二十話 伊賀忍法「陰口快弁」
一行が山林を再び登るうちに陽はいくばくか輝きを弱めていた。夕焼けの赤い陽と代わるのはまだだが、その前段階であるぼんぼりの灯のようなあえかなものとなっていた。そのために木々が汗のように出す水に負け、じとりとなった森の中に目撃者たちは横二列に並べられた。山中がじとりとしているのもあるが、平らな土の上に気絶した人間が十数人も横たえられている光景は実に陰々としたものがあった。その光景を見下ろし、「ふむ」と呟いた四季右衛門は、
「こうなると、道を聞くにはあれをやるしかないな」
と言った。
隣に立っていた清十朗が「あれとは?」と聞いた。
「私の忍法だ。手間をかけるが清十朗、そうだな……そこの男をこちらへと運んでくれ」
答えた四季右衛門は元ソーラコア兵の男の一人を指さしたのち、背を見せてどこぞかへと歩み出した。歩み出しながら彼はまた言う。
「やるぞ、陰口快弁」
その背に「おい待て」と柔膳の声がかかった。
「どうせやるなら、こちらの者でやってくれ」
四季右衛門が振り返ると、膝を折った柔膳がある一人の人間を覗きこんでいた。それは村人たちの中に混じっていた若い娘であった。柔膳が薄笑みを浮かべた顔を四季右衛門に向ける。それは好奇心と少しばかりの加虐心のある妖しげなものであったが、しかしこれはこれで悪い子供がするようにウキウキしているとも見える笑いであった。四季右衛門は苦笑すると、
「いや、それは断る」
と言った。
柔膳は「なぜだ?」と案外な顔をした。
「お前の術は女にもかけられるだろうが」
「たしかに陰口快弁の対象に男女の区別はない。が、女しかかける相手がいないならばともかく、私はこの術をなるべく女にはかけぬことにしておる。それというのも私には女房がいるからだ。あれの手前、あまり他の女に触れたくはない。要するに、男の操立てだな」
このような理由を説明されてなお柔膳は「むう……」と心残りがあるようであった。四季右衛門がその不服を解きほぐすようなやわい笑みを向けて続ける。
「第一、お前とてあまりにもはしたない、あられもない、言ってしまえばあわれな姿を見ると、女が嫌になるであろうが」
「まあそれは……そうかも知れぬな」
未だ未練を残した感じはあるものの一応納得したのか頭を垂らした柔膳はこくこくと頷いた。それを見た四季右衛門は「納得したか? では猛蔵、そちらの処置は任せたぞ」と再び背を返して歩きだす。指定された男を抱えた清十朗はその背を追った。
二人は他の者たちが横たえられている場所から木を隔てて少し離れたところに立ち止まった。四季右衛門の「ここに」との声で清十朗が男を草の上に仰向けに横たわらせた。その前で片膝立ちになった四季右衛門が男の服を全て脱がせ裸にさせると、隣に着物袋を解いて広げる。
「陰口快弁、ですか」
と、道具を準備する四季右衛門を少し離れたところから興味深そうに見下ろしながら清十朗が言った。
「お前は見るのは初めてだろう。相手から情報を引き出すための術だ。そのために、これよりこの者の身を切って施術をほどこす」
四季右衛門が数種の針束や糸、これまたいくつかの種類の印籠など様々な道具を着物の上に整頓して並べた。並べているうちに四季右衛門は「しまった。肝心の小刀をうかと江戸に置いてきた」と漏らして清十朗を見上げた。
「お前の持っている柔膳の刀、それに小柄があるだろう。それを貸してもらおう。取ってくれ」
