座標に僕はあるのか
この世界の管理者はバランスを考えている。無というものがどこの座標にあるのか、つまり私が意識を失う時に他者の意識を持つものがエネルギーを消費しなければならない。何のエネルギーか、繋がりのバランスをとるエネルギーだ。
私はそれを、意識の端で聞いていた。
正確には「聞いていた」わけではない。音も言葉もなかった。ただ、頭の奥のどこかで、冷たい計算が流れているのを感じた。管理者——その存在が本当にいるのかどうかさえ、私にはわからない。ただ、この世界のどこかに「バランス」という名の天秤が置かれていて、それが傾くたびに誰かが代償を払わされている、という感覚だけが確かだった。
私の名前は、もう思い出せない。いや、思い出す必要がないのかもしれない。意識を失う直前の人間に、名前など必要ない。
病室の天井は白く、蛍光灯が規則正しく明滅していた。機械の音が規則正しく響く。心拍モニターの音が、私の存在を証明しているようで、かえって疎ましかった。
「……まだ繋がってるね」
隣のベッドから、低い声がした。同じ病室の、意識のある患者だ。名前を聞いたことがある気がするが、もうどうでもよかった。
「繋がってるって、何が」
私はぼそぼと答えた。声が掠れている。
「あんたの意識と、外の誰かの意識だよ。管理者がさ、バランス取ろうとしてるんだ。あんたが消えそうになると、向こうがエネルギーを食う。繋がりを維持するためのエネルギーを」
男は天井を見ながら続けた。
「無っていう座標、あるんだよ。ここじゃないどこか。あんたがそこに落ちると、こっち側の誰かが、強制的にエネルギーを消費させられる。家族とか、恋人とか、あるいは全く見知らぬ他人とか。たまたま糸が繋がってる奴らが」
私は目を細めた。
「それで、何がどうなる」
「わからない。ただ、消費された側は、少しずつ薄くなる。記憶が曖昧になったり、感情が鈍くなったり、あるいは急に体調を崩したり。管理者はそれを『バランス』と呼んでるらしい」
男は乾いた笑いを漏らした。
「ふざけた話だろ。生きてるだけで、誰かに負担かけてるってんだから」
その夜、私は夢を見た。
あるいは夢ではなかったのかもしれない。
暗闇の中に、無数の細い糸が浮かんでいた。糸の一端は私の胸に、もう一端は遠くの、見知らぬ人々の胸に繋がっている。糸は淡く光り、時折、脈打つように明滅する。
その中央に、大きな天秤があった。
片方の皿には「存在」、もう片方には「無」。
私の意識が薄れるたびに、存在の皿が軽くなり、天秤が傾く。すると糸が震え、どこか遠くで誰かが息を詰める音がした。
——エネルギーを、消費しろ。
声ではない、命令だった。
糸の一本が赤く熱を持ち、誰かの記憶が削れていくのがわかった。幼い頃の匂い、誰かの笑い声、好きだった音楽のメロディ。それらは音もなく消え、代わりに私の意識がわずかに安定した。
私は糸を掴もうとした。しかし手がすり抜けた。
「やめろ」
私は叫んだ。声は暗闇に吸い込まれた。
「私を消してくれ。繋がってる奴らを、これ以上消費するな」
天秤がわずかに揺れた。管理者の視線のようなものが、私を捉えた気がした。
——バランスを壊すな。
それだけだった。
翌朝、私は目を覚ました。
モニターの音は安定していた。隣の男はもういなかった。ベッドが空いていて、シーツだけがきれいに畳まれている。
看護師が静かに言った。
「昨夜、急変して……。ご家族に連絡は取りました」
私は何も答えなかった。
窓の外では、朝の光が普通に差し込んでいた。世界は何事もなかったかのように回り続けている。誰かが意識を失い、誰かがエネルギーを消費し、誰かが薄くなり、それでもバランスは保たれている。
私は天井を見上げた。
無の座標は、どこにあるのだろう。
そこに落ちれば、本当に全てが終わるのだろうか。それとも、落ちた瞬間に、別の誰かが新たに糸を結ばされてしまうのだろうか。
私はゆっくりと手を伸ばし、自分の胸に触れた。
まだ、糸は繋がっている。
細く、熱く、静かに脈打っている。
管理者はバランスを考えている。
そして私は、そのバランスの上で、まだ消えていない。
消えないまま、誰かを消費し続けている。
その事実だけが、今の私にとっての、唯一の座標だった。




