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君がいる物語  作者: 白栞
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君がいる物語

これは、英雄の物語ではない。


最強の魔法使いの物語でもない。


一人の少女が、自分の居場所を見つける物語。

第一章 おかあさん


窓の外に、白い花が咲いていた。


細い枝の先で揺れるたび、花びらが一枚ずつ庭へ落ちていく。


ルーナは窓際の机に座り、白い紙の上へ二人の姿を描いていた。


銀色の髪をした小さな少女。


その隣には、長い黒髪の女の人。


二人の間には、少しだけ隙間がある。


ルーナは鉛筆を持ち直し、その隙間へ一本の線を引いた。


小さな手と。


もう一つの手。


二人の手がつながる。


紙の上へ顔を近づけ、覚えたばかりの文字を書いた。


おかあさん。


その下に。


ルーナ。


玄関の扉が開いた。


ルーナは紙を両手で持ち、廊下を走る。


「おかあさん。」


母は玄関に立ち、濡れた外套の留め具を外していた。


黒い髪から落ちた雫が、床へ小さな跡を作っている。


ルーナは母の前で止まった。


「見て。」


紙を差し出す。


母の目が、描かれた二人の上を通った。


「これ。」


ルーナは銀色の髪の少女を指す。


「ルーナ。」


その隣へ指を動かす。


「おかあさん。」


母は何も言わなかった。


脱いだ外套を椅子へ置く。


外套の端が紙へ触れた。


ルーナの手から紙が滑り、床へ落ちる。


母の濡れた靴が、その上を通った。


黒い泥の跡。


二人の間に引かれていた線が、靴の下で消える。


母はそのまま廊下の奥へ歩いていった。


扉が閉まる。


ルーナは床へしゃがみ、紙を拾った。


銀色の髪の少女。


長い黒髪の女の人。


黒く消えた二人の手。


ルーナは机へ戻った。


新しい紙には替えなかった。


汚れた絵を裏返す。


もう一度、二人を描いた。


今度は。


最初から手をつないでいた。




朝。


食卓には二つの皿が並んでいた。


少し焦げたパン。


湯気の消えかけたスープ。


ルーナは椅子へ座らず、台所の前で待っていた。


二階から足音が下りてくる。


ルーナは鍋の蓋を持ち上げた。


「おかあさん。」


母が食堂へ入ってきた。


食卓を見る。


それから、ルーナを見る。


「作ったの?」


ルーナは小さくうなずく。


母は席へ座り、スープを一口飲んだ。


匙を皿へ置く。


「冷たい。」


立ち上がる。


「温める。」


ルーナは鍋へ手を伸ばした。


けれど、母はもう外套を羽織っていた。


玄関の扉が開く。


閉まる。


食卓に二つの皿が残る。


母の使った匙だけが、スープの中へ沈んでいた。


ルーナは母の椅子へ座る。


同じ匙を持つ。


スープを一口飲んだ。


冷たかった。


もう一口飲む。


向かいの椅子を見ながら、皿が空になるまで飲み続けた。


食べ終えると、二つの皿を重ねた。


母の皿を下にした。




窓の外から、子どもたちの声が聞こえていた。


道の向こうで、赤い髪の少女が母親の前に立っている。


風に揺れた髪を、母親が両手で集めていた。


少女は何度も振り返り、笑っている。


髪が結ばれると、その場で一度回った。


ルーナは窓を閉めた。


母の部屋へ向かう。


扉の前で立ち止まる。


中から、紙をめくる音がした。


「おかあさん。」


音が止まる。


返事はない。


「おかあさん。」


扉が開いた。


母は杖と、束ねた紙を持っていた。


「何。」


ルーナは自分の髪へ触れる。


「結んでほしい。」


母は何も言わない。


ルーナは背中を向け、長い銀色の髪を両手で集めた。


少しして。


母の指が髪へ触れた。


杖の先から淡い光が広がる。


銀色の髪が一つに束ねられ、細い紐が根元へ結ばれた。