小柄とは鞘の刀の鍔が触れる付近に装着する小刀のことだ。これは別に忍者の暗器というわけではなく、何かを削ったり、ちょっとした日常の雑用をこなすために持つもので多くの武士が所有をしている。もちろん清十朗の刀の鞘にもついているが、しかし清十朗は四季右衛門の言いつけ通り、柔膳のものからそれを抜いて手渡した。四季右衛門は印籠から親指と人差し指で塗り薬を摘みあげ、その小柄の刃にスーッと指を這わせて薬を塗った。この淡い緑色の薬は何の薬なのだろう? 四季右衛門は塗られた薬を布ですぐに拭ってしまった。小柄を着物の上に置いた四季右衛門の準備は続く。彼は次に小柄に塗った薬を自分の手に満遍なく塗り伸ばしては口から風船のようなものを膨らませた。例の変装術のからくりとなっているあの肌色の風船だ。彼はそれを薬の塗られた手に向けて「ふっ」と吹いた。瞬間――パンッと音が鳴った。この工程はもう一方の手に向かっても繰り返された。口の中から出てきたものだから清潔感がどれほどのものかは疑問だが、これは平成現代でいう手術用ゴム手袋の代用に違いない。
これから行うという陰口快弁の施術――その支度を四季右衛門は終えた。
「では、これより施術を開始する。手早く済ませよう」
普段よりいっそう深沈となった目を男に落とし、独り言をつぶやいた四季右衛門はまず人差し指程度の長さの針束を手に取った。そしてそれらを一切躊躇なく男の身体に刺していく。傍から見ていた清十朗がこの行為の意味を解りかねて、驚き、やや困惑して目を見張った。四季右衛門の行っている行為――これは何かというと針を刺すことによって肉体の苦痛感覚を鈍感とする針麻酔であろう。清十朗が知らぬのも無理はない、効果の程もあまり定かではないマイナーな方法だが、知らぬはずの彼が――まあ、なにか意味があるのだろう。と、安心したほど四季右衛門の手際は素早く、手が止まるということがなかった。四季右衛門は人体のことをよくよく把握しているらしい。
四季右衛門の手並みに安心感を覚え、心を落ち着けた清十朗であったが、さすがに次の工程――いよいよ印籠の薬を皮膚に塗りつけては身体を切り開くという段階になると、咄嗟にいちど目を逸らした。それから時折、ちゅ、くちゅっ、と耳に入ってくるようになった粘るような音を聞きながら、ちらちらと目を戻していた清十朗がふと、
――そういえば、猛蔵どのたちは何をやっているのだろう? 前に言っていた物事を元に戻すという猛蔵どのの忍法とは?
と、想いを馳せた。ちらちらと見る限り、四季右衛門がどんな技術を発揮しているのか全くわからず勉強できることもないし、単刀直入に言って医療行為でもないのに人の体内に指が這っている様子がおぞましくなってきた清十朗がこの場を離れる口実を考えたのである。彼は四季右衛門の手元が狂わないようにおずおずと小さく声をかけた。
「四季右衛門どの……。拙者、何か手を貸すことはありまするか? 汗でも拭きますか?」
「いや、これぐらいのことで汗はかかぬ。借りたい手も……もはやないだろう」
と、平然たる表情の四季右衛門が手を止めずに言った。
「されば拙者、猛蔵どのたちの見物に行ってよろしいでしょうか?」
「おお、行って来い」
四季右衛門の言葉を受け、清十朗が先ほどの場所へと歩いていった。その場所では猛蔵が屈みこんで何やら目撃者の一人の頭髪をかき分けまさぐっており、その様子を地表に剥き出た太い木の根に腰かけた柔膳が頬杖しながら眺めていた。
「四季右衛門のほうはどうなった?」
近寄ってくる清十朗の気配を察知したか、作業を続けながら見る目も向けずに猛蔵が聞いた。
「今、陰口快弁の術を施しておられるところです。それで、猛蔵どのは何をしておられるのですか?」
「わしも今、術を施すための下調べをしておるところだ。ほれ、前に言った、こやつらを我らのことを知る前の状態に戻すというやつ、それをこれよりやる」
「あっ、それです」
気になっていたことはそれだと清十朗が声を張った。
「猛蔵どのの忍法秘奥は髪の毛を操るもののはず。それは知っておりました。しかし拙者の知る基本忍法はもちろん、その技ですら一度起こってしまった物事を元に戻す、すなわち過去に戻すなどという凄まじいことが出来ようとは拙者にはどうも思えませぬ。もしや、拙者の知らぬ別の忍法秘奥を習得しておられるのですか?」
