◆シルビア
月下。
白い洋風の屋敷から、一人の女が顔をのぞかせる。
彼女は手摺りに寄り掛かり、空を見上げた。
「…今宵は満月。なんて美しい…」
女はうっとりと感嘆の溜息をついた。
月は美の象徴。そして女としても例えられる。
「あぁ…美しい。月はまるで無垢な乙女のよう。あんなに真っ白く輝いて…。男を知らない乙女のようだわ…」
女はまた一つ、溜息をついた。
「…あんなに無垢で純真な月。穢してしまいたい。真っ赤な血の色で。真っ赤に染め上げれば、、月はもっと妖艶で美しい光りを放つこと間違いないのに」
女はうふふと笑い、腰までのびる白い髪をなびかせ、中庭へと降り立った。
咲き乱れるは真っ赤な薔薇たちの間を通り抜け、女は中央の噴水へと腰掛ける。噴水の水は月光に照らされキラキラと輝きを放っていた。
女は鏡のように水面を覗き込み、そこに写る自分を見つめる。
写ったのは日の光りに晒したことがないような真っ白い肌。宝石を思わせる紫色の瞳。長く艶やかな白い髪。整った顔立ちの自分。それは誰の目から見てもこの世のものとは思えぬ幻想的な容赦。女は水面に写った自分を見て満足げに笑うと、顔を上げた。
「うふふ……美しいわ。わたくしはまるであの満月のようね。そう、真っ白で穢を知らない…。あぁ…でも駄目。わたくしにはただ白いだけの純真で無垢な美しさだけでは物足りないわ。そう、真っ赤な血の色で穢れてこそ妖艶な美しさを手にいれられる。わたくしには妖艶な美しさのほうが似合っているのよ。
…ねぇ、そうでしょう…………エリクソン?」
女は噴水から顔を離すと、にこやかに尋ねた。
そこには黒髪に赤い瞳を光らせた青年、エリクソンが立っていた。
「ようこそ。わたくしのお屋敷へ。わたくしを真に美しくできるのは貴方だけですわエリクソン」
女は嬉しそうに立ち上がり彼に擦り寄る。
「酔狂なこったな…。使用人はどうした。俺が入ってきても誰にも会わなかったが…」
エリクソンは擦り寄る彼女を剥がすのも面倒らしく、されるがままになっている。
それを良いことに、女は彼の胸元にしなやかな指をスルリと滑り込ませると、耳元で甘く囁く。
「あら…貴方はわたくしの夫となるお方。このお屋敷の主となられるお方ですもの。誰も文句は言いませんわ。それに、貴方ほどバンパイアとしての能力に長けた方はいらっしゃいませんもの。皆、貴方の気配に怖じけづいて出てこれないのですわ。情けないこと」
くすくす笑うと女はエリクソンの首筋に強く口づけた。
「今日はどのようなご用事で?わたくしを所望されにいらっしゃったのですか?」
「……まぁ似たようなもんだ。腹が減ってる。お前の血、よこせ」
エリクソンは女を抱き寄せ、その白い首筋に喰らいついた。
「あ……っ…。性急ですこと……」
女は噛み付かれる痛みに顔を歪ませるが、恍惚とした瞳で彼を見つめた。
(ああ…わたくしエリクソンに穢されている。噛み付かれてこの白い肌から真っ赤な血を流して………)
うっとりとした表情で彼を見つめると、彼女も彼に腕をまわし抱き着いた。
エリクソンは瞳を閉じて静かに彼女の血液を貪っている。
抱き合う二人は熱烈に愛し合う恋人どうしのように見えた。
∴ ∵ ∴ ∵ ∴
枕に顔を埋め、声を押し殺してむせび泣いた。
もうたくさん泣いた。
充分すぎるほど泣いた。もう泣かない。
ナタリーは小一時間ほど泣きつくして、やっと枕から顔をあげた。明かりもつけず、闇に沈んだ部屋。一日中閉めっぱなしだったカーテンを開けると星が瞬いている。
村を見渡すと明かりが灯っている家は一軒もない。みな就寝時間。真夜中なのだ。
ナタリーは泣きすぎて腫れぼったくなった瞳が気持ち悪くて、一旦顔を洗おうと熱い湯を沸かした。
熱い湯にひたした手ぬぐいを絞り顔を拭うと、温かさが顔全体に伝わってきて沈んだ気分が浮上してくる。思い切り泣いたせいもあって、さっきよりは心がスッキリした気がした。
(あたしったら一日中物思いに沈んじゃって馬鹿みたい。こんな姿をエリクに見られたら余計罵倒をあびせられることになるわ)
頬をぴしゃりと叩いて弱った心に喝をいれる。自分の血液をさしだすだけで、大好きな村のみんなが平和に暮らせる。それなら安いものじゃないか。
それに、エリクソンは自分を馬鹿にはしても、殺すことまではしない。彼を信用したわけじゃないが、それだけは自信がもてる。
彼は自分の血を必要としてるのだから。
(そういえば…)
ふと、彼のことが気にかかる。今日は自室に引きこもっていたし、彼には一度も会っていない。
あちらから声をかけてくるわけもないので忘れていたが。
(仮にもあたしが泣いてる時に慰めにでもきたら、ぶん殴ってやるわ)
心の中で悪態をついてから、いそいで自分を叱りつけた。
(いけないわ。殴るだなんて狂暴なこと考えて。あたしは女の子なのよ?そんなこと考えちゃ駄目)
それにしてもエリクはどこにいるのか、会いたくはないのかだが気になって仕方ない。
(部屋かしら?)
