第1話 怪異来たる
「クソッ」
第二皇子の朝景は長時間座って痛む腰を抑えながら、腹立たしげに悪態を吐いた。
「朝景親王、落ち着いてください。都に戻れるのですからよかったじゃないですか」
彼を宥めたのは、側近兼護衛の橘重成だった。
表向き、朝景は長らく都を離れ、地方の有力者の館に滞在していた。皇子として必要な学問や武芸を学ぶためだった。
だが、朝景も重成も、そのような理由を信じてはいなかった。皇族の長い歴史を考えても、第二皇子が長らく都を離れるのは不自然だった。どのような力が働いたのかは分からないが、朝景を邪魔だと思う者が地方へと押しやったのだろう。
「ふんっ。こんな突然呼ばれたんだ。どうせろくなことじゃないさ」
朝景は窓枠に腕をつき、投げやりに笑った。
その時、朝景の背筋に冷たい感触が走った。
「なんだ?」
御簾を上げて外を見ると、薄暗い街並みが広がっている。気のせいかと思って手を下ろそうとしたとき、ポンポンと鞠をつく音が聞こえてきた。
『竹に光るは 誰ぞ誰、小さき姫ぞ 誰ぞ誰……』
歌声を聞いた瞬間、朝景はぶわっと全身の産毛が立つのを感じた。カタカタとみっともなく歯を鳴らしそうで、ぐっと食いしばって耐える。
「どうしました? 朝景様」
隣にいる重成は、様子がおかしい朝景に眉を寄せた。
『うるはし姫に なりたまふ、五人の君が 参りたる……』
「お前……、この歌が聞こえないか?」
「歌ですか?」
重成は耳を澄ませるが、何も聞こえなかった。
「もしかして……、何かいるのですか?」
重成が尋ねている間も、鞠をつく音と声は止んでいなかった。
『難題出だして 試みる、帝も召さむと 望みたる……』
朝景は真っ青な顔で、耳を塞いで蹲った。しかし、音を防ぐことはできなかった。
体を震わせて怯える朝景に、重成は身を乗り出して外を覗いた。だが、誰の姿も見えなかった。
「朝景様、私がついているから大丈夫です」
無力だと分かっていながらも、重成は朝景を励ますことしかできなかった。
『月の都の 姫なれば、 やがて迎へが 来たりけり 来たりけり』
歌が終わった瞬間、鞠をつく音もぴたりと止んだ。朝景が恐る恐る耳から手を離した瞬間、ガタガタと乗っている輿が揺れる。
「うわっ!!」
朝景たちは声を上げた。
「輿丁! どうした!?」
輿の担ぎ手を呼ぶが返事がない。
朝景は輿の中の空気が急激に冷えたのを感じた。寒さと恐怖でガタガタと体を震わせていると、水に濡れたような手が肩を触った。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
朝景は恐る恐る後ろを振り向いた。そこにいるはずがない十歳ぐらいの女子が笑っていた。
「っ!!」
朝景は声にならない声を上げて、外に飛び出した。
「朝景様!? どうしたんですか!?」
重成は突然出ていった朝景に、驚きの声を上げた。
一人で街にいるのは危ないと慌てて自分も飛び出すと、輿丁たちが倒れているのが見えた。朝景の様子を見ても、自分が感知できない何かが起きているのは間違いなかった。
「朝景様!!」
重成が辺りを探すと、朝景は地面に尻もちをつき、上空に向かって必死に手を振っていた。まるで、嫌な虫を追い払っているかのようだ。
「朝景様! 大丈夫ですか!?」
「来るな!」
重成が朝景に向かって走っていくと、突然頭に何かをぶつけられて倒れた。
「いたっ」
横を見るが何もない。しかし、頭は確かに痛んでいた。
「一体、何奴だ」
重成は腰の刀を抜くが、なんの気配も感じない。
その間にも、体に何かをぶつけられていく。感触から、それが鞠だと分かった。だが、手を伸ばしても掴むことができない。確かに触れているはずなのに、指の間をすり抜けてしまうのだ。