「いや。わしの忍法はその通り、毛髪を我が意によって操るべし、というものただ一つだ。多くの忍者がそうであるようにな」
概して忍法の中でも秘奥といわれる人間の可能性の極限、いやそれを超えてしまっているような技の習得には、遺伝か或いは天来か、いずれにせよ生得的な才能とそれを物にするための厳しい努力が必要とされる。したがって基本忍法も覚えなければならない忍者たちが習得できる忍法秘奥の技は四季右衛門のような一部の例外を除いて一人ひとつが限度となる。
「だが物は使いようだ、たとえ十の技を持たずとも、一の技で十のことをやればいい。お前はどうもこの天下の流れに干渉し、物事が初めから起こらなかったように取り繕うと想像を働かせているようだが、わしがこれより干渉するのは時間ではなくこやつらの頭だ。こやつらの頭髪に細工をし、脳髄をいじくる。その結果として、こやつらには記憶をなくしてもらうのだ」
清十朗は心中でううむ、なるほど、と呻いた。物事をなかったことにするには記憶を消してしまえばいい。記憶を司るのは言うまでもなく脳だ。脳に程近い毛髪を操れる猛蔵ならば脳に干渉し、そんなことももしかすれば可能かもしれない。なんとなく筋は通っている。だが、なるほどと納得したはずの清十朗はすぐに、毛髪と脳の間には硬い頭骨があるし、そもそも髪を操って脳をいじくるとはどうするものか? と新たな疑問を浮かべた。疑念する清十朗の前で猛蔵は壺を取り出した。彼の荷から取り出されたそれは先ほど四季右衛門が使っていた印籠より一回りほど大きいだけの壺であった。
「この壺の中に入っているわしが調合した薬を使うとな、髪を逆向きに伸ばすことができるのだ。それによってこやつらの脳に干渉するぞ」
毛が伸びるメカニズムを簡単に説明しておく。毛はその根元に毛母という丸く膨らんだ部位を持っている。その毛母は内側に毛乳頭という部位を包んでおり、この毛乳頭は毛母が出す物質によって維持される代わりに毛母を活性化させてくれるのだ。そして活性化された毛母は細胞を増殖させていく――これが毛の伸びるメカニズムだ。もちろん、毛は一方方向、つまりは体外に向かって伸びる仕組みとなっており体内へと伸びていったりはしない。通常なれば――。猛蔵の調合したという薬、これを表出した毛に塗ると、ほんらい何の影響力も与えぬはずの毛の先端が毛母へと逆転的な反応を起こし、反応した毛母は毛乳頭へと普段とは性質の違う物質を出す。この物質を受け、狂った毛乳頭が連鎖的に毛母へと狂った影響を返すと、その結果として毛が体外と体内の双方向に向かって伸び始めるのだ。しかも急速に、その上、伸びる毛は頭骨を突き破るほど硬くなる。猛蔵はこの作用によって相手の脳に干渉することができるのであった。
猛蔵が壺の封である紐を解き、蓋を開けると、中に入っていた液体に精妙に動く自分の髪を浸した。耐性でもできているのか、この薬によって起こるべき作用は彼には起こらないらしい。で、髪を浸した彼はその髪を動かし、薬の浸されていない他数万の髪の毛によって眼前の男の頭部をかきわけ、ある部分に生えた髪数本に巻きつけては薬を塗った。まるで機械のように細心な作業であった。それからの変化は劇的であった。薬を塗られた男の髪の毛が数秒の内に針のようにへたれることなく伸び始めたのである。
「おっ」
と明らかなる異変に清十朗が目を見開いていると、猛蔵が伸びるその毛を手で引き抜いてしまった。抜かれた数本の毛はすげなく捨てられ、数瞬伸びたのちにふにゃりと柔らかくへたれた。抜かれたことで毛の細胞が死んだのである。
「これにて脳をツボを押すように刺し、様々な作用を引き起こすことができるというわけだ」
