第三十四話 壁のシミ「ジョニー」
「じゃ、そろそろ寝るね。おやすみジョニー」
私はクローゼットの扉に向かって挨拶をした。二ヶ月前にできた友人への、就寝の挨拶である。
彼は心なしか縦長の目を細め笑った気がした。
ジョニーはシミである。
私の部屋には小さなクローゼットがあり、そのすぐ横に布団を敷いている。
横になると自然と視線がその扉に向かうのだが、そこに顔に見えるシミが浮かんできたのだ。
縦に長い楕円形が三つ合わさったようなシミで、人面に見える。ムンクの名画「叫び」の人物のような表情をしており、長くそれを見つめているうちに愛着が湧いてきた。なにしろ寂しい一人暮らしである。
私はシミに「ジョニー」と名付け、話しかけるようになった。名前をつけることでますます親しみを覚えるのだから不思議なものだ。
話すのは主に仕事の愚痴である。
「ねぇジョニー聞いてよ。うちの係長って昼ごはん食べに外に出るんだけどズルくない? 休憩中に電話とるのはこっちなんだから」
「ねぇジョニー聞いてよ。先輩がさぁ、私の爆弾おにぎり見て『なんて家庭的でない飯だ』って言うんだけど、そんなこと言うヤツなんてこっちからお断りだわ。ね、ジョニーもそう思うよね?」
ジョニーは私の言葉を遮ることなく、ただ黙って聞いていてくれる。
ジョニーとの(一方的な)対話は毎晩の習慣となっていった。
そんなある日。
仕事から帰宅した私の耳は、ドアを開けた瞬間に「うわっ!」という声と何かの物音をとらえた。
どうもクローゼットの方から聞こえたようである。
考えられるのはただ一つ……
ジョニーに命が宿ったのだ!!
靴を脱ぐのももどかしくクローゼットの前に向かう。
「ジョニー? ジョニーなのね?! あなた今しゃべったでしょ?!」
シンとしている。諦めきれない私は話しかけ続けた。
「ねぇジョニー……ただの扉のシミだったあなたに話しかけ続けて、もう二ヶ月になるわ。命が宿ってもおかしくない頃合いよ」
それでも返事はない。
「恥ずかしがらなくてもいいのよ、さぁ……! さぁ……!!」
すると数秒後、クローゼットからくぐもった声がきこえたのだ!
「僕は……ジョニー……」
私は飛び上がって手を叩いた。
「嬉しいわジョニー! 早速聞いてくれる? 今日ね……」
私は本日の愚痴を長々とぶちまけた。ジョニーが「わかるぅ」「だよねぇ」「かわうぃ〜」などと的確な返事を耳に心地よい低音ボイスで囁いてくれるので、ついついいつもより長い時間話しかけ続けてしまった。
いつしか私は眠っていた。
夜風に顔を撫でられ跳ね起き、急いでシャワーを浴びた。
そして残念なことに、ジョニーの奇跡はその夜限定のことであったのだ。あれ以来、彼は声を聞かせてくれなくなった。
奇跡の夜から一週間が経った。
帰宅すると新聞受けに封筒が挟まっていた。取り出して開いてみる。
『あなたのことがとても心配です。それと戸締まりはしっかりと行いましょう』と書かれた紙切れと共に、中崎市内の心療内科のリストが封入されていた。
きっとジョニーからの伝言だ。
あまりにネガティブなことばかりを聞かせてしまった私を案じて、このような手紙を寄越したのだ。
なんて健気なジョニー、なんて親切なジョニー……。
私はあの夜の奇跡を忘れない。
それ以来、私はジョニーを心配させないように「最低賃金の引き上げが過去最大なんだって」などと、前向きな言葉を聞かせるようにしている。
そしてまたいつか声を聞かせてくれることを信じ、今日もジョニーに話しかけている。




