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君がいる物語  作者: 白栞
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君がいる物語

第三章 閉じた本


ベッドが。


ちょうどよくなっていた。


ここへ来た頃は。


足を伸ばしても。


木の枠まで届かなかった。


今は。


踵が触れている。


机の脚には。


いくつもの傷。


窓の下。


壁に引かれた細い線。


一番下の線は。


もうルーナの腰よりも低かった。


最後の線だけ。


途中で止まっていた。


線の横には。


小さな数字が書かれている。


最初の数字は。


もう指でなぞらなければ読めなかった。


ルーナは。


一番上の線へ手を置く。


指先が。


少しだけ上へ出ていた。


廊下の向こうで。


朝の鐘が鳴る。


いくつもの扉が開き。


子どもたちの足音が重なった。


その音の中で。


ルーナの部屋の扉も開いた。


「おはよう。」


エマが。


畳んだ服を抱えていた。


灰色の服。


今までより少し大きい。


「前の服は、もう小さいでしょう。」


ルーナは窓の外を見ていた。


椅子の背には。


長くなった銀色の髪がかかっている。


エマは服をベッドへ置いた。


「朝食が終わったら、着てみて。」


ルーナは立ち上がる。


袖の短くなった服のまま。


部屋を出た。


机の端には。


赤い表紙の本があった。


エマにもらった。


新しい本。


角には。


薄く埃が積もっている。


何年も。


同じ場所に置かれていた。


その隣には。


焼けた本。


何度も直された紙が。


少しだけ表紙からはみ出していた。


ルーナは。


どちらにも触れず。


扉を閉めた。




食堂には。


知らない顔が増えていた。


知っていた顔は。


いくつか消えている。


以前は空いていた席に。


小さな男の子が座っていた。


パンを両手で持ち。


周りを見ている。


「昨日、来た子よ。」


エマが言った。


ルーナは。


いつもの椅子へ座る。


男の子が。


銀色の髪を見た。


「名前は?」


ルーナは。


スープへ匙を入れた。


「ルーナよ。」


エマが代わりに答える。


「ルーナ。」


男の子は。


一度だけ繰り返した。


隣の子が。


男の子の耳元で何かを言う。


男の子は。


パンへ目を落とした。


食事が終わる。


子どもたちが立ち上がる。


男の子も。


誰かの後ろを追っていった。


ルーナの前には。


空になった皿だけが残った。




孤児院の奥に。


使われていない階段があった。


上るたび。


古い木が小さく鳴る。


一番上の扉。


取っ手には。


白い布が巻かれていた。


ルーナは布を外す。


扉を押した。


本棚。


机。


椅子。


閉じた窓。


初めて入った頃は。


床に埃が積もっていた。


今は。


扉から机まで。


机から本棚まで。


細い道ができている。


窓辺には小さな灯り。


棚の端には畳まれた布。


机の下には木箱。


どれも。


ルーナがいない間に置かれていた。


ルーナは一冊の本を抜く。


机へ座る。


表紙を開いた。


小さな文字。


長い物語。


庭から。


子どもたちの声が聞こえる。


ルーナはページをめくった。


昼の鐘が鳴っても。


本は閉じなかった。


鐘のあと。


食堂へ向かう足音が。


階段の下を通り過ぎる。


しばらくして。


同じ足音が戻ってくる。


扉の外で。


誰かが立ち止まった。


取っ手は動かなかった。


足音だけが。


また遠ざかった。


ルーナは。


次の行を読んだ。




雨の日。


天井から水が落ちた。


一滴。


開いた本の横へ。


もう一滴。


ルーナは本を閉じた。


机を引く。


古い木が床を擦る。


水は。


さっきまで本があった場所へ落ち続けた。


扉が開く。


桶を抱えたエマが入ってくる。


「やっぱり漏れていたのね。」


桶を置く。


一滴。


底を叩く音。


「今日は、別の部屋で読んだら?」


ルーナは机を窓際へ寄せた。


「そこも濡れるわ。」


