第3話 聖女の鉄拳と全肯定による生存戦略
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裏路地の淀んだ空気が、一瞬にして凍りついた。
目の前に立つのは、間違いなく世界中の民から「慈愛の象徴」と崇められる聖女マリアだ。
だが、その右手には粉々に砕け散ったエールの瓶が握られ、足元には神聖な法衣が泥に塗れるのも構わず投げ出されている。
彼女の瞳は血走り、放たれるプレッシャーは、先日の「限界ギリギリの勇者」レオンが放っていた覇気すら軽く凌駕していた。
「おい、聞いてんのか? いいサンドバッグになりそうだって言ってんだよ」
マリアは首をポキポキと鳴らしながら、ずんずんと俺に距離を詰めてくる。
(やばい、やばいやばいやばい。これは絶対に死ぬやつだ)
俺の危機察知能力が、かつてないほどのけたたましい警鐘を脳内で鳴らし続けている。
「ひぃっ……!」
俺は恐怖のあまり後ずさりしようとしたが、足がもつれて泥だらけの石畳に尻餅をついてしまった。
「あぁ? なんだその情けねえツラは。男ならもっとシャキッとしろや!」
マリアは俺の胸ぐらを軽々と片手で掴み上げ、壁に押し付けた。
「あのな、あたしは今日、クソみたいな貴族のクソ長い自慢話を三時間も笑顔で聞き続けたんだ。その上、信者のガキ共に『聖女様スマイル』を振り撒いて、もう顔の筋肉がぶっ壊れそうなんだよ!」
彼女の吐く息からは、強烈な安酒の匂いがする。
完全に出来上がっている。そして、溜まりに溜まったストレスの捌け口を、たまたま通りかかった不運なCランク冒険者である俺に求めているのだ。
「……そ、それは大変でしたね」
俺は引きつった顔で、何とか声を絞り出した。
「ああ、大変だよ! どいつもこいつも『聖女様、聖女様』って! あたしだって普通の人間なんだよ! たまには酒飲んでくだ巻きたいし、むかつく奴は神聖魔法で吹っ飛ばしてやりてえんだよ!」
「……わかります。世の中、理不尽なことばかりですよね」
「わかるか!? お前にこのプレッシャーがわかるのか!? 期待に応え続けるのがどれだけしんどいか!」
マリアは俺を壁に叩きつけながら、血走った目で睨みつけてくる。
(ここで否定したら殺される。絶対に殺される!)
俺は生存本能のすべてを懸けて、彼女の言葉を全肯定することに決めた。
「わ、わかります! 期待されるって、本当に辛いですよね! 期待なんて、人を縛る呪いみたいなもんです!」
「……!」
マリアの動きが、ピタリと止まった。
俺は言葉を止めることなく、必死に続ける。
「聖女様だって人間です! 愚痴を言いたくなる時も、酒を飲んで暴れたくなる時もあるはずです! それを全部押し殺して生きてるなんて、凄すぎます! 俺なら一日で逃げ出してますよ!」
「……お前」
マリアは俺の胸ぐらを掴んでいた手を、ゆっくりと離した。
その瞳から、先程までの狂暴な光がスッと消え、代わりに信じられないものを見るような驚きが浮かんでいる。
「お前……私のこと、否定しないのか?」
「否定なんて、とんでもない!」
俺は必死に首を振った。
「聖女様がどれだけ大変な思いをしてるか、俺には想像もつきません。でも、愚痴くらい吐かないと、心が壊れちゃいますよ。俺でよければ、いくらでも聞きますから!」
俺のモットーは「絶対に致命傷を避ける」ことだ。
そのためには、この凶暴な聖女様の物理的なサンドバッグを避け、精神的なサンドバッグになるのが、今考えられる唯一にして最善の生存戦略だった。
「……」
マリアは黙り込み、うつむいた。
そして、ポツリと呟いた。
「……本当に、いいのか?」
「はい! もちろんです!」
俺が満面の作り笑いで頷くと、マリアは突然、その場にへたり込んだ。
「うわあああああん!」
「えっ!?」
彼女は顔を両手で覆い、子供のように大声で泣き始めたのだ。
「誰も……誰もこんなこと言ってくれなかった! みんな私に『完璧な聖女』を求めて……私が苦しいなんて、誰も気づいてくれなかったのに……!」
「あー、えっと……」
俺はどうしていいかわからず、とりあえず宙をさまよっていた手を、彼女の頭の上にそっと置いた。
「よしよし。大変でしたね。頑張りましたね」
適当な慰めの言葉だった。
だが、マリアはその言葉を聞くや否や、俺の腰にしがみつき、さらに大きな声で泣きじゃくったのである。
* * *
「……で、なんでこうなるんだ?」
数時間後。
俺は自分のアパートの部屋で、安物の麦酒をすすりながら、目の前の光景に頭を抱えていた。
「いやー、マジで助かったわ。あんた、ホントいい奴だな!」
マリアは俺の部屋の安い絨毯に寝転がり、持参した高級ワインをラッパ飲みしながら、ゲラゲラと下品に笑っている。
先程までの涙はどこへやら、完全に俺の部屋を自分の家のようにくつろぎきっていた。
「まさか、王都の裏路地にこんなオアシスがあったなんてな。ギルドのCランク冒険者? アルって言ったか。お前、最高だな!」
「……はあ、どうも」
俺は適当に相槌を打ちながら、ため息をついた。
勇者レオンに続き、今度は聖女マリアまで、俺の部屋を駆け込み寺にしやがったのだ。
しかも、こっちは酒癖が絶望的に悪い。
「聞いてくれよアル! 今日もさ、あのデブの神官長がネチネチと……」
マリアの愚痴は止まらない。
俺は適当に「へえ」「大変だな」「そりゃひどい」と、レオンの時と同じ三パターンの相槌を打ち続けた。
「うんうん、そうだよな! アルはわかってくれるよな!」
マリアは機嫌よく俺の背中をバンバンと叩く。
(痛い。普通に痛い。神聖なオーラを纏った鉄拳は、Cランクの俺には致命傷になりかねない)
「……あー、聖女様。もう夜も遅いし、そろそろ……」
俺が遠回しに帰宅を促そうとした、その時だった。
コンコンコンッ!
