22 滝登り
「ルージュは元々トリグ湖にいるべき存在ではありません。パーシヴァル卿の言葉通りあの湖に迷い込んでしまったのです。」
トリグ湖でパーシヴァル達が対峙している魔物の大きさを目の当たりにしたガラハッド達が基地に戻ってくると、そこで待ち構えていたクロエによる作戦会議が始まった。
「ルージュは現在、産卵期を迎えております。本来の習性であれば、リグ川を遡上し上流のリグ大滝を超えた先、山の頂上にあるリグ湖で産卵するはずでした。」
それがどういう訳か、支流に入り込みトリグ湖に居ついてしまったという訳だ。
「彼女の番となる雄の鮭はリグ湖のみに生息しています。このままでは彼女は繁殖できないでしょう。」
「放っておいちゃダメなのか?別にあの湖にいる以上は脅威じゃないんだろ?」
ガラハッドが聞く。トリグ湖は山道から離れた位置にあった。下手に刺激しなければ山道を行くものに危害が行くとは考えづらかったのだ。
「彼女が本来の習性に則って、トリグ湖から川へと出てくる可能性も捨てきれません。それに彼女が生む鮭は貴重な食料資源となります。絶やすのは避けたいのです。」
「リグ湖から雄の鮭を何匹か連れてくるのは?話しぶり的に大きいのは雌だけなんだろ?」
「雄は極めて繊細なので山頂から輸送する間に弱ってしまうでしょう。」
「…だがあまりにも無謀じゃないか?この作戦は?」
ガラハッド達は自身の目でルージュの脅威を目の当たりにした為、この荒唐無稽な作戦がいまいち信用できずにいた。
「君の言い分も分かる。だがこれはコンスタブルの総力を賭けた作戦だ。裏を返せば、失敗即お手上げというわけだな。」
パーシヴァルはあっけらかんに言った。協力すると自分から言い出した以上、ガラハッド達も後には引けなくなっていた。
時は進んで二日後、決闘でできた青あざや生傷もすっかり癒えた頃に、ガラハッド達は再びトリグ湖の縁に来ていた。湖は相も変わらず、波一つたてず穏やかそのもので、あの瑠璃色の湖面の底に、恐ろしい怪物を隠しているとは到底考えられなかった。そんな湖とは反面、周辺は見紛うほどの変化を遂げていた。クロエの的確な指示の元、騎士達が数人がかりで木製のパーツを立体パズルのように組み上げ、見上げるほど大きなクレーンを作り上げていた。
「これで本当に吊り上げられるのか?」
湖の上でブラブラと揺れるJ字型の針を見ながら、ガラハッドは不安そうに呟く。
「装置周りの手配は全てクロエが監修している。問題はないだろう。」
パーシヴァルはそう言いながら、自身の傍の台車に積み上がる麻袋を手に取りながら言う。
「それにこの麻酔薬がある。これを作ったのはこの国で最高の薬師さ。これを餌と誤認させ、ルージュに食べさせれば、暴れる心配もない。」
「本当に上手くいくもんかね?」
「段取り通りに事が進めばそう心配することもないさ。その為にも、改めて流れを確認しておこう。この麻酔を口にし動きの鈍ったルージュをあのクレーンで引きづりだし、台車に乗せる。後は麻酔が切れる前に山頂のリグ湖まで運搬する。作戦指揮はクロエ。俺はルージュを餌まで誘導する係。ガラハッド達はルージュの口にこの針を引っかける係だ。君の合図で騎士達がクレーンを巻き上げる。ここまでで何か疑問は?」
パーシヴァルの言葉に納得したように皆が頷く。ただ一人を除いて。
「…おい。なぜ我だけこんな後ろに追いやられておる?ご丁寧に護衛の騎士を二人もつけよって。」
「ガラハッドの傍から離れたくないのは分かるが、これは遊びじゃないんだ。君みたいな小さい子が前にいるのは危険過ぎる。」
至極真面目な顔で答えるパーシヴァルの横でガラハッドとナギは吹き出しそうになるのを一生懸命堪えていた。
「…お主、前々から思っておったが、我の事を本当に幼子だと勘違いしておるな?」