少し戻す。


水の落ちない場所で止める。


ルーナは本を開いた。


一滴。


桶の音。


一枚。


紙の音。


「風邪を引いても知らないからね。」


エマは濡れた床を拭いた。


帰る時。


椅子の背へ毛布を掛けた。


扉が閉まる。


ルーナは毛布を見た。


膝へ広げる。


また。


ページをめくった。




本棚の一番上に。


背表紙のない本があった。


椅子へ乗っても。


指が届かない。


ルーナは机を棚の前へ動かした。


机へ上がる。


爪先で立つ。


指が本の端へ触れた。


少し引く。


その隣も傾いた。


さらに隣も。


三冊の本が落ちる。


大きな音。


床に本が広がった。


廊下を走る足音。


扉が開く。


子どもたちが中をのぞく。


「何してるの。」


「怒られるよ。」


ルーナは落ちた本を拾う。


一冊。


また一冊。


扉の前の子どもたちは。


誰も中へ入らなかった。


「行こう。」


扉が閉じる。


最後に。


背表紙のない本を開いた。


文字はなかった。


白い花。


青い鳥。


遠い国の建物。


海を渡る船。


雪の森。


火の灯った家。


最後のページ。


大きな木の下で。


二人の子どもが。


同じ本を読んでいた。


片方が本を持ち。


もう片方が隣からのぞいている。


言葉は。


どこにもなかった。


同じ木陰。


同じ本。


けれど。


どちらが先にそこへ来たのかは。


描かれていない。


片方の足元には。


小さな鞄。


もう片方の隣には。


白い花。


ルーナは。


ページの端へ触れる。


紙は古く。


少しだけ柔らかくなっていた。


ルーナは本を閉じる。


その本だけを。


棚へ戻さなかった。




迎えの馬車が来た。


門の前に。


一人の少女が立っている。


赤い外套。


新しい靴。


小さな鞄。


庭には。


子どもたちが集まっていた。


「手紙、書いてね。」


「忘れないで。」


少女は何度も頷いた。


知らない女性が。


その肩を抱く。


馬車へ乗る前に。


少女は振り返った。


いくつもの手が上がる。


エマも。


小さく手を振っていた。


図書室の窓から。


ルーナは見ていた。


馬車が動く。


車輪の跡が。


門の外へ続く。


子どもたちは。


見えなくなるまで追いかけた。


門が閉じる。


ルーナは本へ視線を戻す。


次のページには。


帰る城を失った王子がいた。


王子の後ろには。


閉じた門。


ルーナは。


そのページを飛ばした。


次のページ。


王子は。


知らない町を歩いている。


その次。


一人で火を起こしている。


さらに次。


閉じた窓の前へ座っている。


帰る城は。


もう描かれていなかった。


ルーナは。


そこから読み始めた。




暑い日。


窓を開けると。


庭の声が入ってきた。


ルーナは窓を閉める。


声は小さくなり。


暑さだけが残った。


やがて。


机の下へ茶色い葉が入り込んだ。


ルーナは拾い。


栞の代わりに本へ挟んだ。


灯りの油が。


寒さで固くなる頃。


棚の上には。


読み終えた本が積まれていた。


エマが新しい灯りを持ってくる。


「目を悪くするわよ。」


積まれた本を見る。


「こんなに読んだの?」


ルーナは次の本を開いた。


エマが一番下の本を抜く。


小さな紙が落ちた。


ルーナ。


本の題名。


読み終えた日。


同じ紙が。


ほかの本にも挟まれていた。


一冊目。


二冊目。


十冊目。


日付の間は。


少しずつ短くなっている。


最初の紙の文字は小さく。


最後の紙の文字は。


同じ大きさにそろっていた。


エマは。


落ちた紙を元へ戻す。


新しい灯りを置いた。


「夕食までには戻るのよ。」


扉が閉じる。


ルーナは。


一枚。


ページをめくった。




ある朝。


本棚の中央が空いていた。


何冊もあった本が。


まとめてなくなっている。


埃の中に。


四角い跡だけが残っていた。


ルーナは。


食堂。


廊下。


物置。


庭。


洗濯場。


順番に歩いた。


本はなかった。


図書室へ戻ると。