そう思う前にナタリーの身体は自然とエリクソンの部屋へと向かっていた。
部屋の前まできて、ナタリーはぴたりと立ち止まる。何故か心臓がドキドキと高鳴っている。
(思えばエリクの部屋にくるの初めてだわ。いや家の部屋なんだけど。あいついるのかしら?もしかして寝てる?)
ドアノブに手をかけ、思い切ってほんの少し扉を開けてみる。
中は暗い。
(やっぱり寝てるのかしら?)
あと少しだけ扉を押してみる。
今度は部屋の奥まで見えるほど開けた。
この部屋の間取りはナタリーの部屋と全く一緒で、違うと言えば家具の配置が対称的になってることぐらいか。
奥のほうでちらっと窓が見えた。
(カーテンが閉まってない)
次に見えたのがベッドだった。
掛け布団は綺麗にたたまれていて、寝てると思われた本人はおらず、もぬけの殻だ。
(いない…。じゃ、どこかに出かけてるのね)
いないと分かると、ナタリーの心臓はおさまり、ホッと息をついて扉を元通りに閉めた。
もし彼が部屋の中にいてのぞき見したとなれば何を言われるか分からないし、対応に困ってしまう。
(いなくて良かった)
バンパイアとはいえ男性の部屋を訪ねるなど、大胆な行動極まりない。
(あたしったら、なにやってんの、もう。………眠くないしお茶でも飲もう)
ナタリーは湯を沸かしにキッチンへと向かった。
∵ ∴ ∵ ∴ ∵
空が白んで夜が明ける。大きな天蓋付きベッドの上で二つの身体がもぞもぞと動く。
「……ぅ……ん」
ごろりと寝返りを打ったエリクソンは隣に柔らかいものがあるのを感じて目を見開いた。
「あら、お目覚めですの?」
控えめに、はにかんだ笑みを見せたのは白い髪、紫の瞳をもった美女。
「シルビア…」
「あれからすぐに眠ってしまうんですもの。人間界でのお仕事、相当お疲れのようですわね」
白い髪の美女、もといエリクソンの婚約者シルビアは上半身を起こして起き上がった。さらさらと長い髪がシーツの上におちる。
「なんで俺がここでお前と寝てんだよ」
訳がわからんと頭をぼりぼり掻きながらエリクソンもまた起き上がった。
「覚えてらっしゃらないの?貴方がわたくしを所望されたのですわ」
そう言ってまたはにかむんで顔を俯かせる。
エリクソンはそんなシルビアを白々しく思う。彼女のあからさまな演技で昨夜の記憶がすっかり甦ってきた。
「……。馬鹿言ってんなよ。俺は腹が減ったって言っただけだろうが。そんで帰るのが面倒になったからここで寝ただけだ」
「なんだ。覚えてらしたの。つまらない」
シルビアは口を尖らせて拗ねる。
「俺がお前と寝ると思うか?」
「思いませんわ。だってわたくし達の間にそんな不祥事が起こるほどの愛なんてものは一切ありませんから」
彼女はキッパリと否定した。
「だよなー。だって勝手に決められた結婚だぜ?お前には悪いが、俺はごめんだ」
「わたくしもですわ。貴方のー……そうですわね…。好きと呼ぶべきところがあるとすれば、吸血行為が上手いことかしら。あとは駄目ですわ。自分勝手すぎますもの。わたくしは貴方の恩師であるハブロ様をお慕いしていますの。彼はとっても紳士的で素敵な方ですわ」
シルビアは彼の姿を想像してうっとりと自分の世界に入ってしまっている。
(俺は全否定かよ…。ていうかなんでアレが好きなんだ?シルビアもナタリーも……)
ナタリー
昨日は丸一日部屋から出てこなかった。らしくないしおらしい彼女。昨日は結局姿も声も聞いてない。唯一聞いたのは部屋から漏れる小さな嗚咽だけ。今ごろ彼女はどうしているのだろうか。
「…。……ナタリー…」
「ナタリー?誰ですのそれは」
聞き慣れぬ名前に、シルビアは綺麗な紫の瞳をぱちくりさせている。
「え?…なんでもねぇよ」
ぷいっと慌ててシルビアから顔を逸らした。
そんな彼の態度に、シルビアは歓喜の声をあげた。
