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そのときには灰の月を  作者: しろてん
灰の鳥かご
20/20

20.


 林の手前には朝日がちょうど木々に遮られて影になっているところがあって、その中でやたら元気な声が上がっている。罰を受けているという少年たちだ。彼らは合計四つの桶を担いで丸太の上に立っている。どうやら肉だんごが転んで怒られたらしく、教官たちの大きな怒鳴り声がここまで聞こえている。

「夜の間に川原の方でちんけな火事騒ぎがあってな」

 アウリスの見ているものが解ったのだろう。猫じゃらしは後ろを振り返ることはなく、キセルを吸うあいまに説明してくれる。

「かがり火が所々でおっ倒れたらしい。で、昨日見張り番だったグレウの野郎らが不注意を咎められてんだよ」

「ところどころで倒れてた?」

「近衛騎士団もそれに気づいた。こういう山奥じゃあ火事が一番怖え。騎士殿らは避難するより消火を手伝って下さったらしいよ。結果的には幸運だったんだよ。奴らが館に踏み込むのが遅れた分だけ俺らの方にも準備する時間の猶予があった」

 準備する……、つまり騎士たちを騙くらかすためにアウリスと猫じゃらしが行った準備のことか。

 そうか。そういうことだったんだ。

 気の無い様子の猫じゃらしの声を聞きながら、アウリスは合点した。

 なんだか切ない。泣きたいような、ここの人間の全員を抱きしめたいようなちぐはぐな気分だ。もちろん目の前の男を抱きしめたりなんか絶対しないが。

 じぶんはいろんな人に守られていたのだろう。

 猫じゃらしのキセルの甘い香りが漂う中をアウリスは近づいていく。ゆったりめの襟ぐりからは昨日ずっと近くで見た男の鎖骨が覗いている。いつも以上にアウリスの体は緊張している。

 猫じゃらしがさっさと服を着付けて出て行ってしまったあと、アウリスは放心状態だった。状況に対するショックが大きかったのだろう。同意の上とはいえ、まさか騎士たちを追い返す為に二人で裸になって抱き合う羽目になるとは思ってもいなかったのだから。ふつうありえないだろう。その辺りはさすがに利益の為なら子供を暗殺するのも厭わない男だ。常識を求めても仕方ないかもしれない。

 ショック状態が抜けたあたりで怒りを感じた。猫じゃらしは慣れているのかもしれない。だけど、じぶんはそうじゃない。

 ジークリンデの屋敷で一生の殆どを過してきたのだ。この領内で一番偉い貴族の屋敷で、じぶんを傷つけ脅かすような全ての物から退けられ、柔布に包まれるようにして育った。

 そのじぶんには、この男の野蛮さが許せなかった。

 そこにあった自分自身の傲慢さに、アウリスは気づいてる。今になって気づいた。一度気づいたら何故今まで見えなかったのかと不思議になるくらいだった。

 アウリスはいつもどこかで自由になりたいと思っていた。剣を習い、下町にこっそり忍び出たりして。ヘリーネの忠告を無視して高いところに登り続けたのだって、もしかしたらその辺りに根付く部分があったのかもしれない。自由の意味がわからないままに、ただ奔放に憧れていたのだ。わからないからこそ憧れたのかもしれない。 

 だけど今は違う。少しだけ何かが変わった。

 だって、アウリスは昨日じぶんで選んだのだ。

 目の前の男はいつもどおり、その美貌に硝子細工みたいな繊細で艶やかな笑みを浮かべている。挑むようにアウリスは彼を見た。

「わたしはあなたが嫌いだわ」

 一夜明けた朝日の中ではアウリスの心は別の怒りに満ちていた。その矛先を見失わないよう、冷静に息を吐く。

「ずっと不安だった。朝起きたら暗くて、部屋は何日経っても知らない部屋みたいで、とてもさびしかった。家に帰りたかった。……それは今でも変わらないわ」

 黒炭の人間は粗野で乱暴で、そして時々ひどく優しい。

 だから不平を言うようで嫌なのだが、今の言葉はアウリスの本心だ。家を恋しく思う気持ちはもっと別のところにあるのだ。周囲の人間は関係ない。例えば、ここがジークリンデの屋敷と同じくらい豪華な場所だったり、同じ貴族生まれの人間に囲まれていたのだとしても、アウリスはきっと寂しかった。

