夢と現実の狭間
「ッ!?」
それは、あまりにも滑らかな動作だった。
覚悟どころか、死が訪れることすらどうでもいいと言わんばかりの……。
目を閉じたまま、何のためらいもなく、
――――伊藤は自らに向かって、引き金を引いた。
乾いた破裂音が響く。
脳漿が、ピンク色の肉片が、ザクロのように弾けた。
ぶちまけられた血が、コンクリートの床に醜悪なまだら模様を作る。
一瞬何が起きたのか、理解できなかった。
頬に、ぬめった音を立てて、何かがしたたり落ちる。
恐る恐る頬を拭うと……掌には伊藤の脳がべっとりと張り付いていた。
脳の欠片を、気のふれたように振り払う。
……猛烈な吐き気に襲われた。
伊藤の死体はビクビクと痙攣している。
頭が吹き飛んでいるんだ。生きているはずもない。
ただの筋肉の反応だ。
それが、分かっていてもガチガチと歯の根が合わない。
足元がおぼつかず、無様に震えが湧き上がってきた。
(い、いとう……。何でだ、なんで)
ふらふらと、首のないまま鉄格子にしな垂れかかっている、死体に、近寄る。
近づいても手当はできない。
それ以前に、奴は致命傷で、この上なく死んでいた。
まだ薄桃色を保った脳細胞が、俺に踏まれてびしゃりと潰れる。
何で、俺は、遺体を踏み荒してまで、伊藤に近づこうとしているんだろう。
わからない、分からない、分からない。
吐き気は収まらず、胃から、頭から、肺から、あらゆる器官が強烈な痛みを発し始めた。
現実を、受け入れられない。
数歩の距離を、のろのろ歩いて、無残な伊藤の死体の前に膝を付いた。
震える手で、伊藤に手を伸ばす。
頭がない、傷口は鎖骨付近までえぐれていた。
気付けば、びちゃびちゃと、気が触れたように、無いはずの頭を触ろうとして、傷口に手を突っ込んでかき回していた。
体中に感じる痛みは、どんどん強くなっている。
俺が撃たれたはずもあるまいし、馬鹿みたいだ。痛いのは伊藤だ。俺じゃない。
傷口に突っ込んだ手を引き抜いて、目が付くほど眼前に手を近づける。
血の臭いだ。鉄錆び、命が抜けたにおいだ。
本当に、伊藤は死んだ。
「ッ……!」
頭痛が酷い。耐えられない。
現実とも思えない現実に、脳みそが拒否反応を起こしているみたいだ。
したいと、ちのにおい、転がった銃、踏みつぶされた脳の欠片、……現実?
血まみれの手を気にする余裕もなく、頭を強く抱える。
指が食い込むほど強く抑えても、頭の中から刺される痛みの方が強かった。
(痛い痛い痛い痛い、……いたい)
「グッ……」
ひときわ強い痛みが押し寄せた。目も開けられない。
胎児のように頭を抱えて丸まる。
目を閉じているはずなのに、まぶたの裏がどんどん白くなっていく。
息もできない。
速く浅くなる呼吸が、どんどんか細くなっていく。
まるで、首を絞められているような圧迫感。
身体が痛い、頭痛が酷い、息もできない。
(死ぬ……)
死を覚悟した、正にその時、……死人の声がした。
「寝ぼけてんなよ、≪不発弾≫」
信じられない思いで、目を開く。
目の前に、吹き飛んだはずの伊藤の顔があった。
血の跡すら見当たらない、生気に満ちた風貌。
「い、伊藤? なんで……? っ!?」
喉が絞まる。
気管が圧迫されて、呼吸すら危うかった。
伊藤は、俺の襟元をつかんでギリギリと締め上げていた。
カッターシャツの襟が喉に食い込む。
はっ、はっ、と犬のような無様な喘ぎが止まらない。
震える手を持ち上げて、締め上げる伊藤の手を掴んだ。
空気が欲しくて、手を引きはがそうと力を込めるが、伊藤の手はすこしも動かなかった。
……力が入らない。
瀕死の猫が必死に爪を立てるような、弱弱しい抵抗しかできない。
死の予感に、意図せず、か細い悲鳴が口から漏れ出た。
酸欠で脈打つような痛みが、絶えず頭に押し寄せる。
耳鳴りが、やまない。