エマが窓を開けていた。


「古くなった本を、町へ持っていったの。」


空いた本棚。


「直してもらえるかもしれないから。」


机の上にも。


何もない。


昨日まで読んでいた本。


最後まで。


あと少しだった。


「戻ってくるわ。」


エマが言う。


風が机の上を通る。


めくれるページはなかった。


ルーナは椅子へ座る。


いつもの場所へ。


両手を置く。


机の表面には。


本の角がつけた跡。


灯りの底の丸い跡。


濡れた本から落ちた。


小さな染み。


どれも残っている。


けれど。


机の上には。


何もなかった。


窓の外で。


一羽の鳥が飛び立った。


その日は。


夕食の鐘が鳴る前に。


部屋へ戻った。


机の端には。


赤い表紙の本。


ルーナは。


その前を通り過ぎた。




何日かして。


荷車が来た。


紐で束ねられた本。


新しい表紙。


縫い直されたページ。


ルーナは。


図書室で待っていた。


階段が鳴る。


エマが本を抱えて入ってくる。


「町の人が、直してくれたの。」


一冊ずつ。


机へ置かれる。


最後に。


薄い本。


途中まで読んでいた本だった。


表紙だけが。


別の色になっている。


ルーナはすぐに開いた。


挟んでいた葉は。


なくなっていた。


読んでいた場所を探す。


途中のページ。


物語は。


そこから続いていた。


なくなっていた間も。


止まってはいなかったように。


昨日までと同じ文字が。


同じ間隔で並んでいる。


ルーナは。


挟んでいた葉のあった場所へ。


一度だけ指を置いた。


それから。


続きを読んだ。


エマは本を棚へ戻していく。


背表紙のない本を手に取る。


新しい布が貼られていた。


「これも戻す?」


ルーナは。


その本へ手を置いた。


エマは机へ残す。


「ここに置いておくのね。」


ルーナが最後のページを閉じた時。


外は暗くなっていた。


エマはもういなかった。


ルーナは。


背表紙のない本を開く。


最後のページ。


大きな木。


二人の子ども。


同じ本。


絵は。


前と同じ場所にあった。


直された背には。


新しい糸が通っている。


けれど。


木の下の二人は。


何も変わっていなかった。


一人が本を持ち。


一人がのぞいている。


ルーナは。


そのページを開いたまま。


灯りを消した。




雪が降った。


窓の外が。


白く消えていく。


図書室には。


本をめくる音だけがあった。


遠くから。


馬の鳴き声。


車輪の音。


門の鎖。


ルーナは本を閉じなかった。


廊下を。


子どもたちが走っていく。


「新しい子だ。」


「男の子。」


「一人で来たのかな。」


声が階段を下りていく。


ルーナは。


次のページへ指をかけた。


門が開く。


鉄の音が。


図書室まで届いた。


窓の外。


一台の馬車。


黒い外套の男。


エマ。


その間に。


一人の少年が立っていた。


小さな鞄。


もう片方の腕には。


一冊の本。


雪が。


黒い髪へ積もっている。


エマが何かを話す。


少年は答えない。


庭。


建物。


並んだ窓。


その視線が。


最後に図書室を見上げた。


ルーナの指が。


ページの端で止まる。


少年は。


本を雪から隠すように。


抱え直した。


一瞬。


目が合う。


馬車が動く。


門が閉じる。


エマと少年が。


雪の中を歩いてくる。


エマは。


少年へ何度か振り返る。


少年との間には。


少しだけ距離があった。


門から建物まで。


その距離は。


一度も縮まらなかった。


子どもたちが集まる。


少年は。


誰の顔も見なかった。


本だけを抱えていた。


ルーナは。


開いた本へ視線を戻す。


同じ行を読む。


もう一度。


廊下の向こうで。


新しい足音がした。


古い木が。


小さく鳴る。


足音は。


図書室の前で止まった。


取っ手が。


ゆっくり下がる。


ルーナは。


ページをめくらなかった。


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