実験10
町に降り立った彼女達がまず向かったのはホテルだった。この町に存在するホテルのなかでも上等な部類の物の最上階である。そこで荷物を降ろすと、彼女達は次の目的地であるこの町の領主のいる場所へ向かい始めたのだが、そこでラジアータが不平を漏らした。
「めんどくさいですわ」
人の多い大通りを歩きながらラジアータはつまらなそうな顔をする。
「せっかくテアドールに来たのに最初にするのが『ご挨拶』だなんて。少しくらいお買い物とかしてからでも良いのではなくて?」
「招かれたら挨拶をする……貴族なら当然の事」
「招かれたって仰いますけど、今回テアドールに来たのは私がチケットを当てたからですわ。私への感謝はどこかしら」
それは随分と偉そうな顔だった。
そう、今回彼女達がテアドールに旅行をしに行くきっかけとなったのは、他ならぬラジアータがこの町で行われる劇のチケットを抽選で当てたからであった。あらゆる芸術の情報誌であるテアドール公式の雑誌を定期購読している彼女ならではの偉業である。
「まぁ……当たったのは私名義だけど」
そう、死んだことになっているラジアータには住所も何もあったものではない。現在も帽子やメガネで変装をしているしまつである。ラジアータはイベリッサの名前を(更に言えば屋敷にいた殆どの人物の名前を)勝手に使ったのだ。故に、間接的にでもチケットを当てることが出来たのはイベリッサの偉業である。
「リードさんには到着後に向かうことを既に手紙で伝えてありますから、今からそれを取り消すというのは難しいかもしれませんね」
「う……まぁリリアさんの手をわずらわせるつもりはありませんわ。ささっと終わらせて観光に行きましょう!」
「噂をすれば……もう到着」
彼女達がたどり着いた建物は、それ自体が一つの美術品であるかのような優美なものだ。
「大きいな。というかこの建物……」
デンカは視線を建物の入り口付近にある看板に移した。それをイベリッサは察して付け加える。
「美術館だよ……そこの看板に書いてある通りね」
「ここに領主の人が居るってこと?」
「いるというか……この建物は美術館でもあり領主の屋敷でもあるの。リードは領主であり……同時に館長でもある。ついでに言えば……この町の主要な劇場とかもリードの物」
「過労死しそうだね」
二人がそんな風に話していると、美術館の中から一人の女性が姿を現した。メイド服のような制服を着ている。
「ようこそいらっしゃいました。イベリッサ様、リリアドラス様ですね。リード様の元へとご案内いたします――と普通ならばするところなのですが。リード様は風変わりなお方でして、少々特殊な段取りを踏んでいただきたいと考えているのです」
「何……その段取りというのは」
「難しい事ではないのです。この美術館の中にある美術品の数々をご自由な順番で一時間から二時間ほど鑑賞していただければそれで」
ただし、とメイドは付け加えた。
「入館するのはお一人ずつ、入館ごとに数分の時間を置いて。中では極力立ち止まらないように、ですが」
「なぜそのような事をするのでしょう?」
リリアがそうたずねる。このような訪問の形式など、リリアの知る限りにおいて存在しない。
「その疑問に対する答えは……私が説明するよりも、リード様ご本人に説明していただいた方がいいでしょう。勿論、リード様とて現在のこの国の情勢は把握されていますから、どうしてもと仰るのであれば直接ご案内します。しかし、この国最大の美術館が貸切でご覧になれるこの好機を不意になされるのは、あまりお勧めできる事ではありません」
「そう……いいよ……その通りにしよう」
イベリッサがそう答えると、メイドはにっこりと笑って美術館の入り口を開けた。
「ありがとうございます。ではどうぞ、順番はご自由に決めてください」
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美術館の中に入ったデンカは軽く周囲を見渡し危険が存在しないことを確認すると、移動するよりも先に手首の小型端末を起動した。小型端末、と言っても腕時計ではなく携帯のような目映い光を放つものではない。ただその画面にいくつかの数値を表示するだけの簡素な物だ。
デンカ以外には理解しがたいように暗号化が施されてはいるが、これらの数値が表しているのはリリアの位置情報と心拍数である。
「よし、あっちか」
迷い無くその数字が指し示す方向へと向かう彼女の姿は、状況と世界が違えば完全に犯罪者のそれであった。
とはいえ、一時的にではあるがデンカがリリアと別行動を取ることに一切の不平を漏らさなかったのは、この機械の存在によるところが大きい。分かりやすく不審であるよりは分かりにくく不振である方がまだいいという物だ。
そうして、美術館だというのに脇目も振らずデンカは歩みを進めたわけだが(走っていないだけましである)ある程度進んだところで彼女は停止した。
「君」
そんな風に、一人の男に呼び止められたからだ。
これが、何人か途中で見かけた従業員らしき人物と同様の制服をしている男であったならば、デンカは聞こえなかった振りでもして通りすぎていただろう。
しかし、目の前にいた男の姿はそうではない。それを蔑ろにするほどデンカはリリアの体面に無頓着ではなかった。
「誰?」
問いかけながらデンカは男を観察する。
二十代後半と思われる男にしても長身の人物。腰まで届きそうな長い緑色の髪とその派手な服装は、さながら舞台に立っていた演者がそのままそこに降りてきたかのような印象を与えた。貸切にされているはずのその美術館の中で、そのような格好をしてうろつきうる人物に付いてデンカは一人しか心当たりが無い。
「私が誰かなどは、今この瞬間において意味も価値もない事だ」
しかし、男はそう言ってデンカの質問をはぐらかすと、何かに憑りつかれたかのような目でデンカの顔を覗き込んだ。
「重要なのは君の事だ。君」
「何?」
「ここは美術館でこの区域には主に絵画が飾られている。どれも名作だ。二つとない傑作の数々だ!」
叫びながら、今にも踊り出しそうな勢いで男は絵画を指し示した。そして間髪入れずにデンカに向き直ると、次は困ったような顔をした。
「ところが君はどうだ。まるで壁と絵画の区別がついていないみたいに、わき目すら振らずに歩いているじゃないか。散歩か? 散歩がしたいのか? 散歩がしたいなら外に行け! ――いいや! 散歩をするにしたってこの美術館は最適だ!」
怒り、嘆き、喜び、ころころと表情を変えているその男は実に感情表現の多彩な人物だった。彼が演者ならば、その舞台はこれ以上無いほどにドラマチックな作品な事だろう。
「わたしは芸術とかよくわからないんだよね」
そんな感情豊かな男に向かって、平然とデンカはそう言った。男が男ならば、デンカもまたデンカである。
今までの男の言動を考えれば逆上してもおかしくないような発言だと思われたが、意外にも男は冷静な様子で『ふむ』と頷いた。
「そういった勘違いに陥る人間は多い。だがそれは間違いだ。理解できない作品があっても、芸術が理解できないというのはあり得ない。感動を! 美しさを! 芸術を! 人は理解するために生まれてきたのだから!」
「……」
デンカは何を言うべきか考えあぐねていた。
さっさと話を切り上げてリリアの居る場所へ向かいたいというのが彼女の本音だったが、目の前の男の気迫がそれを許しそうには無い。
「私が君のその勘違いを正してやろう!」
そう叫ぶと、男は懐に手を入れ一枚の紙と一枚の筆を取り出した。
そして、男はそれをデンカに向けて差し出す。
「さぁ、描くが良い!」
「……私が?」