俺のうめき声を聞いて、伊藤はうるさそうに舌打ちし、無言で手を緩めた。
「っは……。ぐ、ゲホッ」
一気に流れ込む酸素が喉を焼く。
派手にむせた。
圧迫感は薄らいでも、伊藤は襟を掴んだまま俺を吊り下げていた。
「このまま死んだ方が楽だぜ、お前も俺も……。」
つまらなそうに伊藤は独りごちた。
「じょうだん、じゃ、ない……。死ぬのも、死なれるのも、ッ、ごめんだ。」
流れ込む空気に、喘ぎながら睨みつける。
生理的な涙が、つぅっとまなじりから流れ落ちた。
「……くだらねぇ。とんだ茶番だ」
興ざめと言わんばかりに、伊藤は今度こそ手を離した。
抗う体力もなく、俺は、無様にコンクリートの床に崩れ落ちた。
まだ、ままならない呼吸を必死に繰り返す。
痺れて力の入らない手足を叱咤して、何とか、仰向けに転がった。
貪るように呼吸を繰り返す。
苦しさで涙ににじむ視界には、夏の星々が広がっていた。
流れ落ちる生理的な涙を、腕でごしごしと拭った。
そのまま、目の上に腕を押し当てて、何度か深呼吸を繰り返す。
時間が必要だった。考える時間が。
深呼吸を繰り返す。頭の先から、つま先まで、気を巡らすように。
血が流れ始めたのか、頭がジンジンと痺れ始める。
鈍い頭の回転に反して、疑問は山積みだ。
死んだはずの伊藤が、なぜ生きているのか。
どこからが、現実で、どこからが、幻なのか。
おかしいのは、世界か、それとも……俺か。
ふと、思い出して、自分の手をじっと見る。
伊藤の血で濡れていたはずの掌は、今はさらりと乾いていた。
……夢か? 本当に誰も死んでいない?
「はっ」
こんな時なのに、笑いが漏れた。
疲れも死の危機も極限まで行くと、恐怖より笑いがこみあげるらしい。
――伊藤は生きている。まだ、取り返しがつかないわけじゃない。
肝心の伊藤を横目で探してみると、屋上の柵にもたれかかって、じっとこちらを見ていた。
ゆるゆると上半身を起こして、身体を向けた。
まだ立てるほど力が入らない。
足を投げ出して、左手を後ろ手について体を支えた。猫背ぎみの体勢だ。
伊藤が殴り掛かってきても、対応はできない。ただでさえ、瀕死のようなものだ、構うものか。
深く息を吐いて、頭を占める疑問を吐き出した。
「伊藤、どこからが夢だったんだ。お前は、自分の頭ぶち抜いて、死んだんじゃなかったのか? 俺に何をした?」
「質問は絞れよ。仮に俺が全部答えても、てめぇの頭じゃ一遍に理解できるわけねぇだろ」
伊藤は、めんどくさそうに銃を手元で弄んでいる。
「だが、そうだな。最後の質問は答えてやる。――お前、これが何に見える?」
伊藤は手元の銃を、俺に掲げて見せた。
「ライフル銃。それを使って、お前は、俺の目の前で自殺した。ついさっきのことだ」
じっと、その銃を見ていると眩暈がした。
また、現実と夢の狭間に落ちていく気がする。
その世界では、伊藤は胸元まで血肉がえぐれて、内臓が飛び散っていた。
今の、五体満足の伊藤の方が、夢とすら思える。
つまり、どちらも現実味がなかった。
伊藤は、鼻で嗤った。
「まだ、夢の中かよ。馬鹿ヅラ引っさげて、なんてザマだ」
俺の間抜け顔を堪能すると、伊藤はナイフを取り出して、柵から身を乗り出した。
そして、柵に纏わりついたなにかをナイフで切断した。
「ッ……!」
キィーンと耳の奥で何かが、途切れる音がした。
強い違和感に、とっさに耳を抑え、目をきつく瞑った。
伊藤の切ったモノが出した音というよりは、俺の中で絶え間なく鳴っていたノイズが消えうせたような……断絶の音だった。
「さぁ、もう一度、見てみろ≪不発弾≫。これで分からないようなら、お前はこの先長くはない」
恐る恐る瞼を持ち上げて、伊藤の手元に目を凝らす。
――――伊藤が握りしめていたのは、ライフル銃ではなかった。
それは、この屋上に来た時、伊藤が分解していた、カメラの三脚だった。