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子犬とクマ






 どこの高校にも必ず『喫煙スポット』という場所が存在する。もちろん、職員や業者などの大人が使うような喫煙所ではなく、生徒達が隠れて煙草を吸う場所の事だ。

 そんな場所の一つ、体育の授業で男子が剣道や授業をする道場の裏で、黒田正一は煙草の煙を大きな口からゆっくりと吐いた。

 道場の壁に背中を預けてしゃがんでいても、百八十センチある身長に、がっしりとした身体は隠せない。制服を過度に着崩したり、髪を染めたり、耳に穴をあけたりはしていないが、その目立つ体格といかつい顔のせいか、喧嘩を売られたり目を付けられたりすることは多く、県内ではそれなりの進学校であるこの高校では問題視されている生徒の一人である。ジャージを着たら、生徒というより体育教諭、あるいは生活指導の教諭。動物に例えるならゴリラというより熊だ。実際、陰で彼は『クマ』というあだ名を付けられている。

「クマ先輩! おはようございます! 相変わらず一人ですね!」

 決して良い意味ではないあだ名で彼を呼び、さらっと失礼な事を言うような人間はこの学校には一人しかいない。

 声のした方に顔を向けると、小柄な女子が小走りで近付いてきた。半年前に入学してきた一年生、犬山奈々である。

 満員電車が嫌いな黒田が他の生徒より早い時間に登校するのはいつもの事だが、奈々はそういうわけではない筈だった。遅刻はしないが常にギリギリ、といつだったか、奈々が誇っていたことを思い出す。

「煙草は一人で吸うから美味いんだよ」

 熊の呻き声のような低い声。地声が高めの奈々と話していると、余計に低く感じた。

黒田は地面で煙草の火をもみ消してから、携帯灰皿に吸殻を入れる。

「で、どうした? こんな朝早くから珍しいな」

「あ、はい。クマ先輩に訊きたいことがあったんで、早起きしてきました」

「早起きできるんだな、お前」

「私は出来ません!」

「……親も大変だな」

 自分が言える事ではないが、自信満々に言う奈々を見ると、思わずそんな言葉が口から出た。

「で、訊きたい事って?」

「『正しい生き方』ってなんでしょうか!」

 質問というより宣言するような口調の奈々に、黒田は呆れ顔をする。

「それを俺に訊くか」

 携帯灰皿を持った左手を軽く振りながら言うが、奈々は迷いのない表情で頷く。そんなに自信満々という事は、何か理由でもあるのだろうか。

「なんとなくです! あと、名前に正しいって字が入ってるから!」

 大した理由は無いようだ。それに、よくよく考えれば、彼女が妙に自信満々なのはいつもの事だった、と黒田は煙草臭の残った溜息を吐く。

「『正しい』の対語ってなんだ?」

「え、私、タイ語は分からないです」

「……悪い。対義語な」

「あぁ、はい。えーと……『間違い』とかですかね」

「じゃあソレがない生き方の事だろ」

「なるほど」と、納得の声を上げたものの、少しずつ首が傾き、眉には皺が寄っていく。考えれば考えるほど納得できなくなってきたようだった。

「クマ先輩、煙草一本下さい」

 黒田の横にしゃがみながら、催促するように掌を上に向けて右手を出す。

「はぁ? お前、煙草吸わないだろ?」

「正しきを知るにはまず間違いから、ってやつです」

 その諺自体が間違っているのだが、黒田はツッコまずに黙って話を聞くことにする。

「ということで、まずは間違いを犯してみようと思います。煙草下さい」

「それが間違いって分かってる時点で正しい事も分かってるんじゃねーのか?」

「……クマ先輩、頭、良いですね」

 右手を引っ込めながら言う奈々に、黒田は額に手を当てる。奈々と話していると疲れるのだ。自分が無駄に気を張りすぎているという事もあるのだろうが。

 奈々は何か考えるような表情で数秒間空を見上げてから、ふと口を開く。

「じゃあこの場で正しい事っていうのはクマ先輩の喫煙を止める事なんでしょうか」

 面倒くさそうな流れだ、と思い、一瞬口を噤んだ黒田だったが、それは認めざるを得ない。

「まぁ、そうだろうな。煙草と酒は二十歳になってから、が世の中のルールなわけだし」

「じゃあクマ先輩の生き方は間違っているんでしょうか?」

 その質問で、ようやく黒田は奈々の言いたいことを理解した。

「あぁ、それで納得いかないわけか」

 奈々は頷き、餌を待つ子犬のような期待のこもった瞳をする。

 そんな目を向けられても、悩んでいることが分かったからといって、すぐに答えを指し示してやることが出来るほど黒田は人生経験が豊富なわけでもなければ賢人でもない。

「生き方ってのは個人個人のものだろ? だから人類全員に当てはまるような答えは無いと思うけど」

「じゃあクマ先輩が思う『正しい生き方』を教えてください」

「人に迷惑をかけない生き方、ってところか」

「………………」

「そんな目で見んな。人に迷惑かけてる自覚はあるから」

 真顔で見られて思わずそう言った黒田だったが、奈々は慌てて「違います、違います」と両手を降った。

「なんだ、違うのか」

「いえ、まぁ、クマ先輩が色んな人に迷惑をかけてるのは……そうなのかもしれませんけど」

「なんだそりゃ」

「でも、そんなのは私も同じですし、程度の差ってやつですよ。それに私、クマ先輩の生き方が間違ってるとは思わないです」

 口は動くが考えはまとまらない。なんとなくもどかしくて、奈々は少し俯く。

 そんな奈々の様子は、黒田から見れば泣きそうになっているように見えた。いつもなら自分の日頃の行いを顧みて『んなわけないだろ』と言うところだが、下手に否定でもして泣かれては困る。過去に一度、彼は奈々を泣かせたことがあるから、尚更だ。ここはあまり慣れていないがフォローしておくことに決める。

「まぁ、俺は名前に正しいが入ってるからな」

「ふざけてるんですか? 私は真剣に考えてるのに!」

「お前が言ったことだろ!」

 思わずツッコんでしまった。しかし、こればかりは自分は間違っていないと自信を持って言える。

 黒田の大声に、奈々は驚くどころか嬉しそうに晴れやかな笑みを浮かべた。

「クマ先輩に初めてツッコまれました! 友達に自慢します!」

「そりゃ勝手にすればいいけど、言い方には気をつけろよ」

「任せてください!」

 大丈夫だろうか。自信満々に答える奈々に一抹どころじゃない不安を覚えた。

「それで? どうしていきなりそんなこと気にし始めたんだ?」

 黒田が問うと、奈々は「うーん」と悩むような仕草をしてから、「内緒にしときます」と笑顔で言った。




 黒田正一は校内では――特に噂好きの女子の間では有名人だ。もともと不良っぽくて怖い上級生として有名だったのだが、一学期に他校の生徒と喧嘩をして停学処分を受けた事が更に拍車をかけた。

 陰でクマと呼ばれるほど巨漢の不良と一般的に見ても小柄な女生徒が一緒に居れば噂にならない筈がない。

 奈々と中学時代からの友人である音々は、奈々の宿題、昼休み明けの時間に提出しなければならない英語のプリントを手伝っているところだ。英語の教諭は宿題を忘れると顔を真っ赤にして怒る事で有名。ただ怒るだけならまだしも、口から飛び出す言葉には英語と日本語が入り乱れているせいで、生徒からは『バイリンガル・タコ』と呼ばれている。

