第二十二話 樹海深部の恵みと甘美な果実
丸太小屋の頑丈な木の扉に閂をかけ、僕たちは南側の高台を目指して樹海を進んでいた。
先頭を歩くハクは、以前のように僕の胸元へ縮こまることもなく、軽やかな足取りで苔むした岩肌や倒木を飛び越えていく。足裏に微弱な風の魔力を纏わせているせいか、枯れ葉を踏むカサリという微かな音すら立てない。
「きゅうっ!」
高い切り株の上にピョンと跳び乗ったハクが、誇らしげに振り返って尻尾を振った。
「ふふ、本当に足が軽くなったわね。あの調子なら、森の小型魔獣よりずっと身軽よ」
背負った狩猟弓の弦を確かめながら、アリアが目を細めて微笑む。
「リュートの離乳食で骨格も魔力もしっかりしてきた証拠ね。……さて、東のあの気味の悪い谷を迂回して、南の斜面まで登ってきたけど……空気の匂いが変わってきたわ」
「うん。標高が上がった分、風が抜けて湿気が薄くなってるね」
僕が答えると、木々の隙間から差し込む光の筋が一段と明るさを増した。
鬱蒼とした原生林を抜けた先、すり鉢状になった日当たりの良い岩肌の斜面が視界いっぱいに広がっていた。
そこは、まさに『植物の楽園』だった。
険しい岩肌を這うように、見たこともない色鮮やかな蔦植物が生い茂り、木漏れ日を浴びて宝石のように輝く果実が鈴なりに実っている。岩棚の隙間からは、清らかな風と共に、甘酸っぱい芳醇な香りとピリッとした刺激的な芳香が混ざり合って漂ってきた。
「……すごい、果樹の群生林だ!」
僕は思わず駆け寄り、鞄から神官長からもらった革張りの手帳と木炭の鉛筆を取り出した。
手帳を開き、白紙のページに視線を落とす。
――スキル発動:【至高の食卓】。
視界が柔らかな光に包まれ、岩壁に群生する植物のステータスが次々と浮かび上がってきた。
――素材看破:紅玉蜜桃(こうぎょくみつとう / 野生完熟種)。
――品質:特級。
――特性:極めて高い糖度と豊富な果汁。生食のほか、煮詰めてジャムや肉料理の照り焼きソースに最適。
――付与効果:微弱な活力増強、疲労蓄積の遅延。
――素材看破:ヴェルデ岩山椒(がんさんしょう / 完熟黒粒)。
――品質:極上。
――特性:柑橘系の爽やかな香りと、舌を心地よく刺激する麻味。乾燥・粉砕により、最高級の肉用スパイスとなる。
――付与効果:消化器官の活性化、血流改善、寒気耐性付与。
「……あったよアリア! これ、とんでもないお宝だよ!」
「お宝って……この赤い実のこと? 毒々しいくらい赤いわよ、大丈夫なの?」
アリアが少し警戒したように眉をひそめる。
「大丈夫! 毒なんて欠片もない、信じられないくらい甘い野生の桃だよ。それと、この黒い粒は『岩山椒』だ。乾燥させて挽けば、ダグラスさんにもらった黒胡椒以上の極上のスパイスになる!」
「嘘っ! そんなに甘いの!?」
アリアが興味津々で、枝から手のひら大の紅玉蜜桃を一つもぎ取った。
薄い皮を指先で少し剥いた瞬間、プシャッと透明な果汁が飛び散り、辺り一面に熟れた花のような甘美なアロマが立ち込めた。
「わ……っ、果汁がすごい……! 食べていいの?」
「うん、そのままいけるよ!」
アリアは待ちきれない様子で、大口を開けて果肉にかぶりついた。
サクッ、ジュワァァァッ……!
「…………っっっ!?」
アリアの琥珀色の瞳が見開かれ、頬が林檎のように真っ赤に染まった。
両手で口元を押さえながら、モグモグと噛みしめるごとに、その表情がとろけるような至福に満たされていく。
「……んぐっ、……あ、甘ぁぁぁぁいっっ!!」
ゴクリと飲み干したアリアが叫んだ。
「な、なによこれぇっ!? 口に入れた瞬間、果肉がジュースになって溶けていくんだけど!? 村で食べてた固い林檎や酸っぱい木イチゴとは次元が違うわ……! 王都の貴族が食べてる果物だって、こんなに美味しくないはずよ!」
「ふふ、日当たりが良い岩場だから、太陽の光をたっぷり浴びて糖分が凝縮されてるんだね」
「きゅうっ! きゅうっ!」
足元でハクが背伸びをして前脚を僕の膝にかけ、金色の瞳をキラキラと輝かせている。
「ハクにも分けてあげるね」
僕は指先で果肉を細かくちぎり、果汁を手のひらに溜めて差し出した。
ハクは夢中になって舌をペロペロと動かし、甘い果汁を飲み干していく。尻尾をプロペラのように高速で振り回し、「きゅうぅ~!」と幸せそうに喉をゴロゴロと鳴らした。
「気に入ってくれたみたいだね。……よし、この蜜桃と山椒をたっぷり収穫して、手帳に場所を記録しておこう」
僕は手帳の白紙ページに、植物の正確なスケッチと、自生している地形、そして【至高の食卓】で判明した効能を丁寧に書き記していった。
白紙だった神官長の手帳が、僕たちだけの確かな『樹海食材マップ』として、一歩ずつ埋まっていく。
「蜜桃はそのまま食べるだけじゃなくて、少し煮詰めてジャムにしておけば、ダグラスさんにもらった保存用の堅パンに塗っても美味しいし、お肉の照り焼きソースにも使えるよ」
「照り焼きソース……! もう名前だけで絶対美味しいやつじゃない!」
アリアが涎を垂らしそうな顔で笑い、収穫用の籠いっぱいに赤い実を摘んでいく。
手に入った極上の甘みと、舌を心地よく刺激する岩山椒のスパイス。
ダグラスさんとの取引で手に入れた塩や鉄鍋に加え、森の深部で見つけた自然の宝が、僕たちの食卓をさらに豊かに彩ろうとしていた。
けれど、手帳にペンを走らせる僕の背中を、ふわりと冷たい風が撫でた。
南の高台から見下ろす樹海の彼方――東の谷のさらに奥、太陽の光すら届かない原生林の深淵から、微かに、けれど確実に、重苦しい瘴気の気配が立ち上っていた。
「……アリア」
「……ええ。見えてるわ」
アリアの琥珀色の瞳が、収穫の手を止め、静かに細められた。
「あの奥ね。……母狼を傷つけ、森を腐らせてる何かがいるのは」
美しく実り豊かな樹海と、その奥底に潜む暗黒の影。
僕たちは手帳をしっかりと胸に抱き、いつか訪れるであろう対峙の時に向けて、日々の生活と力を一つずつ積み重ねていくことを誓った。
(第23話へ続く)