脳を刺す、と一言に言っても、脳とはその部位によって異なる機能を持つ人体中もっとも複雑な器官だ。そこに都合のいい作用を及ぼさせるとなれば刺す部位には一分のズレも許されない凄まじく精妙な選択が必要とされるであろう。驚くべきはその選択を成せるほどの知識よ――むろん猛蔵は脳や毛のメカニズムなどを平成現代風に理論立てて知っているわけではないだろう。しかし、多くの研究、実験、検証から導き出されたその知識を振るうさまは学者的であった。まさに――四季右衛門といい、この猛蔵といい、ふだん野山に住み、一見粗野な生活を送る忍者たちというものは一介の自然科学者といって間違いはなかった。
「これで……この者は記憶を失ったのですか?」
と髪を抜かれた男を覗きこんだ清十朗がおずおずと聞いた。
「あと二度別の部位に同じことをする必要があるが、それが終わればそうなる」
「ふうむ。ところで記憶を失うとは……全てのことを忘れるということですか?」
「いや、近時のものに限る。その辺りの調整は、わしがしておるからだ」
「……なるほど。いや、これは驚いた! まさか猛蔵どのの髪を操るという忍法に、このような使い道があったとは、拙者、思いもよりませなんだ」
「そうだろう? 物は使いようだ」
また同じことを言った猛蔵が機械的な素早さで男の髪の毛を抜いた。彼は話している間も作業を続けていたのである。十数人すべてに同じ作業をしなければならないため、とにかく彼も忙しい。そんな彼の急ぎ足の作業を少し離れたのち見物していた清十朗の背に、「そういえば」との声がかかった。柔膳の気だるげな声であった。
「お前、村の前で俺の忍法を見て驚いていたようだが、俺の忍法を知らなかったのか?」
「はい。知りませんでした」
ふり向いて清十朗が答えると、木の根に腰かけている柔膳は「ほおん」と気のない返事をしてとろりとした目を空に投げた。四季右衛門には提案を断られたことだし、他の二人と違いやることもなく、何とも退屈そうである。しかし数秒後、目を空に投げる柔膳の顔は次第に変じてきた。口はぐいと持ちあがり、目元が例の如く鋭くなってその瞳に悪戯っぽい色が浮かんできたのである。
「清十朗、お前もやることがなくて退屈だろう。俺の忍法にもちょっとした応用があってな、それを見せてやる故、そやつと四季右衛門の仕事が終わるまで俺と遊ぼうか」
猛蔵の作業を見るために向き直っていた清十朗が、忍法を見せてくれるというこの言葉に「えっ」と目を輝かせてまたふり向いた途端、「うっ」と息をのんだ。ニタニタとして自分を見やる柔膳に何か不穏な企てを感得したのである。
「遊ぶと申して……何をするのです?」
「俺の忍法をお前の身にかけるのだ」
「……。……いや、やはり拙者、ようござる。猛蔵どのの忍法を見物しております」
「ふふん。それは止めておいてやれ。猛蔵の気が散るし、お前に見られていることでそやつの手元が狂うかもしれぬではないか。それに、同じ任務を行う者同士、仲間の技を知らぬというのはどこかで差しさわりが生じよう」
清十朗が「ぐっ」と鉄丸を呑んだような顔をした。そして「やっ、それはそうですが、しかし……」としどろもどろに言葉を返す彼に柔膳がくつくつと笑って、
「まあそう邪険に扱うな。構ってくれよ。普段お前は伊賀、俺は江戸と離れて暮らしているのだから俺はお前と遊びたいのだ。久方ぶりに甥に会った叔父の如く。忍法をかけるにしても、先っちょだけ、先っちょだけだ。お前が嫌だとか痛いとか言えばすぐに止める」
清十朗は何とも困ったような表情をして黙り込んだ。
