第三話 オリンピアン
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「あきとくん、早く!!」
仇岡さんが叫ぶ。秀昭さんとの話に夢中になりすぎて、仇岡さんのことをすっかり忘れていたのだ。
「遅いぞ小僧」
「すみません、和尚様」
「誰が和尚じゃ」
年中半袖姿の老人は不満そうに鼻を鳴らした。
「出発は九時三十分。今は九時二十九分五十秒」
「十分間に合ってますよ」
「オリンピックに十分などない」
そう言って車に乗り込む。
助手席に座るなり、仇岡さんは小さなノートを取り出した。「四回転アクセル成功率向上計画」と書いてある。
「……四回転どころか二回転も飛んでないでしょう」
「飛べばよい」
「簡単に言いますね……」
「飛ぶ前から飛べんと言う者は、一生飛べん」
窓の外を眺めながら、仇岡さんは真面目な顔で言った。
「儂はな」
「はい」
「九十になっても滑る」
「はい」
「百になったら五回転じゃ」
「物理法則を無視してます」
「うむ、物理法則も挑戦者じゃ」
「うむじゃないですよ」
「ところで湿布はあと何枚残っとる?」
「急に現実」
「挑戦者にも湿布は必要じゃ」
信号待ちで車が止まる。ふと、バックミラー越しに仇岡さんを見る。
真剣だった。
本気だった。
八十一歳だとか、
オリンピックだとか、
そんなものは、あまり関係ないのかもしれない。
「着いたぞ」
「まだ着いてませんよ」
「心が着いた」
「代表と同じ理論ですね」
「代表とは心の在り方じゃ」
「それさっき聞きました」
「大事なことじゃ」
十分後。
市営スケートリンクの駐車場に車を停める。
「……行くぞ」
「何真剣な雰囲気出してるんですか」
「オリンピアンたるもの、常に真剣でなくてはならない」
「そうですか」
受付を済ませて仇岡さんはリンクに入る。踵で氷を叩き、それからゆっくりと滑り出す。
そして。
仇岡さんは飛んだ。
一回転アクセル。からの一回転トゥーループ。赤らんだ掬を天に伸ばす姿に、周りの子供達から拍手が沸き起こる。
仇岡さんは続けて、一度も成功したことのない二回転アクセルに挑む。
肢体が宙を舞う。速く、しなやかに回る。
しかし。
「痛ったぁ!!」
着地をミスし、見事に尾てい骨を強打。仇岡さんは頭を掻きながら蹲り、反対の手で腰をさすっている。こんなことを言ってはいけないが、少し猿のようだ。
「あきとくん、ちょっと湿布くれ」
打撲には湿布ではないような気もするが。僕はリンクの外に出た仇岡さんの、痣だらけの腰に湿布を貼った。
まだまだオリンピアンには程遠かった。
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