教室
ジンケとスグルが教室に入ると、ちょうど朝のホームルームが始まるところだった。クラスメイトは31人。少年少女たちは夜のうちに溜め込んだエネルギーを消費したくてうずうずしている。とにかく喋り、身をよじらせ、永遠の若さがはち切れんばかり。
すでに教卓に座っていた担任教師の木村は、二人の姿を認めると肩まで上下するほどの力強い頷きで一人の女子生徒に合図を出した。週刊日直の小林カホリだ。
「起立」「気をつけ」「おはようございます」「着席」
カホリが続けざまに号令する。艶のあるアルト。年齢にしては大人びた声。若干、気だるそうなところが男子たちの耳をくすぐる。
木村は実感していた。荘厳な朝の儀式。この神聖なひととき。つい先ほどまで静電気まみれの髪の毛のように散らばっていた子どもたちの意識が、最高級のつげ櫛を当てられたかのようにカチリとまとまる。その姿勢こそバラバラだが、少年少女たちの意識が木村の元に集結するのだ。この瞬間的な集中力。そしてこの昆虫群のような統制。木村の背筋はぞくっと凍り、同時に胸は熱く焼ける。まるで蝶のメタモルフォーゼだ。椅子と机のパーカッション。制服が奏でる衣擦れのストリングス。バックミュージックと共に子どもたちが生徒へと生まれ変わる。なんて美しいのだ。なんて神聖な空間なのだ。今年度から教職に就いたばかりだが、木村は既に確信していた。教師は天職だ。自分の選択は間違っていなかったのだと。
「ありがとう」日直に礼を言い、木村は続ける。「よし、いよいよ今日が二学期最後の授業だな。明日は授業がありません。時間割にもある通り、一日レクリエーションだな。そして、明後日が終業式です。だから、今日はしっかり授業に取り組むようにな。その方が冬休みを楽しめるからな。しっかりけじめをつけて、冬休みに入るようにしてください」
木村は話す。生徒たちがクスクスと忍び笑いを漏らす。その原因は知っている。「な」だ。木村が語尾に「な」を多用することを生徒たちは笑うのだ。だが、あえて直すことはしない。生徒が面白がってくれるなら、むしろ多用してやろう。陰でモノマネされたら大したものだ。一人前の教師、その一歩手前というところだ。尊敬を勝ち取るには親近感を得なくてはいけない。だからこそ「な」は都合が良い。いざとなれば「な」を封印すれば良いのだ。いつもの木村とは違うというところを見せつければ良いのだ。なんて安上がりな飴と鞭。
「じゃあ、先生の授業は五時限目の社会だからな。それまで他の先生の言うこときちんと聞くようにな。それでは今日も一日よろしくお願いします」
起立、気をつけ、礼。カホリの号令で教室は再び騒がしくなる。溜まりかねて「わっ」と弾け、ゴム鉄砲のように席から離れる。よくもここまでメリハリをつけられるものだ。しかし、中にはまだ電源が入っていない個体もいる。特に印象的なのは、寝癖のひどい小柄な少年。座ったまま動かない。伏し目がちだが、眠そうにも見えない。この子だけは、他と違う。まあ、それも個性だ。みんな違って、みんないい。教師木村は感心して、教室を後にする。
一日が始まろうとしている。