父として、当主として
婚約選定期間最終日の朝が来た。
もはや婚約など絶対に有り得ないので選定期間など何の意味もなさないのだが、期間中屋敷に滞在するという王命はこれで果たしたことになる。
「お父様、それでは最後に侯爵様に滞在費の支払いとご挨拶をしに参りましょう」
律儀にもアリッサは滞在中の費用を全て支払うつもりであった。
通常、貴族が客人を招く際には滞在費を要求することも、客人がそれを支払うこともしない。見栄が第一の貴族にとってそれはみっともない行為とされるからだ。
それはアリッサも十分理解しているが、あのバーティ侯爵に借りはひとつも作りたくない。貴族の慣習を無視するくらいアリッサはこの短期間でバーティ侯爵を嫌いになっていた。
「待ってくれ、アリッサ……。もう選定期間とやらも終わったし、私は元の服を着てもいいだろう?」
すっかり見慣れてしまい、何も感じなくなっていたがそういえば父はドレス姿のままだった。それに今気づいたアリッサは「ああ、そうでしたね」と呟く。
「別に今のままでよろしいのではありませんか? 似合っておいでですよ」
「……そうか。私とお前ではどうやら美意識が異なっているようだな。私は鏡に自分の姿が映る度に、鏡を破壊したくなるよ……」
「いやですわお父様、他家の家具を壊してはなりませんよ?」
「遠回しに嫌味を言っているのだと分からないかなぁ? それとも知ったうえでわざとかな?」
「わざとに決まっているではありませんか。いちいちそんなことを聞かないでくださいまし」
冷たく吐き捨てると子爵は悲しそうに娘を見た。
気のせいではなく娘が冷たい。それは自分が十割悪いのだから仕方ないとしても、やはり愛娘に冷たくされるのは堪える。
「さあ、ぐずぐずしていないでさっさと済ませますわよ。顔を合わせたくもありませんが、世話にはなりましたので最低限の礼は尽くしましょう」
その物言いから娘は余程あの侯爵が嫌いなのだと悟った。
たった数回しか会っていないはずなのに、何をどうしたらここまで嫌われるのか不思議で仕方ない。
子爵がそう考えていると、急に部屋の扉が勢いよく開かれた。
「フロンティア嬢、やっと会えた! 寂しい想いをさせて済まなかった……。でも、もう大丈夫だ! 二人の間に障害は何もなくなった。今こそ本当の夫婦になろうじゃないか!」
頭のイカレた妄言を吐きながら現れたのは、シーグラス家の使用人によって身だしなみを整えられたバーティ侯爵だった。自分に酔った表情に、自分に酔った台詞。その相乗効果でアリッサの顔から表情が消え、口を開く気すら失わせた。彼女は父親に目で「話したくありません。お父様が対応してくださいませ」と訴えかけ、相手をすることを放棄した。
「あー……バーティ侯爵閣下、一週間娘共々お世話になりました。わたしどもはこれでお暇させて頂きます。僅かながら滞在費を置いていきますね。では、息災で」
侯爵の発言を拾うことなく言いたいことだけ言ってさっさと立ち去ろうとする子爵。さりげなくアリッサを背中に隠すように通り過ぎようとしたのだが、自分に酔った男にそれは通じなかった。
「これは義父上、そんなに急がれることもないでしょう。これからゆっくり僕とご息女の結婚について話し合うとしましょうか」
誰が義父上だよ!?