そんな教師にクラスメートの前で怒られるのは御免だ、と必死の形相でプリントに向かっている奈々。貧血にならないか心配しながら横顔を見ていると、噂をふと思い出した。

 奈々は今のように何かに集中していない時は、お喋りな性格で、特に自分の周りで起こったことはよく話す。父親の事や、友人の事、人から聞いた話や、自分が体験したこと等。しかし、そんな彼女にしては珍しく、黒田の事はほとんど何も話さない。訊けば答えてくれるが、すぐに話題を逸らす。

 仲の良い友人を疑いたくない気持ちはあるが、話題にすることを露骨に嫌がられると、やはり何かあるのではないかと疑ってしまう。というか、心配になってしまう。だって、相手は通称クマだ。そして、こちらは犬山奈々、中学時代の通り名は子犬の奈々だ。

「終わったー」

 昼休みをあと五分残して宿題を終えた奈々は、間延びした言葉と息を吐きながら両手を前に出して机におでこをくっつけた。

「お疲れ様。次からはちゃんと家でやってきなよ?」

 その状態のまま小さく頷いた奈々を見て小さく笑みをこぼす。中学の頃、名前が似ているから、という理由で仲良くなった二人だが、音々は奈々のことを友達というより手のかかる妹のように思っていた。といっても、家事の腕は完全に奈々に負けているだろうが。なんせ奈々は十五歳にして家事歴八年を超える。しかも簡単な手伝いだけならもっと幼い頃からやっていたというのだから驚きだ。部活動で忙しい音々とは、また違うタイプの忙しさなのだ。

「でも、奈々が宿題忘れるなんて珍しいよね」

 音々が頬杖を突きながら言うと、今度は顔を上げて奈々は頷いた。

「『正しい生き方』について、ずっと考えてたの」

「……はぁ」

 思わず間の抜けた言葉が口から出た。ふざけて言った言葉なら笑ってお終いだが、奈々の表情はどう見ても真剣そのものだった。

「音々はどう思う?」

「正しい生き方?」

「うん」

「罪を犯さない事とか」

「真面目な音々らしいねぇ」

 なんとなく馬鹿にされた気がして、音々はむっとする。

「じゃあ奈々はどう思うの?」

「分かんないから色んな人に聞いてるのだ」

 なるほど、とは思うが、なんかズルい。

 納得できずにいた音々の頭に、先ほどまで考えていた黒田の事が浮かんだ。

「もしかして、今日の朝、黒田先輩と話してたのはその事?」

「え。なんで朝のこと知ってるの?」

「噂になってるよ。二人が一緒に居たって」

「なんで?」

「仲の良い熊と子犬がいたら地方ニュースくらいにはなるでしょ」

 例えの意味が分からないらしく、小首を傾げる奈々に呆れながらも、「まぁ、そのことはいいでしょ」と話を戻す。

「それで、朝、訊いたの?」

「うん。訊いてみたんだけど……」

「まぁ、こうして私に訊いてるって事は納得できる答えじゃなかったんだね」

「そうなの」

「それで、私の答えも納得いかず、と」

「そうなの」

 奈々は素直に頷いて答える。

「大体、そんなの人それぞれの考え方の話になっちゃうし、模範解答で納得するのは無理なんじゃない?」

「クマ先輩にも同じようなこと言われた」

「ちなみに、クマ……黒田先輩は『正しい生き方』を訊かれてなんて答えたの?」

「人に迷惑を掛けない生き方って……あぁ、そんな顔しないであげて。本人も自覚してるって言ってたから」

 自覚があるってもっと性質が悪いじゃない。という言葉は飲み込んで、「ふーん」とだけ返して、ふと奈々の父親の顔が頭に浮かぶ。

「おじさんには聞いてみたの? なんか、あの人なら納得できるような答え、出してくれそうだけど」

 もう三年以上の付き合いともなると、奈々の父親と会うことはもちろん、話をしたことだってある。自分の父親と比べるようなことはしないが、世の四十代の男性と比べれば若く、シャキッとしている印象がある。中年男性といえば仕事に追われてプライベートではだるーんとしているイメージがあるのだが、奈々の父親はいつも背筋がピンとしているし、蟹股でもない。座っていても立っていても姿勢がとてもいいのだ。一緒に居ると、思わず自分の姿勢を気にしてしまうくらいに。そんな父親の事が奈々も好きらしく、父親の話をする彼女の顔はいつも楽しそうだった。ようするに、頼れる父親なのだ。

 しかし、奈々は珍しくムスッとした顔で首を振る。

「分からない、って言われた」

 へぇ、と少し意外に思う。なんとなく、奈々の父親はなんでも答えてくれそうな気がしていた。おそらく奈々も同じように思っていて、だから少し不満そうなのだろう。幼い頃から母親がいなかったことを考えると仕方ないのかもしれないけど、奈々はファザコン気味なのだ。

「でも、おじさんって、いかにも、正しく生きてきました、って感じだよね」

 そう言うと、奈々の表情はパッと明るくなった。

「そうだよね! えへへ、うふふ」

 自分の事のように照れて笑う奈々を見ていると、ついつい笑みが浮かんでくる。

 それにしても、また難しい事を気にし始めたなぁ、と音々は思う。普段、のほほんとしている反動かは分からないが、昔から奈々は気になる事があると、その事をずっと考えるようになる。これまでは、猫の肉球は何故あんなに柔らかいのか、や、子供がいる男性の再婚率はどれくらいなのか、など、書物やインターネットに頼ればすぐに分かるような疑問だったのだが、今回はそういうわけにもいかないだろう。正しい生き方を求めて変な宗教に手を出したりしなければいいのだが。

「でもさ、自分で言っといてなんだけど『罪を犯さない』ってのも、黒田先輩が言ってた『人に迷惑を掛けない』ってのも結構難しい、というか普通無理だよね。黒田先輩が停学になったのだって、別に黒田先輩が悪いわけじゃないんでしょ? そりゃ、喧嘩したのは悪い事なんだろうし、警察沙汰になっちゃあどうしようもないんだろうけど」

 奈々は、当然、と言わんばかりにコクコクと頷く。

そんな姿を見ていると、一学期、黒田の停学処分を不服に思って職員室へ抗議に行った奈々を引っ張って連れ戻した記憶が蘇った。

あの時は大変だったなぁ……。

相手が普段大人しい……とは言えないが、素直な性格の奈々だったため、教師陣も対応に困っていた。教師っていうのは大変な仕事だ。

後日、その事を知った黒田にやんわりと叱られて反省していた奈々だが、多分、後悔していないだろう。あれは音々や黒田から見れば間違いだが、奈々にとっては正しい行動だったはずだ。

「んー…………」

 それにしても、と、少し不思議に思う。いつもなら、そこまで深く悩む前に『考えても分かんない!』とでも言って諦め……はしないだろうが、保留にしておきそうなものだ。

 モヤモヤしているらしい奈々は、机の腕に両腕を組んで顎を乗せたまま数秒間「んー」を繰り返していたが、やはり答えは出ないらしく、はぁ、と溜息を吐いてから、こてんと首を捻って腕に頬を乗せた。