「終わり。」


扉が閉まる。


ルーナは廊下に立ったまま、結ばれた髪へ触れた。


窓ガラスに映った自分を見る。


少しだけ首を傾ける。


髪も一緒に揺れた。


その日。


夕食の時も。


本を読む時も。


眠るためにベッドへ入ってからも。


ルーナは髪をほどかなかった。


朝。


枕の上で髪が崩れていた。


ルーナは銀色の紐を外し、指でしわを伸ばす。


机の引き出しを開ける。


黒く汚れた絵の隣へ。


二つが触れないように並べた。




雨が窓を叩いていた。


朝から。


昼になっても。


部屋が暗くなっても。


玄関は開かなかった。


ルーナは食卓に一人で座り、一冊の古い本を読んでいた。


母の部屋の棚で見つけた物語。


家へ帰れなくなった少女が、森の中を歩く話だった。


少女は雨に濡れながら、何日も森を歩く。


誰の声も聞こえない。


道も見つからない。


それでも進む。


やがて。


木々の向こうに、小さな灯りが見える。


少女は灯りへ向かって歩く。


古い家を見つける。


扉を叩く。


ルーナは次のページへ指をかけた。


玄関の向こうで音がした。


本を閉じる。


椅子を降り、玄関へ走った。


「おかあさん。」


扉を開ける。


冷たい雨が吹き込んだ。


外には誰もいない。


庭の木が風に押され、枝を窓へ当てていた。


ルーナは扉を閉め、その場へ座る。


膝の上へ本を置く。


時計の針が進む。


雨が屋根を叩く。


本は閉じたままだった。


目を覚ました時。


扉の隙間から、朝の光が入っていた。


母の靴はなかった。


ルーナは膝の上の本を見る。


折れていた角を伸ばす。


最後のページは、まだ開かなかった。




風が冷たくなった頃。


母の部屋から、笑い声が聞こえた。


知らない男の声だった。


ルーナは台所で林檎を切っていた。


一切れ。


また一切れ。


大きさをそろえ、白い皿へ並べる。


皿を両手で持ち、母の部屋へ向かった。


扉を軽く叩く。


返事を待ってから開ける。


部屋には母と、一人の男がいた。


男がルーナを見る。


「娘?」


母は杯から顔を上げなかった。


「違うわ。」


皿が少し傾いた。


林檎が一切れ、床へ落ちる。


赤い皮を上にして転がり、男の靴の前で止まった。


誰も拾わなかった。


ルーナは部屋へ入り、男の前へしゃがむ。


林檎を拾う。


皿へ戻さず、手の中へ持った。


「失礼します。」


扉を閉める。


台所へ戻った。


皿に残った林檎を、一切れずつ流しへ置いていく。


最後に。


手の中の林檎を見た。


小さくかじる。


しばらく口の中に入れたまま、動かなかった。


それも流しへ置いた。


部屋の向こうから。


また、二人の笑い声が聞こえた。




暖炉へ火が入った。


ルーナは毎朝、母の靴を磨いた。


乾いた泥を布で落とす。


つま先を拭く。


左右をそろえ、玄関へ並べる。


母は何も言わず、その靴を履いて出ていった。


ある朝。


ルーナは庭へ出た。


白い花はほとんど残っていない。


枝の下。


葉に隠れるように、一輪だけ咲いていた。


ルーナは茎を折らないように摘む。


玄関へ戻り、磨き終えた母の靴へ花を入れた。


母が階段を下りてくる。


靴の中の花を見つける。


「何、これ。」


「おかあさんに。」


母は花を取り出す。


指の間で、白い花びらが潰れた。


「邪魔。」


花が床へ落ちる。


母は靴を履き、外へ出ていった。


ルーナは扉の前へしゃがむ。


床へ散った花びらを一枚ずつ拾った。


机の引き出しを開ける。


黒く汚れた絵。


銀色の紐。


その隣へ、潰れた花びらを置く。


引き出しを閉める。


窓の外で。


庭の木から、最後の花が落ちた。




雪が降った。


窓の外も。


屋根も。


庭も。


音を失ったように白くなっていた。


ルーナは暖炉の前へ座り、あの本を読んでいた。