 アウリスは猫じゃらしがキセルの煙を吐くのを追って目線を反らした。

 じゃり、と膝の下で土が鳴る。

 嫌いだった。だって初対面に毒針なんか刺してきて殺されかけたんだから。

 それでも、彼は昨日選択を委ねてくれた。自由を委ねてくれた。そしてひとつ、アウリスには進むべき道が見えた。

「アウリス」

 猫じゃらしが驚くなんて珍しい。逆にアウリスはいっそう居心地が悪い。

 アウリスは猫じゃらしの前に跪いたまま、目線を上げた。 

「わたしに剣を教えてください。飯炊きもちゃんとやります。みんなと戦場に出て、みんなのご飯を作りながら、剣を振る」

 わたしは黒炭の人間になりたい。

 そうすることで守ることの出来る秘密がある。だからだ。 

 猫じゃらしはそれまで黙ってアウリスの言葉を聞いていたが、キセルを口に含むついでみたいに笑った。

「意味がわかって言ってるのか、アウリス?」

 傭兵になる為には全てを忘れなければならない。生まれ育った家のことや、家族のこと、それらを全て忘れると誓って初めて、黒炭の人間として剣を握る。もちろんアウリスは覚えている。前に猫じゃらしが丁寧に説明してくれたのだから。

 うなずいたアウリスを見て猫じゃらしはまた笑う。絵本のチェシャ猫みたいに油断のならない意地悪な顔だった。

「飯炊きの方はババアに聞け。明日からあんたにも稽古をつける。教官たちに話を通しておく」

 アウリスはうなずいて立ち上がった。また土がついてしまった服を両手で叩く。

「それ客室にあったシーツじゃねえのか」

「そうですが」

「何で巻いてんだ。さっさと洗濯係の方に渡しとけよ」

 猫じゃらしの前に出ると思ったら衣服を身に着けても尚不安だったのだ。寝台の上で震えていたときのままシーツを巻いてきたのだが、そんなアウリスの心の機微なんてこの男には絶対わからないだろう。

 思わず睨んだアウリスに茶化すみたいに片方の眉を上げたあと、猫じゃらしはふと真顔になった。

「おまえの姉、リシェールは今王都にいる」

「え?」

「今のうちに教えておくべきかと思ってな。領主が死去した直後に王族は王都に戻ったが、そのときにリシェールを一緒に連れていたらしい」

「それは……婚約者として?」

 いきなりの話に戸惑いながら、アウリスはどうにかそう口にした。猫じゃらしは表情を変えずに見下ろしてきた。

「さあねえ。父親って後ろ盾をなくした田舎貴族の娘にどんだけ価値が残ってるだろうな。主の急死に未だ次の領主の名は挙がってねえまま、ジークリンデの領土は実質上、国が管理している。内緒話みてえに囁かれてたジークリンデ領主の長女と第一王子との婚姻の話は白紙に戻ったと考えた方がいい」

 リシェール姉さまとラファエさまの婚約がなくなった。それは一時的なものだろうか。ジークリンデ貴族家は今や息も絶え絶えだ。家は完全に空っぽになってしまったのだから。

 王子が姉を連れ去ったのならば他に理由があるからだろう。もちろん、今のジークリンデに彼女を一人で置いていくのは忍びないと考えたのかもしれない。婚約は破棄されたとしても昔馴染みのよしみはある。

 珍しいものを見るように緑色の目が細められた。アウリスが黙り込むのを猫じゃらしは感情の篭らない眼差しで観察している。アウリスの反応が予想外に乏しいからかもしれない。

 確かに、以前のアウリスならばすぐ答えることが出来ただろう。

 優しいから。

 ラファエさまは優しいから、リシェール姉さまのお世話をすることにしたんだと考えた。そして、きっとそれを疑わなかっただろう。

「リシェール=ジークリンデが王都の城にいることはわかってる。その後のことはよくわからねえ。王城内だからな、外のように情報が集まるってわけじゃねえ。だがまあ、暫くは注意しといてやるよ」

 アウリスの沈黙をどうとったのか、猫じゃらしは気の無い声でそんな言葉をかけてきた。もしかして、本当にもしかしてだが感情が篭っていたようだ。アウリス自身のことを案じてくれているのかもしれない。

