20:百個の同一
旧坑道の湿った静寂を、金属同士が吸い付くような密やかな音が切り裂いた。
ヴィンデールの指先が、油まみれのボルトを慎重に締め上げる。
彼女の目の前にあるのは、第一号の三倍近い容積を持つ、新型魔導ポンプの心臓部だ。
そこには、老鍛冶師アルキメデスが数日間不眠不休で打ち出した、百個もの『規格化された歯車』が組み込まれていた。
「……信じられないね。ヤスリ一本使わずに、アタシの設計した溝にピタリと噛み合うなんてさ」
ヴィンデールが呆れたように呟く。
アルキメデスは炉の余熱で赤らんだ顔を拭いもせず、ただ腕を組んで自らの仕事を見つめていた。
かつて彼が打った剣は、一振りの『芸術』として英雄の腰を飾った。
だが今、彼が打った無骨な歯車たちは巨大な機構の一部となり、一つの意志を持って連結されている。
「芸術じゃねえ。……だが、こいつは恐ろしいほどに『美しい』な」
「同感だ。個性という名の歪みが一厘も存在しない」
老鍛冶師の呟きに、俺は短く頷いた。
個を捨て、均一化された部品。それが寸分の狂いもなく噛み合うことで生まれる巨大な力。それこそが、ネクサスが世界に叩きつける最初の回答だった。
「ヴィン、始めろ」
俺の合図で、ヴィンデールが大型の魔喰石をスロットに押し込んだ。
――ズ、ギュ、ギュギュ、ズゥゥゥゥゥン!!
腹の底を揺さぶるような重低音が、坑道全体を震わせた。
第一号の比ではない。
アルキメデスの高精度な部品が摩擦による熱エネルギーの損失を最小限に抑え、魔力の奔流を凄まじい回転力へと変換していく。
「排水開始ッ! 逆流弁、異常なし! 揚水圧、最大!」
ヴィンデールの叫びとともに、太い鋳鉄パイプがビキビキと鳴動した。
直後、坑道の下層エリアを数十年にわたって支配していた黒い濁水が猛烈な勢いで吸い上げられ、外の荒野へと吐き出されていく。
「うおおおっ! すげえ、水が引いていくぞ!」
「見てろ、階段の三段目が見えた!」
バリケードの外で見守っていたガルムやレオたちが歓喜の声を上げる。
だが、その濁流が渦巻く様子を眺めながら、俺の意識は少しだけ過去へと飛んでいた。
(……ようやく、ここまで来たか)
掌に残る、羽ペンのインクの汚れ。
俺はかつて英雄と呼ばれていた時代から、一度もこれを絶やしたことはなかった。
十二歳で軍の輜重部隊に放り込まれ、泥濘の中で車軸の数を数えていた時、俺は気づいたのだ。 世界を動かしているのは総司令官の威勢の良い命令ではなく、一ポンドの麦と、一本の釘の正確さなのだと。
その後、勇者パーティーの遊撃と兵站を担い、仲間と共に大陸中を駆け回っていた時も、俺の役割は常に異質だった。
魔王軍の幹部を倒し、村人たちが涙を流して感謝している時、俺は一人でその村の市場へ向かった。
小麦の価格を調べ、農地の灌漑状況を確認し、領主の税制がいかに民の再起を阻んでいるかを帳簿に記録していた。
そして、勇者が魔王の首を落とし、世界に平和が訪れたと騒がれたあの祝杯の夜。
国民や貴族たちが神や正義を讃え、酒と女に多額の報奨金を散財している横で、俺は一人、彼らが撒き散らす金貨の流動性と、自分の『退職金』の運用計画を計算していた。
彼らが散財してくれたおかげで通貨の流動性が高まり、俺のファンド形成は実にスムーズに進んだわけだが。
(あの時、魔王軍の地図を広げて俺が探していたのは、敵の隠れ家じゃない。……将来の投資対象としての『バルド』のデータだった)
なぜバルドだったのか。
かつて補給路の確認で立ち寄った際、俺はこの街の地下に眠る、国すら見捨てた資源と廃棄されたインフラの価値を弾き出していた。
魔導産業の心臓だったこの街は、表面上の資源が枯渇したと判定された瞬間に捨てられた。
だが、帳簿の上で過去の採掘データと地質構造を照らし合わせれば、まだ『下層』には手つかずの鉱脈が存在することが論理的に導き出せたのだ。
退職金として受け取った金貨一千枚。
そして、戦場の瓦礫からスクラップを回収しては裏ルートで売り捌き、コツコツと貯め込んだ隠し資産。
それらを一銭も無駄にせず、俺はこの死んだ街を買い取るための『資本』として積み上げてきた。
「剣だけじゃ人は救えない。……俺はあの勝利の夜からずっと、経済という名の軍勢を整えてきたんだ」
排水の轟音にかき消されるような小さな呟き。
だが、その言葉は俺の中に確固たる質量を持って居座っている。
「ノア! 水が……完全に引いたよ! 旧坑道下層の第一階層だ!」
ヴィンデールの声に、俺は思考を現在へと引き戻した。
ポンプの駆動音が安定した低音に変わり、目の前には長らく水底に沈んでいた石造りの階段が、ぬらぬらと濡れた肌を晒して続いていた。
だが、水が引いた後の暗闇から漂ってきたのは、安堵の香りではなかった。
――グゥル、ルル……。
冷たい湿気とともに、鼻を突く腐肉の匂い。
そして暗闇の奥で、無数の濁った赤い眼光が松明の明かりを反射して揺れた。
「ひ、ひぃっ……!? 何だありゃ、魔物か!?」
「水が引いたせいで、下層に閉じ込められてた連中がお目覚めってわけか!」
後ずさり、武器を構えるガルムと作業員たち。
彼らにとって、それは未知の恐怖だろう。
だが、俺にとってはこれもまた、あらかじめ『予算』に組み込まれていたリスクの一つに過ぎない。
「ノアの兄ちゃん、どうする!? 下がろう!」
レオが俺のコートを引っ張る。
俺は腰のベルトに差していた、一振りの無骨な長剣を、静かに引き抜いた。
「下がる必要はない。……あそこには、第二地下農場の候補地と、未採掘の魔喰石の鉱脈がある」
俺は松明を掲げ、一段、また一段と未開の暗闇へと足を踏み出していった。
「代表自らが剣を振るうのは、時給換算すれば最悪のコストパフォーマンスだが……専任のセキュリティ担当を雇うまでの過渡的措置だ。ここから先は、事業拡大のための『掃討作業』とする」
暗闇の中から、飢えた咆哮が上がる。
だが俺の耳には、それが新たな利益を生み出すための、心地よい産声のように聞こえていた。
民間公共組織『ネクサス』の領土が今、新たな領域へと広がり始める。




