後編 常識的な後輩
俺の所属している高校の弓道部は毎年、地元にある工業大学の弓道部と交流戦を行う事になっている。その大学は可も無く不可も無く、就職率だけは何故か毎年100%に近い確率を堅調に維持していると言う地味な学校だ。自宅から通える唯一の公立大学だから、一応この周辺地域で一番偏差値の高い進学校に通う俺達は、特に大きな労力を投入しなくても入学できる滑り止めと言う認識をいだいているだけだった。
男ばかりの三兄弟の二番目に生まれた俺は、進学した兄貴を頼って東京の大学に行こうか、地元から二~三時間離れた所にある中核都市にある大学を選ぼうか……と検討している最中。取りあえず天気の優れないこの町にずっと留まるのは避けたい。就職先はさておいて、大学は騒がしいけどちょっと楽し気な都会に立地する学校を選びたいと考えていた。弓道は続けたいから、できたら弓道部がある大学が良いんだけど。
だから地元の大学に行こうなんて、それまで全く考えていなかった。
……綺麗な射だな。
先ず抱いたのは、そんな印象。
左足を踏み出し右足をスッと開く。弓の下端を膝に添え、弓を持たない方のかけ(皮手袋のようなもの)をした馬手を腰に当て、一息吐く。次に弓を持つ方の弓手を握り直し準備を調え、ゆっくりと的を視るポニーテールの横顔―――その凛として涼やかな視線に、思わず息を飲んだ。
真っすぐに弓を持ち上げそれから弓手を的に向けて開き、一拍ののち流れるように左右に弓と弦を引き分ける―――弦を引く動作は慣れていない初心者がやると、大弓と弦の間に体を捻じ込むように見える時がある。かなり力が必要になるからだ。だけど本来は左手をまっすぐ的へ押し、右手の肘の端が糸で引っ張られるかのように、左右に引き分けるのが正しい。彼女は如何にも自然に、それを行っているように見えた。弓を引く強さは女子用で十二キロから十四キロ……と言う所か、実際は自然に引くなんて言うのは無理でかなりの背筋力を必要とする重労働なのに、眉一つ動かさない彼女はサラリとそれを行っているように錯覚してしまう。
キリキリと音がしそうなくらい力強く目いっぱい引き絞られつつある弓が……つがえた矢が彼女の口元の位置に辿り着いた時、ピタリと止まった。
教本のような綺麗な『引分け』だ。
俺は思わず、的を狙う彼女の時間が静止したような数秒間、魅入られたように目が離せなくなってしまった。
シュッと矢が放たれて、パンッと的に中った音が道場に響き渡った。
「匠?」
声を掛けられて我に返る。意識を取り戻した時には、既に彼女は礼を取ってすり足で所定の位置から立ち去った後だった。
そうだ、次は俺達の番だった。正座したまま、慌てて中途半端で止まっていた『かけ』のベルトを締め直した。
「ゴメン、行こうか」
立ち上がり、弓を左手にジュラルミン製の矢を右手に持ち、立ち位置に並んだ。
「礼!」
俺が発した掛け声に倣って、一緒に並んだ四人の高校生が弓と矢を腰に携えピシッと揃った礼を取った。
高校の担任には止められたが、俺は地元の工業大学に進学する事を選択した。
もともと都会に行ってやりたいことなんて何にも無かった。良い大学に入ったって、入った後は解放感に任せて暫く遊びまわるだけだろうし―――労せず入れる地元の大学に行ったって特に問題はない。俺は地元では一、二を争う土木会社の次男坊だ。兄は既に跡を継ぐべくその方面に関わる勉強を進めているし、少し方向は違うが似たような職種を専攻しているのだから、それほど家族に眉を顰められる事はない。
ポニーテールの彼女に一目惚れした俺はそしてまんまと彼女のいる弓道部に入部し、汚い手を使って彼女の弟子となる事に成功した。
この大学の弓道部では一対一の徒弟制を取っており、後輩の面倒を見る先輩が師匠、後輩が弟子……と言うように割り当てが行われるのだ。師匠は手取り足取り弟子の世話を焼き、弓道に関する礼儀作法や部の決まり事を後輩に伝授する。それからゴム弓の練習から巻き藁に実際の弓で矢を引く練習に移るタイミング、実際の的を射る弟子の初的をいつ行うかの判断を行う等々……とにかく、部活動に従事する間は密接に付き合っていく事になるのだ。
俺が弟子になると決まった時、先輩は物凄く嫌そうな顔をした。
「だって、匠の方が私よりうまいじゃん!大学から始めた私よりずううっと、弓道分かってるでしょ?今更何を指導しろって言うのよ。私、弟子は大学デビューの初心者が良かったのにぃ……」
そう、彼女は大学に入学してから弓道を始めた一年強の経験しかない初心者だ。まだ段位すら持っていない。一方俺は中学生の頃から弓道場に通いつめ、高校生の頃既に二段に合格している。
「先輩の『射』、綺麗ですよ」
「『射』だけは、ね。……射が幾ら綺麗でも、当りが無ければ意味ないよ」
プリプリ拗ねる様子が、何とも可愛らしい。
『射』と言うのは『射法八節』の事を差しており、弓に矢をつがえて的を射るまでの弓道で決められた作法のようなものだ。足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心……この八つの動作を淀みなく行い、それぞれを洗練し極める事で自ずと的を射る精度も上がり、目指す完成形へと近づく事が出来る。