扉がノックされた。
俺の背筋に、嫌な汗が流れる。
この時間にノックしてくる奴なんて、この世界で一人しかいない。
「師匠! 俺です、レオンです! 魔王軍の拠点を一つ潰してきた帰りに、最高級のハチミツ酒をもらってきたんですよ! 飲みましょう!」
扉の向こうから、無駄に元気な勇者の声が響き渡った。
「……あ?」
マリアの動きが、ピタリと止まった。
彼女はワインの瓶をゆっくりと床に置き、据わった目で扉を睨みつけた。
「おいアル……今の、あいつの声じゃねえか?」
「えっと……気のせいじゃないですかね?」
「開けろ」
「はい」
俺は逆らうことを諦め、素直に扉を開けた。
ガチャリ。
「こんばんは師匠! 今日も泥水すすって生き残ってきました……って、え?」
満面の笑みでハチミツ酒を抱えていたレオンは、部屋の中で胡座をかいて座っているマリアを見て、完全に固まった。
「……マリア? なんで君がここに……」
「それはこっちのセリフだ、レオン。てめえ、こんなところで油売ってていいご身分だな」
マリアは低い声で唸り、立ち上がった。
表向きは慈愛の聖女と、歴代最強の勇者。
だが、今の二人は、ただの「酒癖の悪いヤンキー女」と「泥にまみれたサイコパス」にしか見えない。
「僕は、命の恩人である師匠に報告に来ただけだ! 君こそ、聖女のくせにそんな汚い言葉遣いをして……!」
「あぁ!? 誰が汚い言葉遣いだ! 表に出ろや、その綺麗事ばかりの口を縫い合わせてやる!」
「や、やれるものならやってみろ! 今の僕は、泥をすする覚悟ができているんだ!」
二人の間に、信じられないほどの殺気が膨れ上がっていく。
俺の狭いアパートが、今にも吹き飛びそうだ。
(……終わった。俺の平穏な日常は、ここで完全に終わるんだ)
俺は絶望に目を閉じた。
だが、ここで何もしなければ、本当に家が破壊されてしまう。
俺はなけなしの勇気を振り絞り、二人の間に割って入った。
「お、お前ら! 喧嘩するなら外でやれ! いや、違う!」
俺は深呼吸をして、あえて強い口調で言い放った。
「俺の部屋で喧嘩するなら、もう二度とここには入れない! 出入り禁止だ!」
「「……!」」
その一言に、二人はビクッと肩を震わせた。
レオンは青ざめ、マリアは目を見開いている。
「し、師匠……! すみません、出禁だけは勘弁してください! ここがなくなったら、僕はまたプレッシャーで押し潰されてしまいます!」
レオンが土下座の勢いで俺の足にすがりついてきた。
「あ、あたしだって……! ここ以外に、作り笑いをしなくていい場所なんてないんだよ! 悪かった、もうキレないから!」
マリアも慌てて俺の袖を掴み、涙目で訴えかけてくる。
俺はため息をついた。
「……わかったならいい。ほら、レオンが持ってきた酒を開けよう。マリア、グラスを二つ出してくれ」
「は、はい! すぐに用意するぜ……じゃなくて、します!」
「僕はツマミの干し肉を切りますね!」
世界を救うべき勇者と聖女が、Cランク冒険者の俺の指示にペコペコと従い、安アパートで宴会の準備を始める。
その光景は、どう考えても異常だった。
だが、俺にとっては、アパートを破壊されないための立派な「生存戦略」の一つに過ぎない。
「ほら、お前らも飲め。死なない程度にな」
俺が適当にそう言ってグラスを掲げると、二人はなぜか感動したような目で俺を見つめ返してきた。
「はいっ! 師匠の教えの通り、死なないように飲みます!」
「アル……あんた、やっぱりすげえよ。こんなちっぽけな部屋に、でっかい器の男がいるなんてな」
「……」
絶対に何かを勘違いしている。
だが、俺は既にそれを訂正する気力すら失っていた。
こうして、俺の安アパートは、勇者と聖女が唯一「素」を見せられる絶対的な不可侵領域として、彼らに完全に占拠されることになってしまったのである。
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