「昔、お母さんも同じようなこと言ってたんだって」

「おじさんが言ってたの?」

「うん」

「……へぇー」

 音々はそう言いながらも内心では、あぁ、と納得した。だから彼女はここまで気にしているのだ。

 奈々の家が父子家庭であることは知っているが、どうしてそうなったのか、音々は知らない。

 亡くなったのか、離婚したのか。

 前者なら、何故亡くなったのか。事故か、病気か、それ以外の何かか。

 後者なら、何故離婚したのか、は、さほど気にならない。ほんの時々、母親を語る時の奈々の表情に嫌悪感はないため、悪い母親だったということはないだろうから。

 しかし、おそらく前者なのだろうと音々は思っていた。理由としては、奈々が母親のことを覚えていない――つまりは幼い頃から会っていないであろうということくらいしかないのだが。

「それ以外は何も言ってなかったの?」

「『正しい生き方』についてお母さんはなにか言ってた? って訊いてみたよ」

「それで、なんて?」

「内緒って」

 奈々は不機嫌そうに頬を膨らませる。

「意地悪してるわけじゃなくて、自分で探してみなさい、っていう親心じゃないの?」

「親の事をよく知りたいっていう子心も分かってほしいものだよ、まったく」

 ぷんすか怒り出した奈々の頭をポンポンと優しく叩いてから、音々は立ち上がる。

 ちょうどいいタイミングで、校内にチャイムが響いた。




 昼休みが半分ほど終わった頃。

普段から教室で黒田に話し掛けてくるのは、宮原という男子一人だけだった。話しかけてくると言っても、そのまま話が弾むようなことは無く、一方的に宮原が喋るだけだ。それはお互いを知っているから、ではなく、黒田と宮原は仲が良いわけではないし、黒田だって宮原の事が好きではない。むしろ性格的には嫌いな部類に入る。

 定期テストに『宮原という男子の事を正直に一言で表せ』という問題があれば、大多数のクラスメート、そして他のクラスの者も少なからず、『お調子者』という言葉を選ぶであろう。

つまり、宮原とはそういう人物なのだ。

顔は悪くない。むしろ良い方だ。中性的で、男性アイドルと少し不細工なお笑い芸人を足して三で割って余ったところに、これでもかというくらい『ウザさ』を詰め込めば、それが宮原だ。

 一学期が始まった頃にはクラスの上位グループにいた宮原だったが、そんな性格が災いして、いつの間にか仲間外れにされ、そしてとうとうイジメの対象になった。そうしてようやく自分の置かれている立場を理解した宮原は、黒田に近付くようになった。不良らしい不良が少ないこの高校では別格とされている黒田正一。通称、クマ。彼と仲良くなれば、元友人達も自分にちょっかいをかけてこなくなるだろうと考えたのだった。

 そして、その考えは見事に的中する。

 黒田に話し掛けてから、ちょっかいをかけられることがなくなった。それどころか、こちらから話し掛けると、人によっては怯えたような表情をする。快感だった。彼らが怯えているのは、自分ではなく黒田なのだと分かっていたが、それでもよかった。

 しかし、最近、黒田に自分以外の誰かが近付いていることを知った。

 一年の、犬山奈々。小さくて普通に可愛い女子だが、宮原には悪魔のように見えた。男を誘惑する小悪魔だ。

 今まで黒田には自分以外に友人はいなかった。しかし、他に友人が、もしかすると彼女が出来たら、元友人達のように自分を避けるようになってしまうのではないだろうか。そうなれば、自分に待っているのは、イジメに耐える日々だけだ。昼休みは無駄に何度も食堂へパシらされて、体育の時にする球技などではファウルという名の暴力を振るわれる。柔道の時なんかは言うまでもない。

 そんな毎日はごめんだ。

 犬山奈々が嫌な奴なら良かった。しかし彼女は自分と違って様々な人に好かれていた。クラスメートにも、教師にも、話したことがない相手にまで『あの子はいい子だと思う』と言われていた。そのうち妬ましくなった。自分も、彼女のように思われたかった。そんな気持ちと比例して、焦りも増えていく。

 黒田がいないとイジメにあう自分と、色んな人から好かれる犬山奈々。黒田はどっちを取る? 自分が黒田だったら、どっちを取る? 考えるまでもない。

 いつ黒田に見捨てられるのか恐ろしい。こうして話している間も、頭の中はそればっかりだ。

「一年の犬山奈々と仲良いんだって?」

 口から出た言葉に、宮原自身が一番驚いた。

 なんだ? 俺は何を言おうとしてんだ?

 犬山奈々、と言った瞬間に、それまで全くと言っていいほど相槌すら打たなかった黒田が宮原に目を向けた。

「仲が良いってわけじゃない」

 会話が成立したのは久し振りだったと思う。心の隅で嬉しさを覚えながらも、宮原の口はまた勝手に開く。

「そっか。そりゃよかった。いや、なんか、良くない噂聞いたから、仲が良いようなら警告しておこうと思って」

「良くない噂?」

 怪訝そうに眉をひそめる黒田に「あぁ」と返す。

「あの子の家って父親と二人暮らしだろ?」

「……そうなのか」

 どうやら黒田は知らなかったらしい。

「でもな、実際のところ、それは嘘らしい」

「嘘? 実は母親がいる、ってわけじゃないだろ?」

「あぁ。あの父親は、本当の親じゃないんだ」

 眉の皺を深くする黒田に少しだけ顔を近づけて、小声で続ける。

「売られたんだよ、本当の母親と父親に。子供の頃にさ」

 黒田は驚いたりしないまま黙りこみ、少しして宮原を見た。

「良くない噂ってのは?」

 今のだって十分、良くない噂だろう。内心そう思いながら、宮原の口からは新しい嘘が飛び出す。事前に考えたわけでもないのにこんなに嘘がポンポン出てくるのは、普段から物事を大袈裟に言って、嘘ばっかり吐いてきたからだろう。そんなところも嫌われる理由の一つだったという事に気付いているのに、また同じことを繰り返していることに宮原は気付けない。

「そんな男のところでまともに生活送れるわけないだろ? 実際、小学生の頃まではかなりひどい見た目だったらしい。服もボロボロで、髪もボサボサ。でも、中学に上がったくらいから、急にちゃんとした格好――見た事あるか? あの子の私服姿」

 黒田は少し間を置いてから小さく首を横に振る。好都合だった。

「全身ブランド物なんだよ。そこらへんのセレブぶってるババアなんて目じゃないくらいに。これで大体予想付くよな? そんな金、どうやって稼いでんのか」

 黒田は静かに宮原を見る。その瞳に怒りの感情が籠っていることに、宮原は気付けない。

 そして、にやりと笑って、その言葉を口にする。

「援交だよ、エンコ」

 語尾を伸ばす前に、宮原の左頬に何か固いものが物凄い速度でぶつかった。

 宮原は椅子から転げ落ち、その音に驚いて振り向いた近くの女子からは、悲鳴が上がる。

 殴られたのだ。そう理解したのは、頬に手を当てながら顔を上げ、右拳を握ったまま椅子から腰を上げている黒田を見た時だった。

 黒田は今までに見た事が無いほど恐ろしい表情で宮原を見下ろす。

「誰から聞いた?」

 怒りを押し込めるような低い声で黒田は問う。

「え?」

「噂、なんだろ。誰から聞いた」

「え、えっと……」

 涙がじんわりと浮かんでくる。教室内の全員はこちらを見ているが、助けてくれる人は誰もいないだろうし、事情を知れば皆、黒田に味方するだろう。

「お前の作り話か?」

 その言葉に、さっと血の気が引く感覚を初めて覚えた。しかし、黒田の表情を見ていると、嘘を吐けば殺されそうに思った。

 勢い良く、二度、首を縦に振った。謝罪を口にしようとしたが、声が掠れてしまったように言葉が出なかった。

 黒田は「そうか」と短く言ってからもう一度宮原を睨んだ。

「二度と言うな」

 宮原が泣きそうになりながら頷くのを確認してから、黒田は教室を出て行った。

 担任教師が教室へやってきたのは、それからすぐの事だった。




 黒田がクラスメートに暴力をふるった、という話は、放課後になるころには学校中に知れ渡っていた。ただでさえ、一学期の事件で注目されていたのだ。当然のこととも言える。

 翌日になると噂は更新されていて、黒田が一週間の停学になった、というものだった。罰を受けるのは二度目となる黒田が一週間の停学で済んだのは、被害者である宮原が、悪いのは自分だ、主張したからなのだが、そこは噂にはなっていなかった。