習性というのは極めて神秘的である。それまで生きるために食べ、生きるために眠り、生きるために外敵から逃れる。自身の生存で手いっぱいだった者が、ある日、いきなり自身の身の安全を顧みず、川を上るのだ。何を思考しているのかなんてのは、到底分かるはずもないのだが、ただ、自身の種を残すという目的に邁進していく。それはある種、遺伝子に刻まれた使命、連綿と紡がれてきた命の意味なのだろう。自身の意思に関係なく、果てしない種の歴史が作った本能が突き動かす衝動。足伝いに湖の冷たさを感じながら、パーシヴァルはその不可侵の神秘に思いを馳せていた。できる事なら、手出しはせず、ただ見守るべきなのであろう。たとえその結果、この鮭たちがここで種を終えたとしてもそれが因果ならばしかたがない。しかし今、自身ら人間の安全の為、という自己都合でこの因果に茶々を入れようとしていた。どうかこの行動が神の怒りを買わぬことを切に祈るばかりだ。
「…卿?パーシヴァル卿!何か考え事ですか?総員作戦位置に付きました。」
クロエの声にパーシヴァルはハッと我に返る。周りを見ると、それぞれが準備万端と言った面持ちでパーシヴァルの事を固唾を飲み、見守っていた。
「しっかりしてください。大変な危険を伴う作戦です。油断は無いように。」
「分かっているよ。一切の被害なく、完璧にこなして見せよう。ほらクロエもここに居たら危ない。」
湖から離れていくクロエの後姿を見ながら、パーシヴァルは気を引き締める。因果がどうとか、結局の所、動き出したら何物にも止められないのだ。今持てる最高の技術力と最大限の努力は尽くした。後はなる様にするしかあるまい。パーシヴァルはこれから起きる可能性のある災難に「かかって来い」とでも言うような不敵な笑みを浮かべながら、麻酔薬の乗っている台車に足を掛けると、湖向かって思い切り押し込んだ。
ガラガラと大きな音を立てて転がりだした車輪は、小さな石に躓き跳び上がると、そのまま湖面に激突した。車輪は外れ、プカプカと浮かぶだけの木片を避けながら、パーシヴァルは麻酔薬のつまった袋へとつながる紐を手繰る。哀れにも湖に滑り落ち、溺れまいと必死に藻掻く獣だと、ルージュに誤解させるべく小刻みに動かし、わざと波紋を起こした。皆がすぐにでも飛び出せる用意をしながら、その様子を見つめる。
彼女の来訪は唐突であった。休息に湖面へと迫る黒い影がどんどんとそのおおきさを増したかと思えば、すべてを飲み込まんと大口を開けた状態でルージュの頭が湖面を飛び出す。袋がルージュの口にすっぽり収まった瞬間に、パーシヴァルが紐をグイッと引っ張ると、袋の封が解かれ大量の麻酔薬が彼女の体内ヘと注ぎ込まれた。いくらかはエラを通して体外に排出されてしまったようだが、まぁいい。これだけの量を飲み込めば、後は時間の問題だろう。ルージュは何か違和感を感じたのか、湖のそこには戻らず、外からその影が見えるところでグルグルと湖の縁をなぞる様に回り始めた。やがてパーシヴァルの見立て通り、その動きがゆっくりになっていったかと思えば、胸鰭を見せるように横向きにプカーっと浮き上がった。パーシヴァルはルージュの目を覗き込むと手で合図を送る。その合図を機にガラハッドと数人の騎士が草陰から飛び出すと、湖畔に置いてあった巨大な針を抱え上げ、ザブザブと湖に足を踏み入れた。
「…おい?これ死んでないよな?」
「ちょっとした仮死状態になってる。早くしないと目を覚ますよ?」
「分かってるって。」
ガラハッドは強引にルージュの口を開けると、その隙間に針をねじ込む。ハンマーで数回打ち付ければあっという間に口の薄い皮膚を貫通した。
「OKだ!」
今度はガラハッドの声を合図にクレーンの真下にいた騎士達が全力で針を巻き上げ始めた。屈強な騎士達をもってしても、ルージュの巨体を引き上げるのはそう容易なことではない。ギチギチとロープが悲鳴を上げながらゆっくり巻き上げられていく。ルージュの体が少しづつ水面を離れ宙ぶらりんになっていった。
「壮観だな。」
「感心するにはまだ速いよ。台車と固定ロープの用意は大丈夫か?」
