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雲路の彼方 夢のあと④ 〔完〕


 時は流れて、ある寒い冬のこと。

 ここ一年病気がちであった於稲は、江戸の屋敷にいた。

 夫・信之は足繁く見舞いに訪れる。


「……そろそろ、京のおかたをお迎えしてはどうです」

「は?」


 帰り際、果てしなく唐突に言われた。

 寝具の上で体を起こしている於稲は、にこっと笑んでいる。

 信之は瞬いた。


「京の……とは。小野おののつうのことか?」


 お通というのは京都にいる信之の親友で、箏曲の演奏や書道に秀でた、巷ではちょっと名の知れた才女である。 

 於稲は笑顔のままこっくりと頷く。


「ずいぶん仲がよろしいとお聞きしましたが。城にお呼びしてさし上げた方が良いのでは」

「何を言っている。そなたがいない間に女を城に上げられるか」


 信之は真面目に言う。


「わらわに遠慮することはありませぬ。お迎え下され」


 ここまで言われて、やっと思い至った。於稲はつまり、お通を妻として迎えれば、と言っているのだ。


「馬鹿者、お通はただの友人だよ。妙なことを考えるな」

「向こうはそう思っておらぬかも?」

「あのな……」


 信之はため息をつく。そして妻の額をペチッと軽く叩いた。


「まったく、江戸など……。こんなところに塞ぎこんでいるから、そのような下らない考えになるのだ。病などさっさと治して、早く城に帰っておいで」


 そして微笑む。


「於稲がいないと、城の中がつまらなくて仕方ないよ」

「つまらなければ、お通殿をお呼びなさったら良い」  

「そなたでなければ意味がないと言うに」


 せっかくの甘い言葉をすげなく返されて、信之はしばし落ち込む。

 そして立ち上がった。


「明日から草津に療養に向かうのだろう? あそこは良い湯治場と聞く。ゆっくりしておいで」

「殿、本当に、お迎えして良いですからね」

「しつこいよ」


 まぁ、これだけ離れて暮らしているのだから、不安になるのは仕方のないことなのだろうが…


「また来るよ。その時は一緒に城に帰れるといいな」


 戸口に立ち、振り返る。


「では、くれぐれも体を大切に」

「殿も」


 於稲はにっこりと、目を細めて微笑んだ。


「お達者で……」


 いつになく柔らかく、可愛らしい笑みだった。




 一人になった部屋で、於稲は狭い蔀(窓)の向こうを見やる。


「……雪」


 優しく、白が降っている。

 細雪ささめゆきに思い出す。

 あの夜のこと。

 ともに幸せになろう、と言ってくれた。


(……でも、信之殿)


 あの日から、もうずっと。

 わらわは幸せであったよ。

 



 数日後、於稲は草津に向かう路の鴻巣(埼玉県)で静かに息を引き取る。駆けつけた信之は「我が家の灯火が消えうせたり」と嘆き哀しんだという。

 その後、彼は九十三歳という驚異的な長寿で大往生を遂げるが、件の小野お通を後妻として迎えることはついにしなかった。

 

 何事も 移れば かはる世の中を

   夢なりけりと思ひ知らずや

       


             真田信之 辞世の歌



 ……たとえ、夢でも。すべて幻であったとしても。

 夢はつながる、つづく、伝えられていく。

 生きた命、魂、気持ちぜんぶ。

 消えたりしない。

 真実はいつも、永遠をこえていく───


 未来へ続く、雲路の彼方まで。





最後までお読みくださり、ありがとうございました!

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