 その週の日曜日。

 奈々は自宅最寄りのからバス停からバスで五分ほどのところにある公園へ来ていた。

 あらかたの遊具が撤去されて公園というより空き地になりつつある場所だが、緑が多く、春は桜の花が咲いて綺麗だし、夏は木陰に入ればかなり涼しく、そのままうたた寝してしまうことだってある。

 夏の暑さが消えた今の時期は本当に居心地がよく、公園の中にある木の中でも大きな部類に入る木の下で、ビニールシートに座った奈々はのんびりと風に吹かれていた。お尻の横には栞が挟まれた本が置かれているが、手を伸ばす気配はない。

 誰もいない公園の一角を、ぼんやりと眺めている。人がいるわけではないし、珍しいものがあるわけではない。

 黒田と初めて話をした場所。ただそれだけだ。

 この公園に用がある人は少ないが、近道として通るだけの人はたまにいる。そんな人達は決まって不思議そうな、または不審そうな目を奈々に向けるのだが、もう慣れたものだった。

 夕方に差し掛かった頃、一人の通行人と目が合った。

 ファッション誌にでも乗ってそうなオシャレな服装で自転車を押している男子は、宮原だった。今回の騒動で、奈々も彼の事は知っていた。

 そして当然、宮原も奈々の事は知っている。

 お互い、目が合うと「あ」と口を開き、そして宮原は足を止めた。

 無視できないような雰囲気が流れる。しばらくして、宮原は気まずそうに顔を逸らし、足を進めようとすると、奈々はその場で立ち上がり、

「待ってください! 宮迫先輩ですよね?」

「……宮原です」

 ちゃんとは覚えてなかったようだ。足を止めて思わず訂正を入れた宮原に、奈々は軽い感じで「あぁ、そうでした」と呟く。

 クイクイと手を動かして呼ぶと、宮原は観念したようにトボトボと寄ってきた。なんで元気がなくなったんだろう、と奈々は内心不思議に思う。

「あの、私、同じ学校の一年の犬山奈々です」

「……うん、知ってる」

「知ってるんですか?」

「え、うん」

 宮原は、ようやくここで、おや? と思う。今回の件に関して、奈々は黒田から詳細を聞いているものだと思っていたが、どうも自分の勘違いだったようだ。

「黒田繋がりで、ね」と付け足すと、奈々は納得したように首を縦に振った。

「それで、俺になんか用? 用事があるから、話なら早めにね」

「あ、はい。じゃあ早速ですけど、宮原先輩は黒田先輩に……えっと、ぱんちされた宮原先輩ですよね」

 ぱんち。この小さな女の子が口にすれば子犬のお手ほどの威力に思えるが、宮原が受けたものはそんなに優しいものではなかった。

「そうだけど」

 思わず、頬に手を持っていく。腫れは引いたが、違和感がまだ残っている。

「どうしてですか?」

「……は?」

「いえ、どうして宮原先輩は黒田先輩にぱんちされたんですか?」

 まさか奈々から訊かれるとは思っておらず、宮原は言葉に詰まる。

 少し前までの、黒田に殴られる前までの宮原なら、何も考えずに真実を口にしただろう。多分、格好だけでも、悪い事をした、という表情を見せながら。

 しかし、もうそんな事は出来なくなった。何も考えずに喋った結果が今回なのだ。

 正直に話して、全て謝る。そうすれば自分はスッキリするだろう。しかし、奈々はどうだろう。彼女は、自分のせいで黒田が停学になったと思ってしまうのではないだろうか。そして黒田も、本当のことを彼女に言って欲しくないのではないだろうか。

「……黒田の大切な人の事を、ちょっと悪く言っちゃってね」

 宮原は考えた末、それだけ口にした。ちょっと、と付けてしまった事に、自分の小ささを感じざるを得なかった。

 奈々は「そうですか……」とだけ言って、俯いてしまう。

「黒田と会えなくて寂しい? それとも学校外で会ってたりする?」

「……会ってないです。連絡先も知らないですし」

 奈々は俯いたまま、二つ目の問いにだけ答える。

 なんと。

宮原は内心、かなり驚いた。二人の関係は自分が思っているものとは全く違ったらしい。だって、普通の友達なら携帯電話番号やメールアドレスくらい交換するものだ。恋人なら、尚のことだ。あんなに焦っていた自分が恥ずかしくなる。

「連絡先、教えようか? メアドなら知ってるよ?」

 ポケットに手を突っ込みながら言うが、奈々は首を横に振った。

「メールは苦手なんです」

 宮原は、そっか、とポケットから手を出して、公園の出入り口に顔を向ける。

「実は、今から黒田ん家に謝りに行くんだけど、一緒に行く?」

 奈々は再び首を横に振る。

「家族と待ち合わせしてるんです。ごめんなさい」

「そっか」

 謝られてしまった。本当は、自分が謝らないといけないのに。

「あの、呼び止めてしまってすいませんでした。理由、教えてくれてありがとうございます」

「あぁ、ううん。いいよ」

 宮原はそう言ってから「それじゃあ」と奈々に背を向ける。奈々は手を振りながら宮原の背中を見送る。

 出入り口の一歩手前で、宮原は奈々の方を振り返り、そして前を向き直ると今度こそ公園を出て行った。

 奈々は振っていた手を止めてから、不思議そうに首を傾げる。目が合った一瞬、宮原の口が動いたように見えた。奈々が間違ってなければ、『ごめん』と。

 何を謝ったのか。何故謝ったのか。奈々は分からないまま、私の見間違いかな、とスカートを気にしながら腰を下ろし、先程まで見ていた場所に、もう一度目を向ける。

 ここからでは見えないが、あそこらへんにはクローバーが生えている。当然ながらほとんど――もしかしたら全部かも知れないが――三つ葉の、普通のクローバー。

 奈々はそこで、四葉のクローバーを探していた。

そして、黒田と出会ったのだった。




「お父さん、誕生日に欲しいものとかある?」

 奈々がそう訊いたのは、約四か月前の、夕飯時の事だった。

 向かいの席に座る父親は箸を止めてから奈々と顔を合わせると、

「今年はサプライズじゃないんだね」と笑った。

「サプライズプレゼントもあるけど、それとは別にないかなーって」

 父親の誕生日は六月中旬。今から一週間後だ。

「娘とデートする権利とか、この前ドラマで見たなぁ」

「二人で出掛ける時なんて、いっつもデートみたいなものでしょ」

「そりゃそうか」

 嬉しそうに笑う父親に、何故か照れ臭さを覚えた奈々は、「それで?」と話を急かす。

「欲しいもの、ないの?」

「うーん。そうだなぁ……」

 父親は顎に手を当てて天井を見上げながら、ふと呟くように言った。

「久しぶりに、四葉のクローバーが見たいかもしれない」


 そんなわけで、六月の炎天下の下、奈々は公園へやってきた。

 この公園の近くに父親が勤めている会社があり、小さい頃は祖父母と共にここで遊びながら父親の仕事が終えるのを待っていたこともあった。もっとも、父親の仕事が忙しかった時期だったため、一緒に帰れることは両手で――もしかしたら片手で数えられる程度だったかもしれない。一緒に夕飯を食べることだってなかなか無かった。