これまで見てきた通り自分の身にかけられるのは絶対に御免こうむりたい伊賀忍法だが、彼が断りの台詞を続けず黙ったのはたしかに先ほどの柔膳の言葉には一理あり、何より柔膳の忍法に強烈な興味を抱いているからである。ただそれでもやはり、遊びとはいえ自分の身にかけられることは気が進まないが、遊びであるだけに見せるにしてもここにいる目撃者たちを使って見せてくれとも清十朗には言い難かった。しばし眉根を寄せて悩み、ふいに鼻から大きく息を吐いた彼は結果として「わかりもうした。遊びましょうか」と苦笑して言った。
「よし!」と快然ひざを打った柔膳が立ち上がった。
「では、こちらへ行こうか。おおそういえば、刀を預けたままであったな。ありがとう」
「えっ。場所を変えるのですか?」
「そりゃそうだ。一応、猛蔵の邪魔とならないことが名目なのだからな」
清十朗は柔膳に刀を返しながら、何とも言えない表情を浮かべた。二人が連れ立ってどこかへ行こうとすると、屈みこんだまま横へ移動し、他の人物に対して作業を開始した猛蔵から背中を向けたままからかうような声がかかった。
「別に離れるのは構わんが、あまり遠くに行きすぎるなよ。例の山犬――お前のお仲間が迎えに来るかもしれんぞ」
「ふん、犬畜生と同じにするな」
と柔膳が軽く返して二人は木々の間をすり抜けて特に当てもなく歩きだした。歩きながら柔膳が隣の清十朗に話しかける。
「さて、俺の忍法だがな。お前ももう見たとおり、肉体を曲げるにあたって骨や関節に囚われず、加えて身を伸縮させることができるというものだ。奇しくも、前に見た山犬に似ておるな」
柔膳が開いた口からべろりと舌を出した。いや、べろりというよりそれはびろりと伸びて、蛇の舌というより赤い蛇そのもののように中空にくねった。
「ただ、あの山犬とは違って俺の場合はそれが全身に及ぶ」
舌を戻してそう言った柔膳が今度は首をニューっと数尺も伸ばした。この男ろくろ首は前方に生えている木の枝にまでさらに首を伸ばすとそこに生えていた小さな実を咥え込んだ。人間の身体が伸びるとは、何度見ても奇怪な光景である。一度見ているだけに声こそ上げないものの、それでも目を丸くしていた清十朗に向かって首を戻した柔膳が実を食いながらニヤリと笑った。
「つまり犬畜生とは違うというわけだ。まさに、俺は犬畜生とは違うぞ。これでもな」
柔膳は「ここでよかろう」と呟いて、実をもいだ木の根に腰かけた。
「それでここからが本題だが、俺はこの忍法を基本としてちょっとした応用をすることができる。さあ、手を出せ」
柔膳の前に立った清十朗は思わず手を出しかけたが、すぐに引っ込めて、「何をなさるのです?」とまず聞いた。
「ふふふ、それを言うては面白くなかろうが、さあ、まず手を出せ」
清十朗は注射でもされるみたいにぎこちなく左手を出した。すると、途端に柔膳が清十朗の袖を捲りあげながらその腕をガッと掴むや、口を尖らせていきなり何かを吹きかけた。
「あっ、なにをなさる」
と清十朗はうろたえた。何をされるのかと身構えていた彼は唾を吐きかけられたと思ったのである。しかし、その動揺も一瞬のこと――何を吹きかけられたかに気付いた清十朗は「これは?」と疑念からかえって冷静になった。吹きかけられても痛みはなく、常人ならば唾を吐きかけられたと勘違いしたままであっただろう。忍者の目に捉えられたのは蝶の触角よりも細く短い微小な針であった。柔膳がもう一方の手で清十朗の腕を払うと針は草に落ちて行方知れずとなった。
「これにて完了」
と微笑した柔膳はなおも清十朗の左腕を離さず、子供をあやすようにその腕をブラブラと上下に揺さ振り始めた。それから十秒か、二十秒ほど時間が経った。吹針を刺されたものの腕にも特に効果は見受けられず、清十朗はなすがままになりながら眉根を寄せて柔膳の顔を見た。
「特に何も起こりませぬが」
「そうかな? ほれ、効果が出てきたぞ」
柔膳に言われた清十朗が疑念顔のまま自分の腕に目を落とした。途端に彼は――
「あーっ!」
