていた。
「お前は、すでに消費を怠った」
私は、その文字を消そうとした。消せなかった。指が、画面の上を滑るだけで、文字は残った。
十一時四十分。
私は、鏡面に手を伸ばした。表面は冷たかった。指先が触れた瞬間、下層と上層の映像が、同時に揺れた。過去と未来が、一瞬だけ交錯した。三歳の私の笑い声と、死にゆく私の荒い息が、重なった。
そして、中央の帯が、初めて動いた。
中央には、現在が映るはずだった。私の顔が、そこにあった。だが、私の顔ではなかった。私の顔の奥に、別の何かがいた。黒い影のようなもの。形は定まらない。ただ、意志だけがあった。
影は、私を見ていた。いや、私を通して、何かを見ていた。
「お前は、消費者だ。だが、消費を怠った」
声がした。耳ではなく、骨の中で響いた。
「エネルギーは、お前を通して、自分を見ている。過去を消費し、未来を消費し、現在を消費している。お前がそれを怠った瞬間、自由意志など、最初からなかったことになる」
私は、答えようとした。喉が動かなかった。
十一時四十二分。
上層の映像と、現実が重なった。口から血が流れ始めた。痛みはなかった。ただ、熱かった。体の中で、何かが燃え尽きていく感覚。膝が折れた。手が床についた。視界が、赤く染まる。
倒れる直前、私は鏡面の表面を見た。そこに映っていたのは、私の死ではなかった。私の死の向こうに、別の何かがあった。無数の人間が、同じように倒れている。研究室で。街で。部屋で。全員が、同じ時刻に、同じように、血を流して倒れている。
そして、その全員の背後に、同じ黒い影が立っていた。
影は、満足そうに、揺れていた。まるで、怠った消費を、ようやく回収し終えたかのように。
私は、床に顔をつけた。視界が暗くなる。最後に聞こえたのは、壁の文字が、静かに囁く声だった。
下には過去が写る。上に写るのは未来の情報ならば、ここにあるのはその彼岸の消費者である我々だ。我々が消費を怠る以上そこに、自由意志など無いのだ。
そして、すべてが消えた。
——
三日後、研究所は封鎖された。鏡面七号は、内部から完全に溶解していた。残留エネルギーは、測定不能。壁の文字だけが、以前と同じ場所に残っていた。誰も、それを消そうとしなかった。
報告書には、こう記された。
「被験者・時枝透、急性心不全により死亡。死因は不明。装置起動時のエネルギー過剰流入が疑われるが、詳細は不明。」
報告書の最後の一行だけが、誰かの手で、小さく書き加えられていた。
「消費を怠った者から、順に回収されている。」
その後、研究所の地下倉庫に、鏡面八号が運び込まれた。電源は、入っていない。表面は、黒い。誰も、触ろうとしない。
だが、夜になると、誰もいない研究室で、壁の文字が、わずかに光ることがある。
下には過去が写る。上に写るのは未来の情報ならば、ここにあるのはその彼岸の消費者である我々だ。我々が消費を怠る以上そこに、自由意志など無いのだ。
その光は、まるで、次の怠った消費者を探しているように、揺れている。