 そんな幼い頃の思い出を頼りにやってきたわけだが、記憶は正しかったらしく、公園の一画にはクローバーが生えている場所があった。

 何故、父親が四つ葉のクローバーという迷信的な物を欲しがるのかは分からないが、欲しいならあげよう、と、その場に腰を下ろして、地面に生えているクローバーをじーっと見ていく。それに、奈々だってそういう話は嫌いじゃなく、むしろ好きな方だった。父親がそういうものを欲しがるというのはやはり意外だったが。

 六月と言えば梅雨。馬鹿みたいに暑いというよりは、ジメジメした嫌な天気が多い印象があるが、その日は見事なまでに快晴だった。湿気がないのは有り難い(湿気が多いと、髪がもわっとなるのだ)が、体中の水分が蒸発しそうなほどに強い太陽光は身体に堪える。

 バスの冷房で冷えた身体から、早くも汗がじんわりと滲んできた。顔を俯けているせいで、こめかみの方から流れてきた汗が鼻の辺りに溜まってこそばゆい。

 一旦腰を上げて、近くのベンチに置いていた鞄からタオルを取り出し、汗を拭いてから首に掛ける。

 さぁ、四つ葉探し再開、と振り向いた時、いつの間にかクローバーが生えている場所にいたソイツと目があった。

「猫だ!」

 奈々の大声にも驚かずに、白猫は座ったまま自分の顔をクシクシと掻いている。

 野良かな。と思った奈々だったが、ピンク色の首輪が付いているし、かがんだままゆっくり近付くと毛並みの良さも分かった。

 奈々が近付いても白猫が警戒する様子はない。それどころか、眠そうに目を細めて奈々を数秒間(この間、奈々は何故か動きを止めている)見てから、のんびりと四本の足で立ち、尻尾を左右に揺らしながら奈々に近付いて、身体をこすりつけた。

「うわ、うわぁぁぁぁ……」

 奈々は、何故かハンズアップの状態で、怖がっているのか喜んでいるのか分からない声を出す。

 しばらく様子を見てから、そっと手を降ろして頭を撫でてみると、白猫は目を細めて、小さくミャーと鳴いた。

 可愛いなぁ、と思わず連れ帰りたくなったが、父親にアレルギーがあるため、それは出来ない。なにより、飼い猫である。

 四つ葉のクローバー探しも忘れ、近くにあった猫じゃらしを持って白猫と戯れているうちに、首輪に名前が書いてあることに気付いた。

『ユキ』

 なるほど、確かに雪みたいに真っ白い。奈々は納得しながら、猫じゃらしを左右に振る。

 しばらくすると、猫は遊ぶことに飽きたのか、ミャーと鳴いてからトテトテと木陰まで歩き、だらーんと手足を伸ばして横になった。眠るらしい。ユキと言う名前からして雌なのに、休日、居間で昼寝をする父親のような格好だった。

 少し寂しく思いながらも、奈々は当初の目的を思い出して四葉のクローバー探しを再開する。

 次に奈々が顔を上げたのは数分後、視界の隅に大きな影を見つけた時だった。

 公園の出入り口に、一人の男性……青年……? が立っていた。がっしりとした体格で、身長も高そうだ。目は細くて、坊主頭。

 ヘビー級ボクサー……。というのが、奈々から見た黒田正一の第一印象だった。

 トレーニング中かな?

 Tシャツにハーフパンツという格好を見て、奈々は推測する。ボクサーであるという事は既に確定事項らしい。

 公園に入るなり、キョロキョロと辺りを見回して、何かを探している様子の黒田を見て、奈々は『もしかして』と思い付く。

 振り返って木陰を見ると、白猫は心地良さそうに眠っている。

 飼い主かな? と思うが、白猫と青年ではイメージが合わない。とはいえ、青年の目線は人を捜しているにしては低い。ベンチの下を覗き込んだりしているところを見ると、やはり彼は飼い主で、この白猫を捜しているのだろう。

 しかし、困った。なんせ、彼は怖い。顔も怖いし、熊のような体格も怖い。だからと言って話し掛けられないわけでもないのだが、音々から、怖い人には近づいたら駄目だよ、と口を酸っぱくして言われている。

 仕方なく、奈々はその場から彼に話し掛けることにした。近付いたわけじゃないからいいでしょ、というのが奈々の考えなのだが、良いわけがない。

「あのー!」

 立ち上がり、両手を口の横に当てて叫ぶが、青年は反応しない。距離と声量を考えれば聞こえていないはずはないから、呼ばれているのが自分だと思っていないのだろう。

「あのー!! そこにいる大きい人ー!!」

 その声に、ようやく青年は振り返った。訝しげに眉を潜めているせいで、顔の怖さが増長している。

「もしかして、猫探してるんですかー!?」

 そう言うと、青年は少し驚いたような表情をしてから、奈々に近付いてきた。

 うーん。私から近付いたわけじゃないし、いっか。と奈々は考えているわけだが、もちろん良いはずがない。この事を音々が知れば説教を受けることは間違いないだろう。

「どこかで見かけたのか?」

 少し離れたところで足を止めた青年は、奈々が初めて耳にするような低い声でそう訊いた。本人に自覚は無いのだろうが、ドスの利いた声、という表現が最適な気がする。

「白くて、ピンクの首輪をしてて、ユキって名前の猫ですよね?」

「あぁ」

「それなら、そこに……って、あれ?」

 奈々が指差した先、涼しそうな木陰に、白猫の姿が無い。いつの間にか、どこかへ行ってしまったようだ。

「…………」

「…………」

「……さっきまで居たんですけど……。ごめんなさい。私の声で逃げちゃったのかも」

 肩を落とす奈々に、青年は頭を掻きながら

「いや、教えてくれた助かった」

 と言って、また猫探しを始めた。その背中を追いながら(怖い人に近付いたら云々という考えは既に奈々の頭から抜けている)、少し気になったことを尋ねる。

「家の中で飼ってる猫なんですか? 逃げ出しちゃったとか」

 青年は、奈々が付いて来ていることに気付いていなかったらしく、少し驚いた表情で振り返ってから、困ったように頭を掻いてから「あぁ」と肯定の返事をした。

「って言っても、別に閉じ込めてるわけじゃないから、たまにフラッと出て行く時もあるんだけどな」

「長い間帰ってないとかですか? 随分元気そうでしたけど」

「そういうわけでもないんだ。ただ、ちょっとした事情で連れ帰ろうと思ってな」

「ちょっとした事情ですか?」

「あぁ」とだけ答えると、青年は奈々に背を向けて公園の隅を歩いて行く。その背中を見ながら『ちょっとした事情』について考えてみたが、特に思い付かなかった。

 この時の奈々が知る由もない事だが、黒田が白猫『ユキ』を探している理由は、保護するためだった。誰からと言うと、人間――黒田が数週間前に返り討ちにした不良青年達からだ。