と叫びを上げた。驚愕の声を上げた彼は何を目にしたか? 当然、自分の左腕だ。ただそれが普通の状態ではなかった。柔膳によって上下に振られる腕が曲がっては折り畳まれ、肘の辺りに手の平またはその甲がぺたんぺたんと打ちつけられているのであった。手首が凄まじく柔らかい人間は珍しくもいるだろう。だが、このように骨があるはずの腕の半ばが曲がっては折り畳まれるというのは筆を揺らして曲がったように錯覚させるというものでもない真なる怪異に間違いなかった。しかも清十朗には骨が折れたような痛みは一切ないのだ。
「にゅ、柔膳どん。これは」
「これぞ俺の忍法の応用。俺の針を受けた者は軟体と化すのだ」
未だに腕を揺さぶりながら清十朗の顔を見る柔膳がしてやったりと楽しげに笑った。
「どうだ、驚いただろう?」
「お、驚いたも何もそれは当然驚いておりますが……しかしこれは元に戻るのですか? このままでは困るっ」
「安心しろ。こうすれば元に戻せる」
柔膳はもう一度針を吹くと指先に向かって自分の手を滑らせながら清十朗の腕を揉みほぐしていった。柔膳の手が離れたあと、清十朗が慌てて拳を何度か握り、腕を思い切り振ってみるも今度は曲がることはなかった。しきりに自分の状態を確認する彼の様子を見ながら柔膳が続ける。
「とまあ、俺の忍法はこういうわけだ。相手の身体を軟体にする。それだけといえばそれだけのものだが……しかしこれを全身に施すとな、肌は俺の身に餅の如く吸いつくようになり、声の方も柔美な響きを増して聞いて何とも恍惚とするものになるのだ……この法悦を味わえるのは俺だけだぞ……」
「むっ? 何の話です?」
「女の話だ」
「……。ああ……」
「やはり廓はいいな。こんなこと、女房にやっては怒られる。女房ではやらせてくれまい。そうだろう?」
「ううん……そうですなぁ。たしかに今のを全身にかけられるというのは怖いものがありますが、しかしそれは……ん? いやその前に、柔膳どのは今のを廓の者に見せておるのですかっ?」
「見せておるというか、かけておる。隙をついて秘密裏にな」
「いや駄目でしょう! 道徳的なことはさて置くとしても、忍法を易々と余人の目にさらすなど」
技術とは基本的に秘匿を理とする。武術である忍法ならばなおさら――いや、武術の中でも忍法はその使い手の性質上、特に秘匿するべしとされているものであった。それこそ里の皆に怒られるぞ、とばかりに声を上げる清十朗に柔膳は恬然と手を振った。
「大丈夫だ。何も知られてはいまい。秘密裏にかけておるし、その最中は心もグニャグニャしているものだからな。身体がグニャグニャになっていようとわからん、わからん」
「むぅ。本当ですか?」
「ああ。それにこの柔膳、そういう状態に導いているという自信は大いにある。だいたい、余人の目に出来得る限り晒さず、使うべきとき以外は秘匿にせよとの忍法だが、これを習得するまでの汗も苦鳴も枯れつくした艱難辛苦ぶりを思い出せば、こういうときに使わずしていつ使うというのだ? これでこそ苦労をした甲斐があるというもの。俺たちの人生はこの忍法にばかり占められているのだから、俺たちの人生の意義は忍法にしかない。ならばもっと人生の意義を表せよ。もっと人生楽しめよ……!」
と、らしくもなく熱っぽく言った柔膳は、言い切ったあと一転して頭を垂れて「……たしかにそのために不道徳となることはあるがな。だが所詮、それが忍者というものだ」と苦笑した。顔を上げた彼は続けて、
「ところで……お前、廓に足を運んだことはないだろう?」
「むっ? ま、まあ、ありませぬが」
「よし。では、猛蔵たちの方が終わるまで、俺が廓について教授してやろう。それで興味が出たら、江戸に帰ったときに連れて行ってやる」
「ええっ?」
