三十四
皇宮は、目に見えて騒がしくなってきた。ユリウスの誕生会が近いからだ。皇宮全体で誕生会に向けて準備を進めていているのである。
ミカエルシュナもまた、急ピッチで自身の準備を進めた。国内貴族の名前と顔を覚えるために貴族名鑑を何度も読み込み、それぞれの名産や特徴を頭に叩き込む。国外から参加する貴賓達のこともしっかり覚え込んで、夜会での作法も並行して身体に教え込んだ。そこに客将としての鍛錬も合わせれば、時間は目まぐるしく過ぎていった。
忙しさで目がまわりそう、とミカエルシュナがひとりごちたのも、無理からぬ話で。
「やっと、ひと息つけた」
皇宮の中庭で、エリルの淹れてくれた紅茶の入ったカップ片手にため息をつくミカエルシュナ。正直なところ、紅茶の香りや甘い菓子、咲き誇る花々を楽しむ精神的な余裕は無い。
「本当にお疲れ様でした、お嬢様」
「ありがとう。まだ全部が終わったわけではないけれどね」
エリルの労りにそう返しつつ、ミカエルシュナは紅茶を飲む。蜂蜜の甘味が疲れた身体に染み渡るようだった。
「結局ダンスの練習相手はほとんど陛下にお任せすることになったし⋯⋯付け焼刃である以上、陛下に対応をお任せすることも多そうだわ」
「しかたがありません。お嬢様はこの国の風習に馴染もうとしている段階なのですから。こればかりは、時間が無さ過ぎます」
オリヴィアの慰めを素直に受け取ることができず、ミカエルシュナは黙り込む。
ミカエルシュナがこの国に来てから、まだ数ヶ月しか経っていない。オリヴィアの言葉はもっともである。だが、だからといって自身で納得できるかどうかは別だった。
「⋯⋯まあこればかりはわたくしの問題ね」
ミカエルシュナは菓子をつまみながらひとりごちる。
そもそも客将という立場を考えると、淑女教育やら妃教育もどきやらを受けるのがおかしいのだから、そこは今は考えないようにしている。考えたところで、今から辞めるとは言えないからだ。
──わたくし、このまま本当に皇妃になるのかしら。
ミカエルシュナは内心首を傾げた。
さすがにユリウスから好意的に見られていることは気付いている。このまま皇妃になってくれたら、と思われているのも勘付いている。
だが、本当に皇妃になっていいのか、という疑問は拭えない。その地位は、何の覚悟も無く就いていい地位ではないからだ。ほかにふさわしい人物がいるなら、そちらに譲るべきだと思う。
今のミカエルシュナには、戦う者としての能力しかないのだから。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
忙しさにまぎれて、考えないようにしていることがある。それは千年前──失った故郷と、そこに住んでいた人々のことだ。
今はもう無い故郷。いない人々。どれだけ想い焦がれようと、戻ることの無い情景。
思い出したところでしかたがないと切り捨てることはできなかった。
守れなかった。間に合わなかった。そんな気持ちが消えることは無い。過ぎたことだと、割り切ることは一生無いのだろう。
だからこそ、考えないで済む今の状況はありがたかった。忙殺されてようやく考えなくなるというのは、きっと健全ではないのだろうが。
ミカエルシュナは頭を振って中庭を眺めた。白い百合が咲き誇り、甘やかな香りが夏の風に乗って届いてくる。少し離れたところには人工池があり、そこでは薄紅がかった睡蓮が優雅に漂っている。
本来なら心を洗うような美しい風景だ。だが、素直に受け止める心の余裕が、今のミカエルシュナには無い。
忘れられない故郷の景色を思い出し、目の前の庭とどうしても比べてしまう。そもそも比べるようなものでもないのに。
こんな心持ちで、皇妃になどなれるはずがないだろう。
ミカエルシュナは沈んでいく気持ちを少しでも浮かび上がらせるために、菓子を口にした。
千年前は、こんな菓子も気軽に食べられなかった。貴族なら砂糖や蜂蜜はそれなりに入手可能だったが、今ほど気軽に手に入るものではなかった。菓子の種類だって、今ほど豊富ではなかった。
──ああ、また昔を思い出して、比べてしまう。
