第三十一話 風を統べる銀嶺狼と砕かれた呪殻
倒れたアリアの前に進み出たハクの小さな背中。
黒蝕竜の放つ凶悪な眼光と、天を覆い尽くさんばかりの漆黒の瘴気が、その小さな命を圧し潰そうと降り注ぐ。
「グルルルァァァッ!!」
竜の巨躯が前傾し、先ほどアリアを吹き飛ばした丸太のような前脚が、ハクごと僕たちを叩き潰すべく振り下ろされた。
「ハク、逃げて……ッ!」
背後でアリアが痛みに顔を歪めながら叫ぶ。
けれど、ハクはその場から一歩も引かなかった。
――カチリ。
ハクの額の奥で、母狼から受け継いだ『真霊石』が、澄んだ音を立てて共鳴した。
同時に、先ほどリュートの決戦飯によって極限まで活性化されていたハク自身の潜在魔力が、火薬に火をつけたように一気に臨界点を突破する。
――キィィィィィィンッ……!!
耳朶を貫くほどの澄み切った高周波。
ハクの全身を覆っていた銀白色の毛並みが、夜明けの太陽のような純白の閃光へと変じた。
小さな子狼の輪郭が、魔力の奔流によってブレる。
背中から伸びた透明な風の翼が大きく羽ばたき、漆黒の空間に、神聖な暴風の渦が巻き起こった。
「――ウォォォォォォォンッッ!!」
轟くのは、霊峰の頂を揺るがす神獣の咆哮。
ハクの姿は、母狼の威厳をそのまま受け継いだかのような、しなやかで強靭な『銀嶺狼の成体』の幻影を背負っていた。
ドガァァァァンッ!!
黒蝕竜の振り下ろした爪撃が、ハクの周囲を取り巻く白銀の暴風壁に激突し、甲高い火花を散らして弾き返された。
力負けしたのは、竜の方だった。
巨大な前脚が軋みを上げ、巨体がグラリと仰け反る。
「……嘘……でしょ……!?」
アリアが呆然と目を見張った。
「あの子、ただの風魔法じゃない……! 風の神聖気を極限まで圧縮して、空間そのものを切り刻む嵐を纏ってる……!」
ハクが冷徹な金色の双眸で、黒蝕竜の胸元を見据えた。
アリアの短剣を呑み込み、泥のようにうごめいて再生しようとしている『黒き大呪核』。
ハクが四肢を沈め、大地を蹴る。
疾走ではない。一陣の光の筋となって、ハクの身体が虚空を駆け抜けた。
残された軌跡が幾重もの銀の輪となり、黒蝕竜の巨体を螺旋状に包み込んでいく。
「グルァァァッ!?」
焦りを覚えた黒蝕竜が、全身の鱗から無数の黒い触手を放ち、ハクを絡め取ろうとする。
だが、ハクの纏う神聖な突風は、触れる触手を片っ端からチリ一つ残さず切り刻み、浄化の灰へと変えていった。
竜の胸元、漆黒の泥の障壁の直前。
宙へと舞い上がったハクの頭上に、巨大な三日月形の暴風刃が顕現する。
母狼の無念、奪われた森の生命、そして自分を愛してくれた二人への想い。
そのすべてを乗せた、真なる神威の嵐。
「――ガァァァッッ!!」
ハクが前脚を一閃させた。
放たれた白銀の刃は、大気そのものを切り裂きながら、黒蝕竜の胸元へ着弾した。
ズバァァァァァァンッッ!!
世界が白一色に染まり、轟音がすべてを掻き消した。
アリアの渾身の一撃すら呑み込んだドス黒い肉体捕食の泥が、神聖な嵐に捲き取られ、根こそぎ消し炭となって吹き飛んでいく。
そして――。
パキィィィィンッ……!!
硬質なガラスが砕け散るような澄んだ破裂音が、盆地じゅうに木霊した。
黒蝕竜の肉体を縛り、森を腐らせていた大元凶――『黒き大呪核』の外殻が、ハクの一撃によって完全に粉砕されたのだ。
「ギャオォォォォォォッッ……!?」
胸を覆っていた絶対の鎧を砕かれた黒蝕竜が、血を吐くような絶叫を上げてよろめき、祭壇の骨を踏み砕いて膝をついた。
胸の奥、割れた核の中心から、ドス黒い光が制御を失って漏れ出している。
「ハク……!!」
着地したハクは、成体の幻影を収め、再び小さな子狼の姿へと戻っていた。
肩で激しく息をしながらも、その瞳はしっかりと僕たちを振り返り、「今だよ!」と合図するように尻尾を振った。
核は割れた。
外殻の防御も、自己再生の触手も、ハクの嵐によって完全に吹き飛ばされている。
残るは、露出した急所を神聖な光で完全に穿つことだけだ。
「アリア、立てる!?」
「当たり前よ……ッ!」
アリアは折れかけた右腕を庇いながら、琥珀色の瞳に不屈の炎を燃え上がらせて立ち上がった。
砕かれた呪殻の隙間に、かつて母狼を奪った闇の心臓が、最後の断末魔を恐れるように剥き出しになっていた。
(第32話へ続く)