「帰れば褒美の金が入るからな。これまで指をくわえて眺めるだけだった太夫だって買えるぞ。遊女とはいえ、太夫ともなれば大抵澄まして、もったいぶった顔をしておるからな。その顔が俺の忍法を受けて果たしてどうなるか? フッフッフッフッフ、それを思えば今から楽しみではないか。よし! まず、お前も座れ。それで廓というものはだな――」
「ああ、いやっ、それもいいですが柔膳どの。女人と言えば、柔膳どのはたしか江戸の城で大奥の警護に勤めておるのでしょう? そちらのほうはどのようなものなのです?」
「ん? ああ……」柔膳はいかにも嫌そうに顔をしかめた。「あれは退屈だな。何しろ将軍家の世継ぎ、すなわち若君ご生誕の要所だから気合を入れて仕事に励んでいる奴らが多いが、俺はそう思う」
「何故ですか?」そのような大任に憧れている節のある清十朗は意外そうに聞いた。
「上様とはいえ、他の男がそういうことをする場所を守らねばならんというのがそもそも面白くないが、場所が場所だけに仕事をするときは俺も緊張し続けざるを得ぬし、その上、警護をする際は身を隠し誰にも姿を見られてはならぬことになっておるからだ。御方々の目障りになってはならぬという理由でな。毎日特に大事が起こるわけでもないし、いくら忍者といえども人の目を気にしながら何事か起こらぬか物を見張るというのは疲れるわ」
「なるほど」と清十朗は真面目な顔で頷いた。
「第一、第一だ。そんな苦労をして警護する大奥――これは方々から家柄も容貌もいい深窓の美女を集めた場所であるわけだ。要は女の玉手箱だな。そんなものを前にただ見て、嗅ぎ、警護するだけとは……そりゃ廓にも行くわ!」
「なるほど」清十朗は顔を綻ばせて頷いた。
「そういうわけで廓の話だが――」
こう言って廓での作法や遊女の種類、中でもどの位の遊女は病気を持ってることが多く触れるに危険であるかなどの話に入っていった柔膳に清十朗は苦笑した。先ほどせっかく話を逸らしたのに、けっきょく廓の話に引き戻されてしまったのだ。こうなっては話に付き合うしかあるまいと清十朗は柔膳の隣の木の根に腰かけた。それに、今の苦労話を聞いて清十朗は廓話ぐらい付き合って差し上げようという心理になっていた。それから二人は廓話に限らぬ雑談を始めたわけだが、柔膳が話し上手なのかはたまた清十朗が聞き上手なのか、もしくは性根は真逆の感のある二人なのに相通じるところがあったのか、何だかんだで話は弾み、いつのまにか時間が経って陽が赤くなっていたころ、カラカラくつくつと笑っている二人の下に再び違う顔と変じている猛蔵と四季右衛門がやってきた。
「ここにおったか。おい、わしも四季右衛門も仕事は終わったぞ」
「おお、終わったか」
「ああ、かけた陰口快弁も解き終えたし、その者の記憶もしかと消した。そろそろ行くぞ」
四人は記憶を消した目撃者たちをあえて放置し山林を下りた。そして下りた彼らはなんと再び例の村を訪れ、今度は問題なく入ると目撃者たちの持ち物からくすねておいた小金で買い物を始めた。あのようなことがあったのに村を再訪し、あまつさえ村人たちからくすねた金でその村の食料を買うことをぬけぬけと行ったのだから、これは金をくすねてしまうという不品行さからくるもの以上の図太さをしていると言わざるを得ない。
だがその途中、店番をしていた若い村娘から、
「あら、兵士の人が来るなんて珍しい。どうしてこんなところにいらっしゃったの?」
と何の邪気もなさそうに聞かれた。が、四季右衛門から「清十朗。代わって誤魔化せ」とささやきかけられた彼がニコリと笑って誤魔化すと、村娘の目は動揺した。そのまま胸の前に手を組んでそわそわとし始め、何か言いたげだが口ごもっている様子の彼女からそそくさと四人は離れた。
「顔を変えているのに……。くくっ、後のことを思うと頼もしい奴。しかし、こやつを廓に連れていくのはある種問題かもしれんな」
何食わぬ顔で食料を買い終えた四人は村を出た。向かう先はいよいよ王都――。