ミカエルシュナは軽い自己嫌悪に陥った。
千年の経過は、様々なものに変化をもたらす。面影が残っているものもあれば、全くの未知のものだってあった。
その変化そのものは心を沸き立てるものだけれど、同時に戻らないものへの郷愁をもたらす。一体いつまで、こんな感覚に付き合わなければならないのだろうか。
その変化の過程を見ていたなら、まだしも折り合いもついたのかもしれない。だがミカエルシュナにとって、全てが変化し終わった後に放り出された形だ。過程を見ることなどできなかった。
だから、唐突に出された千年の結果を、飲み込まなければならない。
ミカエルシュナの休憩は、結局身体はともかく、心を休ませることはできなかった。
───
ミカエルシュナは部屋を移動する途中、初めて見る顔に行き会った。
黒い髪に翡翠の瞳、すらりと背の高い、なかなかに整った顔立ちの中年男性である。少し枯れた、陰鬱な印象を受ける雰囲気であるが、それさえも陰がある、と一定の支持層を集めそうだ。自分を含めた美形を見慣れたミカエルシュナはへえ、ぐらいの感想しか抱かないが、歳上好きな女性にはたまらないだろう。
その男性は、ミカエルシュナと目が合ったとたん、電撃でも浴びせかけられたかのように身体を震わせ、硬直した。過剰な反応だが、見慣れたものなので特に気にせず、ミカエルシュナは会釈だけして通り過ぎようとする。
「失礼、ミカエルシュナ嬢とお見受けします」
だが、その男性は何を思ったのか、そう話しかけてきた。
ミカエルシュナは少し意外に思いながら、男性と向き合った。
「ええ、わたくしがミカエルシュナ・ルフェです。失礼ですが、貴方は?」
にっこり微笑んで問いかければ、男性は恭しく腰を折った。
「突然お声がけして、申しわけありません。私はフレイド・デュラックと申します。伯爵位を賜っております」
デュラックという姓を聞いたとたん、ミカエルシュナは驚きのあまり声を上げそうになった。代わりに男性──デュラック伯爵をまじまじと見つめる。
デュラック伯爵を名乗るこの男性、つまりはニヴィエ・デュラックの父親である。そう思って見れば、目元など似ているところがあった。
「お噂はかねがねお聞きしております。貴女のような方を迎えられて、ローディウムは幸運ですな」
「まあ⋯⋯ありがとうございます」
ミカエルシュナは微笑みを返すものの、いまいちデュラック伯爵の言葉の意味を掴みかね、内心首を傾げた。
デュラック伯爵は、どことなく落ち着かない様子である。
視線がうろうろとあらぬところをさまよっているし、そのせいで全く目が合わない。あるいは、合わせないようにしているのだろうか。
「⋯⋯伯爵閣下、何かご用があったのではないですか?」
ミカエルシュナがそう尋ねると、デュラック伯爵はう、と言葉を詰まらせ、口をもごもごさせた。せっかく見栄えのする容姿なのに、その仕種で台無しである。
「⋯⋯ミカエルシュナ嬢は」
「はい」
「⋯⋯かつてのアヴァロン王国に、何かご縁があったりするのでしょうか?」
「は⋯⋯?」
ミカエルシュナは思わず眉をひそめそうになった。辛うじて顔には出さなかったものの、いぶかしげな雰囲気は伝わっただろう。
だがデュラック伯爵はおどおどした態度に反して、答えを聞くまで引くつもりは無いようだった。しかたがなく、答えることにする。
勿論、馬鹿正直に言うつもりはなかったが。
「確かに、ゆかりがあると伝わっておりますが⋯⋯それが何か?」
「い、いえ⋯⋯失礼します」
デュラック伯爵は慌てたように頭を下げ、足早にその場を去った。それを見送り、ミカエルシュナは今度こそ眉をひそめた。
「⋯⋯何だというの?」
ミカエルシュナは呟きながら、胸の内に嫌な予感をひしひしと感じていた。
もしかしたら、否定するのが正しかったのかもしれない。否、否定したとして結果が変わらなかったかもしれない──そんなことを思って、果たしてそれが何の違いなのか、いまいち判断しかねる。
ただ、こうして接触を許してしまったことが致命的な間違いだと、そう思えてならなかった。