 ふと思い立ち、アウリスは立ち去りかけている相手に声をかけた。

「黒炭の傭兵になるには家族を忘れないといけないんじゃないんですか?」

 猫じゃらしはキセルを口に翳したまま微笑んだ。

「俺の利益にならねえならな」

 本当に最低だな、この男は。

 アウリスの方には異存はない。姉が安全なのかどうかは知っておきたいのだ。それはそれで問題なのだろう。誓いは立てたものの、実際に全てを忘れるというのは難しいものなのだろう。

 朝日に照らされた屋敷の方へ歩いていく優雅な後ろ姿をアウリスは暫く眺めていた。白い煙は蜘蛛の巣みたいだ。するする絡まり、風に煽られながらほつれていく。

 猫じゃらしはじぶんに聞かなかった。

 じぶんの選択の理由を聞くことはなかった。

 アウリスの頭には一つの景色が浮かび上がった。ジークリンデの館での最後の一日。猫じゃらしに殺されかけた日のこと。

 アウリスは高いところが好きで城壁に登ることも珍しくはなかった。その日もそうだった。国王と父が王都にとんぼ返りしたすぐ直後のことで、城には姉のリシェールとじぶん、ラファエと王妃がいた。

 城壁のてっぺんで、アウリスは青い湖畔の二人を見つけた。湖は館の裏戸を出てすぐの森の中にあり、リシェール姉さまもよく散歩に出ていた場所だった。

 最初は何を見ているのかわからなかった。

 木陰の地面には群青色のドレスが一杯に広がっていて、その上には裸の二人が戯れていた。

 黒くて長い髪が陽射しに透けているのが綺麗で。

 アウリスがもっと見ようと身を乗り出しかけたとき、遠いところにいる相手が何かに呼ばれるように振り向いた。王妃の美青年の使用人だった。王子の泥んこの手を拭いたり、王妃のドレスの裾を持ち上げて歩いていたりする、あの彼だ。振り向いた男は青より青い瞳をしていた。

 黒髪はミハネ王国の人間の特徴だという。

 黒い髪の王妃と黒い髪の使用人が情事に至っているのを見たアウリスは恥ずかしさの余りすぐに身を隠した。

 それを深読みすることもせずに。

 じぶんでもお気楽だったと思う。王妃がじぶんを殺そうとしたのはあの一件のせいなのだろうに。

 今アウリスは確信に近いものを覚えている。

 父親がよそで作った子供は片親と呼ばれる。でも逆はどうなのだろう。今朝寝室に肉だんごが現れたときに、彼にも聞いてみた。彼とはいつだったか同じような話をしたことがあって、肉だんごは特に不審ぶることもなく、こう言った。

 まあ、バレたら母子ともども家から追放だろ。貴族とかなら殺しちゃうんじゃないかな。

 肉だんごと初めてその話をしたときにアウリスも同じような結論を出した。

 サラン王妃が国王を裏切っているのだとする。でも、一時の情事を見られたからって人殺しをしようとは思わないかもしれない。

 でも、それが一時の戯れではなかったら?

 彼女の裏切りが既に形ある物として世界に生まれてしまっていたら。

 それだけではない。ミハネ王国出身のサラン王妃の裏切りは、ミハネ王国の裏切りだということにもなりかねない。猫じゃらしも似たようなことを言っていたではないか。国王とサラン王妃は見かけ通りの仲睦まじい夫婦だとは限らない、王妃が輿入れしてからは王宮内の派閥ぶりが悪化した、と。

 ただ、そこまで話が大きくなるとあまりアウリスには自信が持てなかった。結局はジークリンデ公爵家の娘。子供で田舎者で世知らずでしかないのだろう。

 だから、アウリスはアウリスの範囲で選んでいくしかない。

 ベッドシーツを避け、服のポケットに手を入れたアウリスは中から見知った牙を取り出した。いつだったか、ラファエにもらったレアトールの大狼の牙。黒い牙は朝日に反射し、宝珠みたいに透明な光沢を放っている。

 アウリスは牙を握りしめ、首にかけた。

 猫じゃらしに紐を通してもらっていてよかった。今度こそ、なくすつもりはない。

 アウリスはラファエを信じる。森の中で綺麗な顔が台無しになるまで涙を流し、じぶんの為に泣いてくれた、じぶんの元へ迎えに来ると約束してくれた。

 俺は生まれながらの王者だと言った、彼。


 王子さま。王子さま。

 わたしはあなたの秘密を守ります。 

 