しかも、鞠が当たるたびに、いつの間にか切り傷ができていた。なぜ傷がつくのか、重成には分からなかった。
重成は痛みに耐えながら、一方的に鞠を当て続けられていた。
「おい! やめろ!!」
隣で朝景が怒鳴るが、攻撃が止む気配がない。
重成が膝をついた瞬間、朝景は彼の前に立って両手を広げた。
「朝景様!!!」
朝景が目を瞑って体に力を入れた瞬間、パァンッと何かが破裂する音がした。
驚いた朝景が目を開けると、いつの間にか狩衣を着た舞台役者のような優男が立っていた。
腰には刀を差し、右手には包帯が巻かれている。
「大丈夫ですか?」
その男の周りからは、澄んだ空気の気配がした。
少しだけ吊り上がった目が、真っすぐに朝景のことを見ている。
「あ、あぁ……」
朝景は突然のことに呆気にとられた。
「そうですか」
突然現れた男はあっさりと引くと、空に向かって札を投げた。
「明白布告」
男が呟くと、周りの空気が変わった。
朝景が見た女子が、怯えた様子で立っている。今まで何も見えなかった重成にもはっきりと見えた。
男は女子に近づくと、すっと手を上げた。
「ここに居たらいけないよ」
優しい声だった。
男は指で女子の額を弾いた。すると女子はまばゆい光を放ち、跡形もなく消えていった。
男がそのまま去って行こうとしたので、朝景は慌てて呼び止めた。
「おい!」
「はい? 何か?」
男はなぜか眠そうな顔をしている。朝景はそのことに内心むっとしながら、気になっていたことを尋ねた。
「お前は一体何者だ?」
「私ですか?」
「ああ」
朝景は一瞬、傷ついた重成に視線を向けた。
「……俺は、助けてやることもできなかったから」
男は不思議そうに顔を傾げた。
「怪異が見えない人間が、戦うことは不可能です」
「だが、俺は見えるぞ」
「見えるのですか?」
「ああ、はっきり」
朝景が頷くと、男は「ふむ」と言って顎に手を当てて悩み始めた。そんなわざとらしい仕草も、絵になる男だった。
「……少しこれを握ってみてください」
渡されたのは、切り絵のような紙だった。
「なんだこれは?」
「式神です」
「式神?」
「ええ。まぁ、とりあえず握ってみてください」
朝景は言われた通りに握るが、紙にはなんの変化もなかった。
「なんにもならないぞ?」
少し不貞腐れながら、朝景は紙を差し出す。
「なら、あなたには怪異を払う力はないってことです」
男が紙を受け取って握ると、手を開いた瞬間に女官が現れた。
「っ! なんだこいつは!?」
朝景が驚いた声を上げると、すかさず二人の間に、様子を見ていた重成が刀を抜いて割って入った。
「妖か!?」
重成の剣幕に、男は一瞬驚いた表情を浮かべたが、静かに首を横に振った。
「いえ、だから式神です」
男の変わらない平静な様子に、重成たちも静かになる。
「その式神とはなんだ?」
「呪力によって生み出されたものです」
「呪力?」
朝景たちは首を傾げた。
「はい。あなたが見たような、怪異を祓う力です」
朝景たちも話には聞いたことがあったが、実際に呪術を見たのは初めてだった。
「なら、お前は陰陽寮の人間か?」
朝景の問いかけに、男はうっすら微笑んだ。
「はい。陰陽師の安倍晴明と申します」
陰陽師がいることは知っていたが、こんなひ弱そうな男が所属しているとは思っていなかった。
「さっきの女子はどうなったのだ?」
「天に行ったか、地に行ったか」
「謎かけか?」
飄々とした様子の晴明に、朝景は眉を寄せた。
「いえ。ただ、私はまだ死んでいませんので、どうなったか分からないだけです」
「……」
朝景たちは、返す言葉がなかった。
晴明の言い分にその通りだと頷く一方で、どこか人を食ったような態度が気に食わなかった。
ただ、助けてもらった相手なので、二人とも怒りを表に出すことはなかった。