ルージュを湖から引き上げるのは作戦の第一段階だが、ここまでは順調に行ってる。作戦終了までの道のりは長いが、既に達成感を感じていたその時であった。
「うわっ!!」
突如、さっきまで穏やかだった湖に冷たい突風が吹きこみ、ルージュの体を激しく揺らす。波乱の前触れのような風は、ルージュを叩き起こすようであった。
「マジかよッ…」
ガラハッドは、自身の目と鼻の先でカッと目を覚ます巨大魚に思わず足がすくむ。ルージュの瞳はギョロギョロと音をたてながら、自身の置かれた状況を確認するように動いた。周囲で控えていた兵士達がルージュと目を合わせる度に、得体のしれぬ威圧感に背筋を冷や汗が伝った。全員がただルージュの姿を見るしかできない、不気味なほどに静かな一瞬が、まるで果て無く続いているように思えた。
「総員っ!!退避!!」
その沈黙を破ったのは、目を覚ましたルージュの危険性をいち早く察知したパーシヴァルの怒号にも近い叫び声だった。その瞬間、ルージュが大きく体を歪ませる。自分がもと居るべき水中へと戻るべく拘束から逃れようとしていた。彼女の影が大きく動くたびに、クレーンが激しく軋む。
「クレーンが引きづりこまれるぞっ!!」
誰かの声と共に何人もの騎士達がクレーンの本体へと飛び移った。フワフワと地面を離れるクレーンを地面に押さえつける為だ。しかしルージュの力は凄まじく、今にも折れてしまいそうな程、湾曲していた。
ビンと張ったロープが今にもはち切れんとばかりに悲鳴を上げる。滑車のブレーキが暴れるルージュの力に負けズルズルと逆方向へ無理やり回る。
「あぶねっ!!」
咄嗟にかがんだガラハッドの頭を暴れるルージュの尾びれが掠める。あんなものにぶつかれば一撃で首が持ってかれるだろう。今にもロープは千切れる寸前、クレーンも何やら不穏な音を鳴らしている。何とか空中で体をよじらせるルージュを制御しようと、多くの騎士たちの怒号が飛び、現場は大混乱に陥っていた。そんな彼らの努力を無に帰すかのように、ルージュの口から針がスルりと抜けた。宙で自由の身となったルージュの、光を乱反射させる鱗を纏ったその体は、どこか神秘的な宗教画にさえ思えた。
「伏せろぉ!!」
何処からか響くパーシヴァルの声に皆が我に返って身を屈める。水面に叩きつけられたルージュの体はさながら爆発したかのように轟音と高い水柱を生み出し、湖の縁に居たガラハッド達へ襲い掛かる。彼女が生み出した波は巨大な水のハンマーのように騎士達を弾き飛ばす。
「な、何が起こった?」
アズは周囲の状況を確認すべく体を起こそうとして、自分に何かが覆いかぶさっているのに気付いた。
「大丈夫かい?」
それは咄嗟にアズを庇ったパーシヴァルの姿だった。
「重いわ。はよぉ退け。」
アズはパーシヴァルを押しのける。今の波の勢いで周囲の草や騎士達は軒並み薙ぎ倒されており、あのクレーンだけがいびつな形に歪んではいるものの、何とか原型を保っていた。
「こりゃ酷いのぅ。ん?お主、血が垂れておるぞ。」
パーシヴァルは自身の眉の上に鋭い痛みを感じ、手で押さえる。指の隙間から、鮮やかな鮮血がポタポタと垂れた。
「ルージュの落下の衝撃で木片か何かが飛んできたんだろう。なにただの切り傷だ、心配はいらない。」
そう言ってふらつきながらも立ち上がろうとするパーシヴァルをアズは引き留めた。
「阿呆が。頭の傷じゃ、安静にせぇ。まったく…守ってもらわずともあのぐらい余裕で躱せたというのに。」
「ははっ、すまなかった。小柄な君が視界に入った時、とっさに体が動いてしまってね。」
「…あれだけ散々言ったのに。お主、まだ我を子供扱いしておるな?」
アズの呆れ顔にパーシヴァルは気まずそうに笑みをこぼす。
「はぁ…。おい!そこの。お主らの上司が負傷した。手当をしてやれ。ガラハッドっ!!ガラハッドはどこじゃ!」
アズが辺りを見渡しガラハッドを呼ぶ。まさか先の衝撃でダウンするほど、奴も軟弱ではあるまい。
「ここだ。ここにいる。」
少し離れた茂みの中から、ナギとガラハッドの手だけがひょっこりと出てきた。