 黒田にとって、誰かに喧嘩を売られるという事は希少な事ではない。数週間前も、学ラン姿(おそらくここら辺では有名な不良校の生徒)の青年三人に喧嘩を売られた。というか、カツアゲをされそうになって、返り討ちにしたのだ。見るからに貧弱そうな者ではなく、熊と呼ばれるような体格の黒田を標的にした辺り、彼らの考えはよく分からないが、見事に返り討ちに遭い、そして最近になって黒田に仕返しをしようと企んでいる、という話を耳にしたのだった。

 その仕返しの方法がまた小さいというか、狡いというか、悲しくなる様なものなのだ。

『黒田が飼っている猫を殺してやろう』

 黒田家には犬と猫が一匹ずつ居る。家の前に繋がれている犬ではなく、基本的に家の中で生活している猫を選んだ理由は、犬が大型犬だからだろうか。そう考えると更に悲しい。しかし、大切な飼い猫が殺されるとなっては、彼らの小ささを悲しんでいる暇など無い。

 タイミング悪く、一週間、あるいは二週間に一回程度しかいかない散歩に出かけてしまった飼い猫の『ユキ』を探して、黒田はこうして家の近所を奔走しているのだった。

 そんな事情を奈々が知っていれば、断られようが迷惑そうにされようが、猫探しを手伝っていただろう。しかし、事情を知らない奈々にとっては、迷子の猫探しよりも、父親へのプレゼントである四葉のクローバー探しの方が優先された。なんせ、色々あったせいで、探索はほとんど進んでいないのだ。

 元居た場所まで戻ると、どこからか「ニャー」という鳴き声が聞こえた。立ったまま辺りを見回すと、鞄が置いてあるベンチの下に白猫の姿があった。戻ってきたらしい。猫らしく、自由気ままな奴だ。

奈々と目が合うと、再び「ニャー」と鳴く。食べ物を催促されているのだろうか。

「でも、おにぎりしか持ってきてないし……、猫に塩分って駄目だよね?」

 鞄を探ってから、ベンチを覗き込んで訊いてみるが、もちろん、答えてくれるはずはなく、白猫はもう一度「ニャー」と鳴いた。

どうせなら、さっきの飼い主さんに届けて、いつものご飯を食べさせてあげた方がいっか。

奈々が両手を前に出すと、白猫は少し体を震わせながらも、されるがまま抱き上げられた。身体が大きいわけでも、太っているわけでもないが、奈々には少し重たい。

早くさっきの人を探さないと、と、またしてもクローバー探しを忘れて振り返った奈々だったが、その足はすぐに止まった。

いつの間にか、知らない人が背後五メートルほどの距離に立っていた。

怖い人だ、と奈々はすぐに思った。

真っ金金な髪色に、全体的にブカブカな服装、更にTシャツのデザインは髑髏マークとか、悪趣味なものだ。長い髪の隙間からピアスも見える。顔の怖さで言えば先ほどの青年の方が何倍も怖かったが、奈々からすればこの人の方が怖さは勝る。

自分と同じか、少し上か、そのくらいの年齢の青年は、奈々と、奈々の腕で呑気に欠伸している白猫を順番に見てから口を開く。

「それ、あんたの飼い猫?」

 奈々は首を横に振る。

「迷子の猫です」

 それだけ答えると、青年は口元だけで微かに笑ってから、

「そうか。実はそれ、俺の家で飼ってる猫なんだ。何週間も前から帰って来なくて心配してたんだよ。返してくれるか?」

 それは、おかしい。音々や友人達から『抜けてる』だの『鈍感』だの言われる奈々でも、彼の言葉がおかしい事には気付いた。

 先程の熊のような青年か、この不良っぽい青年、どちらかが嘘を吐いているという事になる。

 そして、白猫の状態を見る限り、嘘を吐いているのはこの青年だった。

 しかし、もしかすると、嘘を吐いているのではなく勘違いしているのだけかもしれない。

「あの、多分、この子はあなたが探している猫じゃないと思います」

 奈々が言うと、青年は「は?」と笑顔を浮かべながらも不機嫌そうな声を出した。

「いやいや、それで合ってるから」

「名前は?」

「はぁ?」

「この子の名前です」

 そう問うと、青年は今度こそ顔をしかめて、奈々を睨みつけた。

名前を訊けば勘違いだと分かる、と思っていた奈々は敵意のこもった視線を突然向けられて驚き、一歩だけ青年から距離を取った。だが、青年も、逃がさない、といわんばかりに一歩前へ出る。

「いいから、返せっつってんの」

「だ、駄目ですよ! さっき、この猫を探してる人に会ったから、その人に返します!」

 猫を少しだけ抱き寄せながら、奈々はじりじりと後退する。

「探してる人?」

 奈々は頷き、先程会った青年の身体的特徴を説明すると、不良っぽい青年の表情が更に険しいものへと変わった。

 これは、どう考えてもおかしい。

 ようやく危機を感じ取った奈々は、猫を抱いたまま踵を返し、全速力で走りだした。青年が追いかけてくるのを、背中で感じる。相手も走りにくい恰好をしているとはいえ、奈々は猫を抱いているし、もともと足が速いわけではない。

 不審者に会った時の対処法を思い出しながらキャーキャーと大声を上げて公園から出ようとしたところで青年に服を掴まれた。

すぐに両腕を開けて猫を逃がし、パッと体を横に向けて青年と目を合わす……つもりだった。

拳が目の前まで迫っていた。



 さっきのはなんだったんだ。

 黒田正一は、そこら辺の茂みを覗きながら、先程の少し変わった女の子の事を思い出していた。見た感じ、中学生だろうが、平気な顔で自分に話し掛けるとは珍しい。目が合っただけで小さい子供に泣かれることだってあるというのに。

 嬉しい、というよりは心配になる。悪い人間に騙されそうな人、というのは、そのまんま彼女の事を指すのではないだろうか。

 ユキは木に登っている可能性もあるため、黒田は一度腰を上げて辺りの木を眺める。

この公園、広さは中規模程度、遊具も大してないのだが、草木など緑が多く、木陰も多い。猫にとっては最適の場所らしく、散歩に出かけるとユキは必ずと言っていいほどここに来るのだ。先程の女の子の言葉が嘘でなければ、今日も来ていたようだった。

 しかし、のんびり者のユキとてずっと同じ場所にいるわけでもないだろう。もしかすると、他の場所に移動してしまったのかもしれない。他に、心当たりがないわけでもないのだ。

 他の場所に行くなら、この公園に雪がいた時のために、先程の女の子に自分の連絡先でも渡しておいた方がいいかもしれない。ナンパと思われるかもしれないが、それは構わない。

