第五十二話 至高の晩餐と熱狂する豪商たち
銀の蓋が外された瞬間、大広間の空気が一変した。
漂い出たのは、熟成された赤ワインの芳醇な薫香、世界樹の雫実がもたらす天上の甘み、そして香ばしく焼き色をつけた霜降り肉の濃厚なアロマ。
「……っ!? な、なんと甘美で重厚な香りだ……!」
「王都の星付き三ツ星料亭ですら、これほど澄み渡ったソースの香りは嗅いだことがないぞ……!」
先ほどまで陰謀と剣呑な空気に息を呑んでいた客席の豪商や貴族たちが、まるで飢えた獣のように首を伸ばし、壇上の大皿へと熱い視線を注いでいた。
給仕長に代わり、レムナント家の信頼厚い古参の給仕たちが手際よく白磁の深皿へと料理を取り分けていく。
深紅のソースの海に浮かぶのは、スプーンの重みだけでホロリと崩れそうな極上の牛すね肉。その上には、黄金色にローストされた新玉ねぎと、樹海の野生姜の極細千切りが宝石のように散らされていた。
主賓席の中央、ヴォルク卿が満足そうに髭を撫で、銀のフォークを手にとった。
「皆様、今宵の不祥事は我がオルトの自治の力によって完全に晴らされた。……気を取り直し、この街の至宝たるリュート殿の食卓を心ゆくまで堪能されよ! 乾杯!」
「「乾杯!!」」
重なり合うグラスの音と共に、数百人の紳士淑女が一斉にフォークを肉へと突き刺した。
そして――会場のあちこちから、言葉を失ったような絶句が漏れ出した。
「な……なんという柔らかさだ……! 刃を入れる必要すらない……舌の上に乗せた瞬間、肉の繊維がほどけて消えていく……!」
東部織物ギルドの長が、両手で頬を押さえて叫んだ。
「ソースのコクが尋常ではないわ! 赤ワインの渋みが完全に消え去り、奥から広がる果実の甘みと酸味が、牛の濃厚な脂を極上の旨味へと昇華させている……!」
宝石商の夫人も、恍惚の表情を浮かべてスプーンを口へ運ぶ手を止められない。
――スキル発動:【至高の食卓】。
――対象料理:樹海霊水仕込みの極上赤ワイン煮込み。
――全体共鳴:広間全体の会食者(計二百四十名)。
――付与効果発動:
・慢性的内臓疲労の即時浄化
・精神的高揚および恒久活力の充填
・オルト商工連合の完全結束
一口、また一口と咀嚼するごとに、客席の人々の肌にみずみずしい血色が甦っていく。
日頃の激務で胃腸を痛めていた商人たちは胃の重みが消え去るのを感じ、老齢の貴族たちは全身の関節が軽くなる奇跡に目を丸くしていた。
「か、身体の芯から力が湧いてくる……! 昨晩までの過労が嘘のようだ!」
「美味い……美味すぎる……! これはただの料理ではない、魂の妙薬だ……!!」
大広間は、もはや格式高い晩餐会ではなく、奇跡の美味に打ち震える熱狂の坩堝と化していた。
空になった皿を前に、商人たちが我先にと立ち上がり、壇上の僕へ向けて拍手の嵐を送り始めた。
「リュート殿! 我が鉱山ギルドと独占専属契約を結んでくれまいか! 白金貨百枚でも足りぬならいくらでも積む!」
「何を言うか! 我が船舶連合の航海用保存食の開発顧問になっていただきたい! 船を一隻差し上げても構わん!」
嵐のような勧誘と賛辞。
大聖堂で「無価値の飯炊き」と嘲笑された僕の料理が、いまや大陸東部を動かす巨頭たち全員を胃袋から平伏させていた。
「ふふっ、大人気ですわね、リュート様」
壇上の脇、エレナが嬉しそうにサファイアの瞳を細め、僕の腕にそっと手を添えてきた。
「皆様、お父様と同じように、もうリュート様の食卓の虜になってしまわれましたわ。……これで、どこの誰が文句をつけようと、オルトの経済界全体があなたの味方です」
「おっと、そこまでよ、お嬢様!」
すかさず反対側から割って入ったアリアが、エレナの手をサッと引き剥がし、僕の肩を抱き寄せた。
「リュートの腕に気安く触らないで! それに、あんたたち大商人のおじさんたちも静かにしなさい! リュートは誰の専属にもならないし、どこかのギルドに縛られたりもしないんだから!」
「まあ、アリアさん! 私は商工連合の令嬢として、正当にリュート様の功績を讃えているだけですわ!」
「功績にかこつけて抱きつこうとしてたでしょ! 目が完全に獲物を狙う肉食獣よ!」
壇上で火花を散らす赤毛の狩人少女と、金髪の深窓の令嬢。
客席の大商人たちも、二人の美少女の微笑ましい諍いにドッと温かな笑い声を上げた。
「きゅう~~……」
僕の足元で、ハクが前脚で顔を覆い、呆れ果てたように小さくため息を漏らす。
そんな賑やかな宴の喧騒の中、ヴォルク卿が僕の隣へと歩み寄り、肩に太い手を置いた。
「見事であった、リュート殿。お主の料理が、毒に塗れかけた我が街の結束を、これ以上ない形で結び直してくれた」
ヴォルク卿は満足そうに目を細め、それからわずかに眉をひそめて窓の外――暗い夜の街並みを見つめた。
「……だが、退散したギルバート率いる特務騎士団の眼光、あれはただの諦めの色ではなかった。奴らは手柄を焦り、王都への面子を失った。……おそらく、正規の手続きを完全に捨て、より凶悪な実力行使に出てくるじゃろう」
「実力行使……ですか」
僕が呟くと、アリアも視線を鋭く尖らせ、母狼の短剣の柄に手を置いた。
「オルトの自治権を力づくで蹂躙する気なら、容赦はしないわ」
「うむ。街の守備隊も最高警戒に引き上げる。……だが、今夜はお主たちの完全なる勝利じゃ。胸を張りなさい」
割れんばかりの拍手と歓声が、夜更けの領主邸を揺らし続ける。
都市の頂点を胃袋で掴んだ僕たちの食卓。
だが、その輝かしい栄光の裏で、追い詰められた王都騎士団の牙が、暗闇の中で静かに研ぎ澄まされていた。
(第五十三話へ続く)