「こっちは無事だよ。」
「ならば一度、こちらへ寄れ。状況を整理し立て直す。」
「あっ!じゃあちょっと待ってね。すぐ行く。」
ナギは早口でそういうとすぐに茂みに引っ込んだ。
「どうなってるのこれ?上手くハマらないんだけど。」
「首の所に水草が引っ掛かってるんだ。」
「え?あぁこれか。」
「ちょっと待て、ハメる前に頭をひっくり返してくれ。耳の奥に水が…」
「…何をやっておるんじゃ、あやつらは。」
「幸いな事に重傷者はいない。俺の傷の止血も完了した。しかし…」
頭に包帯を巻き、湖面を見つめるパーシヴァルの顔は曇っていた。
「ルージュには湖に逃げ込まれ、麻酔薬もすべて使い切ってしまった。さっきの衝撃で、彼女を山頂まで運ぶための荷車も壊れて使い物にならない。」
ついさっきのルージュの生命のパワーを見せつけられると、ここからコンスタブルにこの状況をひっくり返す力が残されているとは、到底考えられなかった。
「惜しいが、ここは一度退き、改めて作戦を精査しよう。ガラハッド達も、わざわざ協力してくれた手前、このような事になってしまって申し訳ない。お詫びと言っては何だが、君たちの関所通過の手続きは俺の権限でスキップしよう。他には内緒だ。」
「…だがよ。それじゃあ、他の商人達は?」
「まだ…しばらく待ってもらうことになるね。結局、何時彼女が本来の習性を思い出して、川を上り始めるか分からないからね。」
「色々大変なんじゃないか?ただでさえ、商人達は鬱憤が溜まってそうだったし。」
「まぁ…それもすべてコンスタブルの仕事だからね。」
パーシヴァルはそう仕方がないように笑った。四騎士や竜槍などと華々しい異名を持つ彼だが、その実、色んな事情に配慮し、地味な仕事も一手に引き受けるしかなかったのだ。
ガラハッドは苦心した。デカい口叩いて首を突っ込んだのだから、中途半端に済ませて、自分達だけ甘い蜜を啜るというのは当然ながら気持ちの良いことではない。しかし、普段の仕事と違い、依頼をこなしているわけではないガラハッド達が、これ以上に手を貸す義理は無いし、パーシヴァル達の決定に口を出す権利もなかった。皆が失意の中、帰り支度を始める中、ただ一人、アズだけがジッと険しい顔で湖全体を俯瞰するように見つめていた。
「何してるんだアズ?撤退だって言ってたじゃないか。」
その背中にガラハッドは声を掛ける。しかしアズは答える代わりに足元の小さな石を拾い上げると、それを湖の中央目掛けて放り投げた。ポチャンと小さな水飛沫が上がった瞬間、水中からルージュが落水地点に大口を開きながら顔を出す。激しく水面を乱した後、また何事も無かったかのように水中に戻っては、陸からでもその影が見える程、浅い所を泳ぎ始めた。
「やっぱりな。」
まるで何かを狙っているようなルージュのその動きに何かを確信したようにアズはニヤリと口角を上げた。
「パーシヴァル!お主には一応守ってもらった借りがある。どうじゃ。ここはひとつ我らに後始末を任せて見ぬか?」
「…なんだって?」
突拍子もないことを言い出したアズにパーシヴァルだけでなくガラハッドとナギの二人も目を丸くした。
「何を言い出すんだアズ!」
「ガラハッド。お主もこのまま引き下がるのは気まずいと思っておろう?」
「どういうことなんだ。説明してくれないか。」
「そのまんまの意味じゃよ。後は我らが引き受ける。」
「引き受けると言ったって…悪いがコンスタブルは満足に支援できないぞ。」
「心配はいらん。我ら冒険者にとって行き当たりばったりなぞ日常茶飯事。その場しのぎ、もとい…柔軟な対応は我らの専売特許じゃ。しかしそのためには我らも身銭を切らねばならん。それ相応の代償を伴うという訳じゃな。特に今回の場合、そなたらがコンスタブルであるという立場が都合が悪い。そこでじゃ。二つほど条件がある。」
アズはそう言うとパーシヴァルの目の前で二本。指を立てて見せる。