森を歩く少女。


小さな灯り。


古い家。


扉を開けた女の人。


ルーナは、まだ読んでいなかった最後のページを開く。


少女は、その家で朝を迎えていた。


温かいスープ。


乾いた服。


暖炉の前の椅子。


女の人は、少女の名前を呼ぶ。


少女が返事をする。


もう一度。


名前を呼ばれる。


ルーナは指で、その文字をなぞった。


「またそれ?」


母の声がした。


ルーナは顔を上げる。


母は食卓の前に立っていた。


「おかあさんも読む?」


母は本を見る。


「返して。」


「まだ。」


「それは私のよ。」


ルーナは本の表紙へ目を落とす。


「もう少しだけ。」


暖炉の火が揺れた。


火の粉が一つ、本の端へ飛ぶ。


紙が黒くなる。


ルーナはすぐに手で叩いた。


火は消えた。


けれど。


表紙の角に焦げた跡が残っている。


ルーナは焼けた場所を両手で覆った。


「おかあさん。」


母が杖を取る。


「その呼び方。」


杖の先が、ルーナへ向いた。


「やめて。」


ルーナは本を抱え直す。


「おかあさん。」


白い光が走った。


ルーナの身体の横を通り、背後の椅子へ当たる。


椅子が床へ倒れた。


ルーナは動かなかった。


「おかあさん。」


もう一度、光が走る。


机の角へ当たった。


引き出しが開く。


黒く汚れた絵が床へ落ちる。


銀色の紐が、その上へ重なる。


乾いた花びらが、暖炉からの風に舞った。


ルーナは絵を見る。


母の杖が上がる。


「ごめんなさい。」


光が壁へ当たり、額が砕ける。


ルーナは床へしゃがむ。


焼けた本を片腕で抱え、もう片方の手を絵へ伸ばした。


黒い靴跡。


二人の姿。


泥の下に隠れた手。


「ごめんなさい。」


銀色の紐が風に押され、暖炉の方へ転がった。


ルーナは手を伸ばす。


届かない。


紐が火の中へ落ちる。


一瞬だけ銀色に光り、小さく縮れていく。


ルーナの手が止まる。


母の杖が、もう一度向けられた。


玄関が大きな音を立てる。


扉が内側へ倒れた。


冷たい風と雪が、家の中へ吹き込む。


青い外套を着た魔法使いたちが入ってきた。


「魔法省だ!」


「杖を捨てろ!」


母が振り返る。


青い光が走った。


母の手から杖が離れ、床へ落ちる。


二人の魔法使いが母の腕を押さえた。


銀色の枷が、両手にはめられる。


ルーナは床にしゃがんだまま、その姿を見ていた。


「おかあさん。」


母はルーナを見ない。


魔法使いの一人が、ルーナの前へ来た。


男は杖を床へ置き、同じ高さまでしゃがむ。


「怪我は?」


ルーナは答えなかった。


床の絵を拾う。


しわになった紙を、手のひらで伸ばす。


男が手を伸ばす。


「もう大丈夫だ。」


ルーナは男を見る。


それから。


母の方を向く。


「おかあさん。」


母の両手には銀色の枷がある。


青い外套の魔法使いに挟まれ、壊れた玄関へ向かっていた。


ルーナは立ち上がる。


絵を持ったまま、母の後ろへ走った。


「おかあさん。」


母は足を止めない。


ルーナは絵を広げる。


黒く汚れた二人。


泥の上から、何度も引き直された線。


「描き直したの。」


母の背中が、扉の向こうへ出ていく。


雪が吹き込む。


絵が風に煽られた。


魔法使いの男がルーナを抱き上げる。


ルーナは片方の腕に焼けた本を抱え、もう片方の手で絵を持っていた。


家の外へ運ばれる。


雪の中。


青い外套の向こうで、母の姿が遠くなる。


銀色の枷だけが、白い景色の中で光っていた。


ルーナは黒く汚れた絵を胸へ押しつける。


焼けた本も。


一緒に抱える。


「おかあさん。」


母は振り返らなかった。


壊れた家の扉が。


ゆっくりと閉じた。


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