 そんな風に、他の場所に移動しようかと考えていた時の事だった。

「キャー!」

 物凄い金切り声が、黒田の耳に届いた。この高めの声は、先ほど聞いたばかりのものだ。

 声のした方へ走り、開けた場所に出た時、先程の女の子が、見覚えのある男に出入り口で捕まっていた。女の子の手から、ユキが飛び出てくる。

 巻き込んでしまった、とすぐに察して、黒田は地面を蹴る。しかし、二人までの距離はまだある。例え世界一の俊足でも、男が振り上げた拳から彼女を守る事は不可能だろう。

 しかし、次の瞬間、黒田は予想外の光景を目にする。

 男の拳が顔に当たる寸前、女の子は勢いよくその場で屈んだ。女の子は、背中を掴んでいたせいで前のめりに体勢を崩した男の顎に向かって、軽く指を曲げた状態の掌を突き出す。続いて、跳ねた顔が戻ってくる前に左足を上げて、男の股間に蹴りを入れた。黒田の口から思わず「うお」という声が漏れた。同じ男だから分かる。今のは痛い。女の子は最後に男の手首を掴むと、くいっと捻ってそのまま横に倒してしまった。ついでに、顔面に蹴りを入れてから、その足で男をつんつんと突く。どうやら失神してしまったらしく、男は反応しない。痛みでショック死していないか心配になる連続技だった。特に中盤。

「あ、さっきの人」

 ふぅ、なんて額の汗をタオルで拭いながら顔を上げた女の子はようやく黒田の存在に気付き、呑気な声を上げた。

「大丈夫だった……な」

 安否を気にする必要が無いほど圧倒的だった。

 案の定、女の子は笑顔を浮かべながら(少し怖く感じたのは内緒だ)頷き、「あ」と小さく声を漏らした。

 女の子の視線は黒田の足元に向かっている。黒田が下を見ると、横にユキが尻尾を振りながら呑気そうに佇んでいた。黒田を見上げ、目が合うと「ミャー」と鳴く。これは、餌を催促する時の鳴き方だ。腹が減っているらしい。

「あの、猫におにぎりって良くないですよね?」

「あ? ……あぁ、まぁ、塩分は、な。というか……」

 女の子の足元に倒れている男をチラリと見る。

「あぁ、そうでした! この人、なんか様子がおかしかったんですけど……」

 普通はそっちを先に話さないだろうか。やはりどこか抜けているが、先程の連続技を見たせいか、ある種の余裕にも思えてくる。

 倒れている男は、どう見ても数日前に自分が返り討ちにした相手だ。結果的に巻き込んでしまった以上、何も言わずにユキだけ引き取ってサヨナラというわけにもいかないだろう。

 しかし、あまりこの場に長居するのも良くない。こういう連中は、何をする時も大抵、仲間が近くに居るのだ。先程の悲鳴を聞いて、この場に来ないとも限らない。

「とりあえず……」

 場所を移そう、そう提案する前に、背後から複数の足音が聞こえた。

 振り返ると、倒れている男と同じような服装の男が四人、こちらに近付いてきていた。数日前に返り討ちにしたのは三人だから仲間が増えている。

 逃げる、という選択は出来ない。自分の背後に立っている女の子をチラリと見て判断する。この女の子の足では捕まってしまうし、別々に逃げたところで全員が自分を追って来るとは思えない。先程の連続技だって、基本的に一対一だから有効なものだろう。

 男達は、黒田達の足元を見て、顔を上げると怒りのこもった目を向けてきた。

 小さく溜息を吐く。仕方がない事だ。やったらやり返される。それは当然だから。

 黒田は足元にいるユキの首を掴むと、女の子に渡した。

「ど、どうしましょう」

 白猫を胸に抱き、狼狽している女の子に問う。

「今、携帯持ってるか?」

「持ってないです。鞄の中に……」

「それじゃあ、公園の周りに公衆電話があったはずだから、警察呼んでくれ。人がいれば、助けを求めてもいい」

 ポケットから財布を出して手渡し、手を振って、さっさと行くように指示する。女の子は、近付いてくる男達と黒田を何度か見た後、大きく頷いて、公園を出て行った。

 それに反応してか、早足でこちらに向かってくる男達を見ながら、黒田はもう一度溜め息を吐く。煙草を吸いたくなったが、そんな暇はない。

 そういえば、先程の女の子はこの公園で何をしていたのだろうか。

 ふと思いながらも、黒田は気持ちを切り替え、男達に強い眼差しを向けた。




 同日の夕方。

 奈々は不満そうな表情をしながら父親と共に警察署から出た。当然ながら、補導されたのは黒田と、先程の青年達だけで、奈々は関係者として話を聞かれただけである。では何故、彼女がこんなに不満面をしているかというと、

「しょうがないよ。煙草を持っていたのは事実なんだから」

 父親の言葉に、奈々は更に口を尖らせる。

 奈々や目撃者の証言によって、二人の正当防衛は認められたものの、黒田は所持していた煙草が原因で、今も警察署で話(父親曰く説教)を聞かれている。先程まで一緒に居た担任教師によると、喧嘩ではなく喫煙で処分が下る事になるかもしれない、とのことだった。

「じゃあお父さんは高校生の時に煙草吸ってなかったの?」

「吸ってなかったよ」

 即答すると、奈々は頬を膨らませる。そんな娘を見て苦笑しながら、「高校の時は」と小さく付け足した。

 その呟きは聞こえなかったのか、奈々は頬を膨らませたまま車の助手席に乗り込む。

「でも、よかったよ。奈々に怪我がなくて。鍛えてくれた大島さんには感謝しないとな」

 大島さんというのは、犬山家の近所に住んでいたお爺さんだ。奈々の祖父母と同年代で仲が良く、そして様々な武術の経験者でもあった。奈々は、大島さんが元気な頃、護身術を中心に、色々と稽古を付けてもらっていたのだ。新しい技を覚えるたびに父親で試していたのは反省するべき過去だろう。大島さんにも怒られたっけ。