「一つ。ここで何が起こっても、そなたらが何を見たとしても。それは他言無用じゃ。二つ。仮になんの滞りも無く事態が解決した場合、その功績はお主が受け取れ。我らはここにはいなかったと。そっちの方が安全じゃからな。まぁアリバイ作りというやつよ。そなたらが口の堅い騎士だと見込んでの提案じゃがどうする。」
アズは説明を終えると今度は手を差し伸べる。
「分かった。その程度の条件なら悩むこともないさ。」
パーシヴァルはその手をしっかりと握り返す。その態度にもうアズを子供などと見くびるような仕草は見られなかった。
「そうと決まれば我の作戦を伝えるぞ。たった今そなたらも見たであろうが、ルージュの奴は先の事で随分と気性が立っておる。こんな小さな石ころでもテリトリーに侵入することを許さない程じゃ。逆に言うと簡単におびき出せる状況にあるとも言える。あくまで我の見立てじゃが、あヤツは川にさえ入ってしまえば自然と遡上を始めるじゃろう。ここと同じように引きこもろうにも川では水深が浅すぎるからな。そのまま干からび朽ちるなんてことはなかろう。」
「つまりはルージュを川に放流して、後は様子見ということかい?」
「そいつは楽なことだ。ルージュをどうやってこの湖から引っ張り出す労力に目をつぶればだが。どうする?新しく彼女が通れるぐらいの幅の川をみんなで掘るか?それともやっぱり自然と彼女の気が変わるのを待つか?」
「何を言っておるガラハッド。そのどちらの案も果てしなく時間がかかるであろうが。あれを使って文字通り釣り上げる。」
そう意気揚々と笑みを浮かべるアズが指さす先には、酷く歪んだクレーンがポツンとそびえ立っていた。
先程までの騒乱がまるで幻であったかのように湖は静まり返っていた。水中を我が物顔で泳ぐルージュは自身のテリトリーを犯し、あまつさえ子を成す自身の体に傷をつけた外敵の存在に酷く気が立っていた。外から見ればただ優雅に尾びれを揺らすその姿が、かえって不気味に映る。湖岸からその姿を見つめていたアズは隣に立つナギの背中をポンと叩く。それを合図にナギは背後で多くの騎士達が見守る中、自身の翼を大きく広げた。
「お主の立ち回りが一番危険じゃ。くれぐれも気をつけい?」
「任せて。」
ナギは不安がる素振りを一切見せることなく空へと舞いあがる。ルージュの影をジッと見つめながらタイミングを計ると、水面ギリギリまで静かに降り、足の先っぽで水面をつつく。彼女の作った波紋は湖全体に広がった。水中にいた彼女もそれを敏感に察知したのか、急に体勢を変える。
「アズの言った通り、食いついたね。」
ナギは尚もルージュを誘うように水面をつつく。水面に一気に泡が生まれた瞬間にナギが急上昇で水面から離れると、その影を追うようにルージュの巨体が水中からまるでせり上がる塔のように飛び出した。その上空にクレーンの先端が待ち構えているとは露とも思わず。
「ガラハッド!!」
「よし来た!」
ナギの合図にクレーンの先端で待機していたガラハッドが手にもつ巨大な針を投げ込む。それはナギをその腹に収めようと口を開いたルージュの口が閉まる直前に、その中へと納まった。やがてルージュの体が重力に従いゆっくりと落下を始める。しかし彼女の体が水面に叩きつけられることはなく、代わりに口元から激しい出血が確認できた。
「気張れよ騎士共!」ガラハッドがクレーンの上から下を見ると、そこにはクレーンがルージュの重さで倒れぬように、人間の重りとなるべく堪えている騎士の姿があった。
「君たちがまさか魔族だったなんてね!」
「まだ終わっとらんから、無駄口叩いている暇があるなら、クレーンを全力で押さえんか。」
パーシヴァルの言葉をアズはぴしゃりと遮った。湖へと流れ込む河口へ向けて少しづつではあるがクレーンが動いていく。
「くっそ。おいアズ!ルージュの抵抗が激しい。これじゃクレーンが持たないぞ。」