 だから、今は心の奥にしまっておこう。じぶんがアウリエッタだった頃の記憶と一緒に、この秘密をしまっておく。守っていく。この遠い場所で、アウリスとして。

 先ほどから聞こえていた怒鳴り声が一層大きくなった。アウリスは牙のネックレスを襟の奥にしまい、林の前での騒ぎの方へ歩く。

 鳥の鈴を鳴らすような鳴き声がいくつも上がっている。川原に面した森の中には野生の獣の巣がたくさんあって、飯炊きの時間には彼らの鳴き声が一面で迫るように聞こえてくるのだ。

 アウリスが近づいていくと丁度右手の茂みから肉だんごが出てきた。背中を泥だらけにした肉だんごはアウリスに気づくことなく教官のがなる方へ急いで、再び地面の丸太に乗っかっている。丸太には同じように泥が塗られているようだ。わざと滑って落ちやすくしているのだろう。

 アウリスは肉だんごの背後を通り過ぎた。教官は部外者に気づいているようだが特に怒鳴ってくることはない。

 二列に寝かされた丸太の上に目当ての人物を見つけると、アウリスは彼の前まで行き、じぶんも丸太に乗った。

「え、難しい」

 思わず呟いてしまうくらい、何の手入れもされていない丸太の曲線に添って立つことは至難の業だった。泥が塗ってあるのも地味に嫌味だ。バランスを取る為に他の子らを真似して二の腕を体の横に出そうとしていたら、真正面の気配が睨んできた。

「おい、チビ。てめえはなめてんのか」

 グレウはさっそく好戦的だ。真っ黒な目の色が苛立ちのせいか一層暗くなっていて、まさに鬼の迫力だ。

「こ、こんにちは」

 気圧されながら、目の前の少年にアウリスは挨拶する。グレウは不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。横顔の彼に、もうほんの少しアウリスはにじり寄る。

「聞いたんです。昨日の夜、川原の方で火事になりかけたんでしょう? かがり火の点検なんていつもしてることですよね、それが昨日に限って事故があったなんて、変でしょう?」

「ああ?」

 唸るグレウにアウリスは頭を下げた。

「ありがとう。グレウたちが近衛騎士団の足止めをしてくれたことで、時間が稼げました」

「は? てめえに礼言われる筋合いはねえよ」

「へ?」

「何の話だよ」

 アウリスはびっくりしてグレウの顔を見つめた。気だるそうに眉をひそめているが、グレウが嘘を言っているような雰囲気はない。

「べつに俺は面白そうだから話にのっただけ。騎士団の奴らが慌てふためいてんのは見物だったからなあ。俺らが何もしなくても勝手に進んで労働してくれて火は綺麗に消してもらえたよ。まあ、川原の傍って場所だ、こっちだって元々大事にするつもりもなかったのによ」

 そのときのことを思い出したのか、邪悪そうにくくっと喉の奥で笑うグレウをアウリスは呆然と見つめていた。

 どうやら、グレウは主格ではなかったようだ。川原の見張り役はグレウの一派が任されていたことを知っていたから、自然と彼の指示だったと思い込んでいた。

「じゃあ、誰が言い出したんですか? 火で騎士達の気を散らそうって」

「あ?」

 悪戯に成功し悦に入った笑みで、グレウが顎を動かした。両手が担ぐ竿に塞がれているから指させないのだろう。アウリスは彼の視線を追う。

「肉だんご?」

 そこには、何回目かに地面に落ちていく風船みたいな体型があった。

 アウリスは再び衝撃を受けた。

 いつから、肉だんごは気づいていたんだろう。思えば彼が一番気づきやすい位置にいたのだろう。アウリスの一番近くにいたのだから。

「そっか……」

「何?」  

 俯いて物思いに浸っているアウリスを見て、グレウが面倒くさそうに唸る。

「何泣いてんだチビ。かったりぃ」

 いや、泣いてはないんだけど、とアウリスはグレウを見返した。

 それにしても、あれだ。

「グレウってけっこう鈍感ですね」

 丸太と同じくらい重そうな蹴りが真正面から繰り出された。それを寸でで避け、アウリスは地に降り立つ。思わずひやりとさせられた。丸太の上なのに信じられないくらい体のバランスを取るのが上手だ、グレウは。