 その大島さんが亡くなって、もう三年ほど経つ。自主稽古は続けているが、今日のように役に立つ日が来るとは思っていなかった。本当に、感謝である。

 そして、父親に心配をかけた事に今更ながら気付いて、頬が萎んでいく。

「お父さん、心配かけてごめんなさい」

 父親は車のエンジンをかけてから、目を細めて笑い、奈々の頭を撫でた。

「別にいいよ。昔と比べて、最近は大人しかったから、むしろ心配してたくらいだ」

 確かに、幼い頃は男の子のようにやんちゃしていた奈々だったが、そこまで言われるのは心外で、小さく頬を膨らませて不満を表した。

「奈々を守ってくれた男の子、同じ学校なんだって」

「うん。ビックリした。もっと年上かと思ってたから」

 奈々が正直に言うと、父親は笑い、「父さんもだ」と言った。

「奈々は四葉のクローバーを探して、猫を見つけたんだね」

 父親が不意に口にした言葉に、奈々は首を傾げてから頷く。父親はそれ以上何も言わずに、黙って車を走らせる。

 予想外に慌ただしい一日だったため疲れていたらしく、奈々はいつの間にか眠ってしまった。

「流石、俺達の娘だね」

 そんな父親の言葉には、気付かないまま。




 あの日と同じ場所にしゃがんで、パッと見た感じ、三つ葉しかないクローバーを眺める。

 日が暮れてきた。そろそろ、仕事を終えた父親が迎えに来てくれるだろう。今日は家族で外食へ行く事になっているのだ。

 結局、あの後も四葉のクローバーを見つける事は出来ず、誕生日はサプライズプレゼントと手作り四葉のクローバークッキーで祝った。もちろん、ケーキも。

 見つからないかな、と何気なくクローバーを指先で掻き分けていると、後方遠くから小さな声が聞こえた。

 父親が来たのかも、と振り返ると、公園の出入り口にはジャージ姿の黒田が立っていた。

「クマ先輩……」

 奈々の呟きが聞こえたわけではないだろうが、黒田は照れ隠しように後頭部をガシガシと掻きながら近付き、

「お前がここにいたって、宮原に聞いたから」

「宮原先輩と仲直りしたんですか?」

 奈々が問うと、黒田は苦々しそうに「分からん」と返した。奈々も、「そうですか」とだけ言って、足元に目を向けた。

「あの時、私は四葉のクローバーを探していたんです」

「……あぁ、警察と教師から聞いた」

「そうなんですか。なんか、恥ずかしいですね」

「お前にそんな感情あったんだな」

「失礼な」

 奈々と黒田は笑い合ってから、並んでベンチに座った。

「でも、四葉のクローバーって、探して見つけるより、偶然見つけた方が幸せになれるらしいんです」

「そうなのか」

「三つ葉の――ありふれた幸せの中から、特別な幸せを探して見つけるのは難しい、そういうのは不意に気付くもの、って感じですよね」

「なかなかロマンチックなこと言うな」

「乙女ですから」

「俺の知ってる乙女は男に金的攻撃なんてしねーよ」

 むぅ、と不満そうな表情を浮かべてから、奈々はもう一度小さく笑った。黒田も笑い返すと、二人の間に静寂が訪れる。

 ベンチに座る二人の距離は、子供一人分ほど空いている。元々、それほど大きなベンチでもないため、二人が端に座ってもその程度の空間くらいしか空かないのだ。

「クマ先輩」

 クローバーを眺めながら、奈々はそっと口を開く。

「ん?」

「宮原先輩が言ってたんですけど、クマ先輩の大切な人って誰ですか?」

「……宮原が?」

 思い当たる節が無く、聞き返すと、奈々は「はい」と頷く。

「自分が殴られたのは、クマ先輩の大切な人を悪く言ったからだ、って」

 あぁ、と黒田は思い付いて、照れを隠すために少し顔を背けた。宮原が全て馬鹿正直に話さなかったことは意外だったが、有難かった。奈々に全てを話すつもりは、今だってない。あれは話さなくてもいい事だ。

「家族とかですか?」

「いや」

「親戚?」

「違う」

「友達?」

「いない」

「ユキちゃん?」

「流石にない」

「…………」

 突然黙って、疑うような視線でじーっと見つめてくる奈々に怯みながらも、

「なんだよ」と訊く。

「……もしかして、恋人さんとかですか?」

「違うっての。友達もいないのに彼女がいるわけないだろ」

「……じゃあ、私ですか?」

 うぐ、と喉の奥が鳴った。唐突に確信を突いてきやがった。

「ちが、う」

 なんとか否定したが、バレバレらしく、奈々は落ち込んだように顔を俯けている。

「お前が気にする事じゃない。俺がカッとなってやっただけだ。今は反省してる」

 なんか、犯罪者のような言葉だ。まぁ、人を殴ったので犯罪は犯罪なのだが。

「『正しい生き方』ってなんでしょうか」

 俯いたまま、奈々は独り言のように呟いた。

「……分からん」

 改めて考えても、やはり答えは出ない。ただ、

「俺は、自分でも呆れるくらい、後悔はしてない」

 そう言うと、奈々は顔を上げて黒田を見てから、困ったように笑った。そして、不意に頬を赤く染めた。

「あの、クマ先輩……」

 その時、背後の茂みからガサッという音がして、二人は驚いたように振り返る。その時、いつの間にか距離がかなり近くなっていたことに気付いたが、気付かない振りをした。

「あ」

「あ」

「あ」

 あ、が三つ重なった。二つは奈々と黒田のもの、そして残る一つは、茂みから顔を出した父親のものだった。

「いや、覗くつもりはなかったんだ。邪魔したら悪いかと思って、様子を見ていただけで」

 一般的にそれを覗きという。ベンチを飛び越えた娘に護身(?)術で倒される父親を見ながら、黒田は笑みを浮かべ、鼻から小さく息を吐いた。


 その後は、三人で外食へ行く事になった。最初は、停学で自宅謹慎中であることを理由に断っていた黒田だったが、

「三人いるんだし、久しぶりに焼肉でもいいかもね」

「え!? やったー!」

 と無邪気に喜ぶ奈々を見ていると、行かないとは言いにくくなってしまった。

 その帰り道。行きの道や夕食に会話を盛り上げてくれた奈々は助手席で眠ってしまったらしく、車内は静かなものだった。

「黒田君は猫を飼ってるんだよね」

 ふと、父親が口を開き、黒田は「はい」と答える。

「元野良の白猫を一匹と、サモエドっていう犬を一匹」

「へぇ、犬と猫。喧嘩したりしないの?」

「はい。むしろ、犬の方は猫が赤ん坊のころから世話をしてるから、子供みたいに思ってます。たまにユキが――猫の名前なんですけど、フラッと出て行くと、落ち着きがなくなりますから」

 そう言うと、父親は声を出して小さく笑った。

「猫、好きなんですか?」

「うーん。まぁ、好きな方かな。変な愛着はあるよ」

「変な愛着?」

 あぁ。と父親は頷く。

「俺の昔のあだ名、『ネコ』だったんだ。犬山なのに、ネコ」

「猫? 昔は体が小さかったから、とかですか?」

 黒田と比べれば身長は低いしほっそりしている父親だが、一般的に見れば平均くらいではないだろうか。

「違う、違う」

 父親は左手を振ってから、その手を腰に当てた。

「昔はすごい猫背だったんだよ。それで、ネコ」

「へぇ。意外です。今は、すごく姿勢良いですよね」

「そう言われると嬉しいね」

 それでいったん会話は途切れたが、赤信号で止まった時、今度は黒田が口を開いた。

「やっぱり意識して姿勢を直そうと思ったんですか?」

「うん。中学の頃なんか、よく指摘されてたからね。あだ名がついたのもその頃だし。直し始めたのは、高校に入る前くらいからだけど。高校デビューってやつだね。あっはっは」

 少し違う気がするが、流石に後輩の親にはツッコめない。黒田はツッコミの言葉を飲み込むと、先程奈々にされた質問を口にした。

「犬山さん、『正しい生き方』ってなんでしょうか」

 奈々が良く話す頼りになる父親、そして今日こうして食事を共にして、何となく、この人なら答えを出してくれるのではないかと思った。

 しかし、父親は静かに微笑みながら首を横に振った。

「分からない」

「そうですか」と肩を落とした黒田に、父親は「でも」と言葉を続ける。

「だから、俺はこうして生きてるんだ」

 その言葉に深い何かを感じて、黒田は黙ってしまう。言葉に気圧されたような気さえした。

「まぁ、俺が言えるのは、好きなら好きって言っちゃえって事くらいかな」

「はっ?」

「後から後悔しても遅いぞー。青春は短いんだ」

 茶化されている、と分かり、黒田のたまご型の大きな顔が赤く染まる。そんな反応をバックミラーで見た父親は、可笑しそうに笑いを堪える、

 そして不意に優しい笑みを浮かべて、こう言った。

「大丈夫。猫と四葉のクローバーってのは、結構いい組み合わせなんだ」




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