ガラハッドは自身が乗る部分からクレーンの根本に掛けて走る亀裂が徐々に開いていくのを見て、クレーンの限界を悟る。ルージュを河口へ解き放つ前にクレーンの方が耐えきれず崩壊してしまうだろう。何とかルージュを鎮静化させればよいのだが、麻酔薬を使い切った今、それも厳しい。アズはクレーンに釣られ、なおも激しく抵抗するルージュを見て、一つの方法を思いついた。
「ガラハッド!逆にその動きを利用してやろう。振り子の原理でタイミングを見計らって、我がロープを切る。」
「ロープを切る?無茶だ。あのロープはルージュの重みに耐えるようにと、とびきり太く、入念に編み込んだ特注品だぞ!?そんなシビアなタイミングでピッタリ切れるようなものでは。」
「安心せぇ。」
アズはただ一言そう言うと、虚空から自身の身の丈ほどの大きさの死神の鎌を取り出した。
「…今、どこからその鎌を?」
「ナギ!せーのでルージュのどてっぱらに衝撃を与えるぞ。」
疑問が顔に出ているパーシヴァルを放っておき、ガラハッドは手際よく算段を整える。
「準備はいいか!」
ガラハッドの言葉にアズとナギの両方が親指をあげ応えた。
「…せーの!!」
その合図とほぼ同時にアズが駆け出す。ガラハッドとナギの蹴りがルージュの体にめり込む。今にも一回転しそうな程、大きく跳ねるルージュの姿を脇目にアズは鎌を持ったまま、クレーンの背を駆け上ると、トンと軽快にルージュ目掛け飛び移った。
「お主の居場所はここじゃなかろう!」
アズが鎌を振ると、ピンと張っていたロープはいともたやすく切れた。ルージュの体を空中に留めていた唯一の支えが無くなり、ルージュの体は宙を舞う。湖を軽々と飛び越えると、凄まじい轟音と共にその体は河口付近へと落下した。
「…死んでしまったかの?」
ピクリとも動かないルージュの姿を見てアズは不安そうに呟く。やり過ぎてしまえば全てが水の泡なのだが…。
「見てくる。」
そう言ってガラハッドがルージュの傍まで駆け寄っていった。
「危険だからあまり近づきすぎるな。」
パーシヴァルの忠告をそれ程真剣には捕らえず、ガラハッドがルージュの顔を覗きこんだその時だった。
「うわっ!!」
突如として目を見開いたルージュが身を悶え、体勢を立て直すと体を上手く捻り、木々をなぎ倒し、地面を捲り上げながら前進を始める。魚はその体の構造上後退ができない。川に頭を突っ込むようにしてらかしたルージュはアズの見立て通り、川を上っていくしかなかった。
「ガラハッド!巻き込まれるぞ!早く離れろっ!」
「くっ!?鎧が何かに引っ掛かったみたいだぁぁぁ?!?!?!」
何が起こっているのか。何も分からないままガラハッドの体はルージュに引きずられて行ってしまった。
「あの馬鹿?!なぜ最後の最後に気を抜く。」
アズとナギは急いで追いかけようとする。しかしルージュの巨体に見合わぬパワーと衝撃で後ろに弾き飛ぶ砂利のせいで近づくことはおろか、後ろに取りつくことさえ困難だ。
「俺が先回りする。」
パーシヴァルが槍を持つと、決闘の時に見せた重心を低く沈める体勢を取る。
「しかしお主は傷が…」
「いつまでも君たちに任せきりではいられない。これはコンスタブルの騎士としての最低限の意地さ。」
そう言うと、周囲の制止を聞く間もなく、彼は地面を蹴った。川沿いに生える木の上を猿のように器用に跳んでいく。
「…ガラハッドは…?いた!」
どうやらガラハッドの足部分の鎧の隙間にルージュの口に取り残された針から伸びるロープが入り込んでしまったらしい。ガラハッドはルージュの下敷きや地面に擦りつけられない様、あえてルージュの口にしがみ付き、何とかロープを外そうと格闘していた。
「簡単には近づけそうにもないな…。」
パーシヴァルは前方にもうすぐ川が下流とトリグ湖へいく支流に分かれる分岐点を見る。上流へ向かう道へ入れば険しい勾配が待っている。とてもじゃないがガラハッドは耐えられないだろう。
「ここでやるしかない。」
パーシヴァルは覚悟を決め、ルージュより僅かに前へ出ると、樹上からルージュの進行方向へ槍を投げる。
「パーシヴァル?!」
