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第一話 フォーヴ園の朝

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 朝六時。老人ホーム「フォーヴ園」では、名物の金属音が夜明けを告げる。ギュイイインと鶯張りの床を削りながら、好々爺が朝日に向かって疾走している。彼は真剣な顔つきのまま、額に汗を浮かべている。その男こそが、八十一歳の仇岡さんだ。そして僕はこのフォーヴ園の施設長を務めるあきとだ。

「おはよう、仇岡さん。今日も精が出ますね」

「おはよう、あきとくん。もちろんじゃよ。儂はフィギュアスケートの男子シングルで、四年後のフランス・アルプスオリンピックに出るんじゃからな!!」

「仇岡さん……」

「うむ」

「床は滑るためじゃなくて歩くためにあるんですよ」

「フィギュアスケートに歩きは不要じゃ」

 そう返されると、なぜか僕の方が間違っている気がしてくる。

 まあ、八十一歳でオリンピックを目指す情熱は、本物なのだろう。だからといって床で練習していいわけではないのだが。

 仇岡さんは大きく息を吸うと、再びギュイイインと床を滑り始めた。以前には近所の住民が道路工事と勘違いし、警察を呼んだことまである。正直、かなり迷惑だ。それでも、あの曇りのない目を見ると、どうにも言葉が出てこない。スケート靴で滑り出したときは流石に止めたが。


 朝焼けに溶ける、白い湯気。遠くから出汁が香っている。毎日ヴィクトリア女王に祈りを捧げる女、寿恵子さんが朝食を作っているのだ。彼女はもうじき白寿を迎える。彼女はてきぱきと魚を切り、汁を器によそう。九十九歳を目前にしているとは思えないほど、包丁を握る手に迷いはない。

「みんな、ご飯できたわよ!!」

 そう言うや否や、フォーヴ園の入居者たちがどやどやと食堂へと集まる。席につくと、眼の前には寿恵子さんが腕によりをかけて作った料理が広がっている。料理と言っても、いわゆる和食ではない。今日のテーマはイギリス。メインディッシュは、ケジャリーと呼ばれるイギリスの米料理だ。黄色く色づいたごはんに、タラとパセリが顔を覗かせている。加えて、ロンドン・パティキュラーという、エンドウ豆と豚肉が入ったスープもある。デザートはスコーンだ。スコーンはアフタヌーンティーの時間に食べるような気もするが、美味しそうなので良し。


「女王陛下に感謝を」

「感謝を!!」

 誰からともなく唱和が返る。

「ところで寿恵子さん」

「なあに?」

「ヴィクトリア女王って1901年に亡くなってますよ」

「そうね」

「……」

「だからこそ毎日健康を祈ってるの」

「手遅れですよ」

「諦めたら失礼でしょう」

「……」


 僕はケジャリーを口に含んだ。

 ……うまい。

「今日は少し塩を強めにしてみたの」

 寿恵子さんが満足そうに頷く。

「ふむ。英国代表の朝に相応しい味じゃな」

仇岡さんはそう言うと、早くも二杯目をよそい始めた。

「仇岡さん、まだ代表じゃありません」

「代表とは心の在り方じゃ」

意味が分からない。

向かいの席では、絹井さんという九十三歳の老人がロンドン・パティキュラーをすすりながら、

「これを飲むとワーテルローの風景が見えてくる」

と呟いている。

「行ったことあるんですか?」

「ない」

 ないのかよ。

「じゃあ何が見えてるんです?」

「知らん」

「知らんのか」

「だが確かに、今ナポレオンが苦しそうな顔をしとる」

「幻覚ですよ」

「馬鹿者」

「え?」

「歴史への想像力じゃ」


 寿恵子さんの料理には、いつも不思議な力があった。仇岡さんは三杯目を平らげ、絹井さんはまだ見ぬワーテルローに思いを馳せている。

 皆が笑い、皆がよく食べる。そんな朝が、僕は案外嫌いではなかった。


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