つまり射法八節が綺麗にこなせるならば―――的にちゃんと矢が当たるようになっている……ハズなのだが。どうも先輩は特殊なのか要領が悪いのか、単に経験が不足しているのか、淀みない綺麗な射法八節をマスターしているのに、的から微妙に外れてしまう確率が高いのだ。
弓道は武道であるから、作法としての『射』が綺麗な事が尊ばれる傾向がある。けれども大学の部活としての弓道は、当然試合や大会に参加しなけばならない事もあって―――試合自体は射の美しさを評価対象にせず的への矢の的中率で優劣を競うから、部活では『当り』が一番重要視されがちなのだ。
「俺は、好きですけどね」
心を込めて、本心からニッコリと微笑みかけたのに。
彼女はスッと表情を失くして冷静に言葉を返した。
「それ、何の慰めにもならないんだけど」
そう言い放ってプイッと横を向いてしまった。
それから二年が経過して。俺は彼女が在籍する研究室にめでたく所属出来る事と相成った。毎年この教養学部から研究室への移行時期になると、おのおのの研究室の人気順位がコロコロ入れ替わるらしい。今年はエコブームで脚光を浴びた外断熱に興味を持つ者が多く、それをメインに研究している建築計画研究室は一番人気になってしまった。先輩が入った時は教授の厳しさを敬遠した学生達が多く、入るのに大して苦労しなかったらしい。全くツイていないが……成績では難なく首席を維持している俺は、スルリと希望の研究室に入る事を許されたのだ。
そしたら、驚いたのなんの。
うすうす部活動や飲み会、行事での振る舞いや言動を目にしていて感じてはいたのだが―――やはり先輩は自分が女性だっていう自覚が無さすぎる。設計図を夜通し描いた後力尽きて、隣の研究室にあるソファで熟睡していた(朝、隣の学生に「引き取ってくれ」と呼ばれて判明した)り、それを責めたら責めたで、今度は自分の研究室の椅子を四つ繋げて器用にそこに収まって眠っているし……しかも今回もしっかり熟睡している。
男子生徒が八割を占めるこの大学で、鍵も掛けずにぐーすか眠っているなんて……あまりにも先輩は無防備だ。ひと気の無い場所で寝るな、と言ったら「隣の研究室の同級生も徹夜しているから大丈夫だ」なんて答えたから……思わず言葉を失いそうになった。
他に誰もいない大学の研究室で、夜中に二人切りって。
尚更悪いだろう……!
先輩は何故か周囲の人間を過剰に信用し過ぎている。まあ、工業大学に通う理系男子の大半はシャイだし女慣れしていないから……こういう猪突猛進に設計に打ち込む、人を疑わない無防備な女子の信頼を、敢えて裏切ろうと考える人間は少ないかもしれないが。しかし思いつめた真面目な人間が、ある時暴挙に出てしまう可能性もないとは言い切れない。
先輩にはもっと自分を大事にして欲しいと思う。
俺には―――彼女は敢えて無茶をしているように見えるのだ。
「君は本当に常識的ですな。幸せな家庭に育ったことに感謝したまえ」
なんて偉そうに先輩ぶる彼女に、軽いいらつきを感じてしまうのは仕方の無い事だろう。多少威圧を込めて睨みつけると何のことはない、ただ帰るのが面倒くさいだけだと言うのだから尚更だ。
集めたばかりの気温データを超特急で分析しろと、教授から指示を受けているのに。エクセルで細かいマクロを組んでいる最中に―――ゴロゴロ悩ましい姿で同じ部屋で眠られたなら集中できる訳がない。研究室には当然、他の男子学生もいる。だから、そいつ等が彼女のその様子を一緒に目にすると思うと……更に気になって作業が進まなくなるのは必至だ。
俺は溜息を噛み殺し、問答無用で先輩を椅子から追い出し―――強制的に彼女の家まで送って行く事にした。
この三年間、彼女の傍にいて色々な事を知った。
彼女は結構苦労人らしい。実家ではかなりハードな生活をしていたらしい。
苦学生で、奨学金とバイトを掛け持ちで自分の生活を賄っているらしい―――つまり、彼女はもう、親からほぼ独立して自活しているのだ。
そんな彼女にとって、親に養われている俺は『男』の括りにも入らないのだろう。彼女の明け透けな態度からそれは嫌なほど伝わって来るし、そんな事は彼女から折り入って指摘されなくても、よおーく自分自身が自覚している。
だけど、先輩。
俺達の年は、一年も違わないんだよ?
学生時代の一学年を、大きい隔たりに感じてしまう人間は確かに多いと思う。だけど社会に出たら―――『一年』なんて年の差にも入らないって分っているのかな?先輩が社会人になった翌年直ぐに、俺も社会人になる。そしたら今ある様々な―――貴方が持ってる筈のアドバンテージなんて……アッと言う間に飛び越してあげるよ。
それに全く気が付いて無いようだけど―――
……俺は決して『世話好き』なんかじゃない。
気のある女を構っているだけ。
男がアレコレ行動に口出ししたり、世話を焼いたりしたら―――それはただの親切でもお節介でも無くて、ただ単にその子を囲い込もうって企んでいるだけだから。
世間知らずの可愛い先輩。
俺が常識を―――教えてあげるよ。ゆっくりとね。
お読みいただき、有難うございました。