「あら?あらあらあらあら?もしかしてその方、エリクソンの想い人ですの?」
うふふとからかうシルビアに、エリクソンは違うと大声で否定した。
「ち、違う!!」
「あらあら、そのわりに吃っちゃって。可愛いですこと。教えて下さいな。その方、どんな方ですの?可愛らしい方?それともわたくしのように美しい方?」
詰め寄るシルビアから逃れようとベッドからはい出るが、彼女が後ろから首に纏わり付いてきて離してくれない。
「おまっ…離せよ!シル!」
「嫌ですわ。せっかく貴方の初々しいお話が聞けそうなんですもの。話すまでこの手は離してさしあげませんわ。おほほほ」
なんとか引っぺがそうとするが、余裕たっぷりに高笑いする彼女はなかなか剥がれない。
(クソッ…。これだからバンパイアの女は。見た目と違って怪力すぎんだよ)
二人がベッドの上で縺れ合ってると、寝室の扉が控えめにノックされてシルビアのメイドが入ってきた。シルビアが幼少の頃から彼女を世話しているカマイユだった。
見た目四十代くらいの温厚な顔立ちの女性で、ふくよかな体型もさらに温厚さをかもしだしている。
「おはようございます。あらやだ、朝から未来のご夫婦揃ってじゃれあうなんて、楽しそうですわねぇ。エリクソン様もシルビア様のような美しいお方が奥様になられるなんて嬉しくてウハウハでしょう?」
カマイユはあははと大口を開けて笑い、若い二人をからかう。
「…………。」
(シルビア、あのババアの口を黙らせてくれ)
(カマイユは良い人よ。そんなことおっしゃらないで下さいな)
ヒソヒソとシルビアはエリクソンを叱責する。
そしてニッコリと花のような笑顔をつくると。
「カマイユ、おはよう。そうよ。わたくし、今からエリクソンとの愛を深めようと必死ですの。だから邪魔しないで下さいね。着替えなら後で致しますから、カマイユにはすみませんが、もうしばらくしてからまた来て下さいな」
シルビアが笑顔でそう言うと、カマイユはお嬢様の恋路のためならばと、彼女の演技を真に受けて嬉しそうに部屋をあとにした。
再び二人きりの空間に戻る。
「さぁて…俺は人間界に戻らんと。仕事仕事…」
今がチャンスとばかりにエリクソンは腕を振りほどき自分も部屋を出て行こうとした。
が―――。
「お待ちなさい。エリクソン!お話は終わってませんわよ。それに久々に参られたのです。婚約者が朝食も共にせず一晩寝屋で過ごして終わりとはお行儀が悪いですわよ。女と寝るためだけにきたと思われます。せめて朝食くらいはご一緒していきないな」
「…わかった」
こうしてエリクソンは腹を満たすために一時帰省したのだが、朝食をとるまでは人間界に帰れずじまいとなってしまったのである。
(…ここでの朝食って堅苦しいから嫌なんだよな…。マナーがどうのこうのって…)
「さ!お食事に行きましょう?わたくしはカマイユを呼んで着替えてから参りますから。良いですね?決して勝手に帰ってはなりませんよ?貴方のためでもあるんですからね」
ここまで言われてはもう逃げることは出来なかった。
(朝食……なにでるんだか…)
∵ ∴ ∵ ∴ ∵
ピチチと鳥の鳴く声がナタリーに朝を知らせる。夜中、リビングのソファで紅茶を飲んでいるうちにそのまま眠ってしまい朝がきたらしい。
(ぅ…)
ソファから起き上がると、座ったまま寝ていたせいで肩や腰が悲鳴をあげている。
(うわ、痛い。だるい)
疲労を感じながら立ち上がると、怠い身体を軽くするために、腕を伸ばしたり身体を回したりした。
(掛け布もかけずに寝ちゃったから身体が冷えてる。少し寒いわ)
ぶるっと肩を震わせると、熱い湯を浴びに浴室へと向かった。
その時ナタリーは気づいてなかった。
鍵をかけたはずの玄関の扉が微かに開いていたのを…………。
《……ギギ…ギ………………………娘の……生き血を…私…に……》
――その不穏なる黒い影の侵入を――…。