パーシヴァルはスピードを殺さないように樹上から飛び降りると、地面に突き刺さった槍に捕まり、勢いを利用してポールダンスのようにグルりと回転すると、遠心力で足を鞭のようにしならせ、迫るルージュに強烈な蹴りを喰らわせた。
ルージュの体が僅かに浮き上がったかのように見えるほど、力強いその一撃はガラハッドに絡まったロープを取り除くには十分であった。
「大丈夫かい?」
「あ、あぁ何とかな。悪い、助かった。」
パーシヴァルに助けられボロボロながらも立ち上がるガラハッドは見たのは、嵐でも通り過ぎたかの如く凄惨な姿を見せるルージュの通った後の奥に、剥がれかけた鱗をキラキラと輝かせながら、まるで天に上るかのように滝を駆け上っていくルージュの姿だった。
「もうあんなところに…。」
「あの滝を超えればすぐリグ湖だ。作戦完了だ。」
凄まじい生命の力を目前に、息も絶え絶えながら、二人は互いの健闘を称えるように、ただ静かに拳を合わせた。
「いいね温泉。俺も行きたいよ。」
「駄目です。パーシヴァル卿はこれから本部に戻り、今回の報告書を纏めてもらわなければ困ります。」
ルージュが無事リグ湖に着いたという連絡を受けて、コンスタブル騎士達は早々に関所からの撤収準備を始めていた。
「繰り返しにはなるが、本当に君たちに出会えてよかった。俺達コンスタブルだけじゃ今なおこの関所には制限が掛かったままだったろうからね。」
「買い被り過ぎじゃ。そんな事より、例の条件に付いては…」
「分かってるよ。君たちにも事情があるんだろう?詮索はしない。そこは信用してくれ。」
「まぁいいじゃねぇかアズ。気にしすぎるとかえってどこかでボロが出るってもんだ。」
「…感謝するよガラハッド。君たちなら大丈夫だとは思うがくれぐれも気を付けていってくると良い。何かこの先で困ったことがあれば俺の名前を出してくれても構わないよ。」
パーシヴァルは爽やかに微笑むと手を差し出す。ガラハッドがその手を掴むと、彼はギュっと力いっぱいに握りこんだ。
「痛ぇよ!?」
「ガラハッド。いずれ必ず決着をつけよう。」
恐怖すら感じる執着の炎を瞳に灯すパーシヴァルにドン引きしながら一行は帰路へと着いた。
「ふぃ~…もうヘトヘトだぁ~」
街に戻ってきたかと思えば、アズとナギの二人は早々に旅支度を始めだした。まだまだ元気そうな二人に果たして湯治など必要なのかと首をかしげる。
「お疲れ様です。災難でしたね。」
ソファーに項垂れていたガラハッドにモニカが労いの言葉を掛けた。
「でもこれでなんの気がかりもなく休暇に行けるんだからよかったじゃないですか。それで皆さんはいつ出発するんです?」
「ん?なんで他人事なんだ?シスターも行くだろ?」
ガラハッドの言葉にお茶を淹れるモニカの手がピタリと止まる。
「私は行けないですよ。教会を留守には出来ません。それに疲れてなどおりませんから。」
そう苦笑いを浮かべるモニカに、しかしガラハッドはしつこく言い寄った。
「疲れてるとか関係ないだろ。シスターも俺達の仲間の一員なんだから、ツレない事言わずに行こうぜ。教会だって、この街の連中は神に全然縋ってないからちょっとぐらい空けてたって平気だよ。」
「ですが、神に仕える身として、常に研鑽に励み己を律せよと…」
「上からの物言いになっちゃうかもだけどさ。そんな毎日切り詰めなくてもいいんじゃない?柔軟な発想っていうかさ。まぁ…シスターは子供の時から、この教会を守り続けてきたんだし。ちょっとぐらい休憩も必要なんじゃないか?あの二人も寂しがると思うぜ。俺も…シスターだけ仲間外れにしてるみたいで気まじぃしさ。」
やけにしつこく説得を続けるガラハッドにモニカは観念したように微笑む。
「分かりました。そこまでおっしゃってくださるなら、今回は私も同行させていただきます。」
「よっしゃ!」とガラハッドはわざとらしくガッツポーズをし、扉の方を見る。僅かに空いた隙間からこちらの様子をこっそりと伺っていたアズとナギにガラハッドは親指を立てた。