 でも、罰の間は丸太の上から降りたらいけないのだろう。

 アウリスは揚々と、脱兎のごとく素早くグレウの傍を離れていく。

「コラチビ。戻ってこいや」

「嫌です」

 背中にかかったグレウの怒鳴り声に百八十度回って舌を出してやる。グレウは教官に何か小言を言われたらしく黙りこんでいた。だけど追いかけてこんばかりの形相で睨んでいる。これは後が怖いだろう。そこはまあ、そのとき考えよう。

 ベッドシーツを翻し、アウリスは林の中へ駆けていった。

 とりあえず、今は誰かさんの為に木の実を見つけてきてあげようか。

「おい」

 川原を目指すアウリスに木立の中からセツが姿を現した。彼もこの時間に起きていたようだ。もしかしたら一度も眠っていないのかもしれない。

「飯炊き場へ行くのか?」

 そうだが、どうしてそんなに離れているのだろう。木の幹と木の幹のあいまに顔を覗かせたままでセツは近寄ってこない。

「なにか」

 胡散臭い物を見る目でアウリスが見てやると、セツは前髪を中途半端に搔き上げて額を押さえた。寝不足のせいというだけではなく、何やら気分が悪そうだ。

「だから、何だ。アウリス。おまえはガサツで体も小さく剣も握らぬ卑怯者だと思っていた。だからアレだ。身に余る栄誉であると知れ」

「意味がわからない、そこをどいてください」

 セツの挙動不審はいつものこと。そう思って藪の道へ入っていこうとしたらすれ違いざまにアウリスの腕をセツが強く掴んだ。

「仕方ないだろう。アルヴィーン様がそうなら俺も大切にしなければならないんだ。だから何か手伝えることがあれば言え、仕方ないというか心底嫌だが、してやる」

 アウリスは眉をひそめる。何か大事な部分がわざと伏字になっているせいで話が見えないが、ひとまず彼は飯炊きを手伝ってくれると言っているようだ。

「じゃあ、オオグルミを拾うのを手伝ってください」

「オオグルミ?」

「川原の木に生る木の実です。前に肉だんごにわけてもらってたでしょう? 見たら解ると思います」

 しかめ面のセツをやや不思議に思いながら、アウリスは彼と一緒に歩きだした。自分から手伝うと言ったんだから自分の言葉は守ってもらおう。オオグルミはたくさん落ちているし長くはかからないだろう。ただ、一人より誰かと一緒にいたい気分なのだった。

 若葉が日傘のようになっている下を歩いているうちに、ふと低い轟きが聞こえてきた。合図の鐘だった。背後の施設で、誰かが飯炊きの合図の鐘を打っている。

「どうした? アウリス」

 不思議そうにセツが茶髪を揺らして首を傾げる。

 アウリスはなんとなく足を止めて、森の緑の向こうを振り仰いだ。遠くに目玉岩が見えている。城門より立派な苔の生した石の壁が聳え、その背後の青空は高く、秋の訪れを思わせるような鳥のはばたきを響かせている。

 夏は終わり、これから秋は深まり、冬には川原に雪が積もったりするのだろう。春には雪のあいまに薄紫色の蕾が覗く。それでまた、ツルミドリの季節がくる。

 途方もない、長い夢の始まりのようだ。

 もちろん、夢でも幻でもない。

 だけど今だけ。今だけはこの夏起ったことが全て夢だったように思える。なぜなのかわからない。

 でも、陽射しに目を閉じれば浮かんでくる。

 玄関の扉を開けた先のシャンデリア。紅と金糸の絨毯。銀色の髪飾り。花壇の花々より煌びやかに色鮮やかに息吹く、ダンスホール。

 その中央では白い手袋を重ね合わせた二人の子供がくるくる回っている。

 幸せな幻だった。

 木漏れ日の暖かさが再び徐々に感じられるようになってきた頃、アウリスは歩きだした。

 背後では飯炊きの鐘が鳴っている。いつものように急かすようでもなく、目玉岩の石造りを吹き抜け、森の葉の茂りを揺らして川のせせらぎに溶け込んでいくように、ただどこまでも柔らかく鳴り続けていた。




fin.



 

 読んでくださり、本当にありがとうございました。

 アウリスの子供の頃の話はこれでおしまいです。

 次からは七年後のアウリス(とラファエ)の話をはじめます。


 ここまでお付き合いくださり、ほんとうにありがとうございました。


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