そう突っ込みたかったが、流石に身分が上の相手にそれは出来なかった。
それにしてもあれだけ平民の愛人に入れ込んでいたくせにこの変わりようはなんだ。理由は知りたくもないがその変わり身の早さには嫌悪感を覚えてならない。
「いやあ……はは、そういった未来は存在しませんので、結構です」
数回話しただけでこれか。ただ若い娘にのぼせ上っているだけじゃないかと子爵はますます嫌悪感を増した。何よりこの男はこちらを『女装したオッサン』だと侮辱したくせに、今更『義父上』などとよくも言えたものだ。まあ、自分でも自分の姿を女装したオッサンだと思っているから別にいいのだけど、この姿を前に義理の父親扱いなどよく出来たものだと感心する。
「何をおっしゃいますやら、僕とご息女の婚約は王命で定められしこと。であれば僕と彼女が夫婦になることは決定事項なのです!」
意気揚々と言い切る侯爵が滑稽に思えてならない。
彼はまだ知らない。その王命が無かったことになるということを。
「……いや、申し訳ないのですが、フロンティア家の当主として私は娘をこちらに嫁がせることを拒否します」
「は…………? 何だと?」
権力者に従うだけだった過去の自分を恥じ、子爵はここで初めて自分よりも権力が上の人物に逆らうことにした。
当主として、父親として、恥じるような真似は二度としない。
そう決意し、娘を手中に収めようとする不届き者と対峙した。
「子爵、おかしいのは服装だけにしておくことだな。どうやら子離れが出来ていないようだが、彼女と僕との婚約は国王陛下が定めたことだ。貴殿がいくら嫌がろうとも拒否することは許されない」
「お言葉ですが侯爵閣下、国王陛下はこの王命を撤回なさるでしょう。おそらくは近いうちに撤回の旨を記した書状が邸に届くかと」
「はあ!? 何を馬鹿なことを言っているんだ! 王命が撤回されるなんてことがあるわけないだろう?」
「はて? どうして『無い』などと言い切れますか? 王命を撤回した事例は過去にもございますよ。件数自体は少ないですけどね」
「事例の話なんてどうでもいい! そうではなく、どうして王命が撤回されるなんてことが言えるのかということだ! 何の根拠があってそんな戯言を吐ける?」
「根拠、ねえ……。そもそも、閣下は何故王命が下されるのか分かりますか?」
「は? 何故とは、どういうことだ?」
「王命が何のために下されるかということです。本来、王命とは国家に益のあるものに対して下されるもの。では、閣下と我が娘の婚約は国に何の利益をもたらしますか?」
子爵の質問に侯爵は首を傾げた。
その顔は質問の答えが分からないというよりも、質問の意味自体が分からないといったように見える。
「意味が分からないな。侯爵家の当主が妻を娶り跡継ぎを成すことに利益が無いと言うのか?」
「……閣下には利益しかないでしょうが、国にとっては何もありませんね。大規模な共同事業の計画があるわけでもない、派閥同士の結びつきもない、何も無いのですよ。ということは、この王命自体がそもそも国益という前提条件を満たしていないということ。そうではありませんか?」
「……? よく分からないが、それでもこうして王命が出されたのだから、何かしら彼の利益があるのだろう?」
「では、それは何でしょうか? こう聞かれて答えられませんよね、私もそうでした。国王陛下が下されたのだから、分からなくとも何らかの理由があるのだろうと尋ねることもせず了承して……」
過去の自分が目の前の頭の悪そうな男と重なる。
あの時の自分もこんな風に何も疑問に思うことなく「王の命令だから」と安易に受け入れてしまった。男の阿呆面を見ているとそんな自分が恥だとすら思える。
「はっきり言います、この王命に意味などありません。よって、我が娘が貴方様と婚約する意味もありません。そして婚約選定期間なるものも本日をもって終了しましたので、このままお暇させていただきます」
有無を言わさぬ強い口調に侯爵は怯んだ。
長年貴族家当主を務めていただけあると思わせるほどの迫力に二の句が継げない。
そんな服装で言っても格好がつかない、と言わせぬほどの毅然とした態度であった。
「アリッサ、行こうか」
「はい、お父様。ご立派でございましたよ」
思いもよらぬ娘からの称賛に子爵はまんざらでもなさそうに「そ、そうか」と顔をニヤつかせた。
「ま、まて! たかが子爵令嬢が侯爵夫人になれるんだぞ!?」
「たかが、などと言われる筋合いはありません。それにこの屋敷の現状を見てもまだそんなことが言えるんですね? こんな機能していない邸で侯爵夫人になれたとしても嬉しくないでしょうよ」
「は? 屋敷の現状?」
「……いやいやいや、どうしてそこで不思議そうな顔をなさるのです? 上級使用人が一人もいないという邸の現状が目に入っていらっしゃらないと?」
邸の現状を目の当たりにして現実逃避でもしているのかと思いたくなるほど侯爵の反応は意外なものだった。上級使用人が一人もいないことに危機感を覚えていないこの男は人の上に立ってはいけない類の人間だ。
「別にそれはまた新たに使用人を雇えば済む話だろう? そこまで大袈裟に言うことではない」
「はあ……、では既に手配は済ませているのですよね?」
「手配? 手配とはなんだ?」
「は? 使用人を雇う手配ですよ。そこまでおっしゃるのでしたら既に新たな人員を雇う手筈は整っているのかと聞いております」
「はあ? そんなのは僕の仕事じゃない! 当主である僕がどうしてそんな雑用をしなければならないんだ?」
「お言葉ですが、それならばいったい誰がその手配をなさるので? 普通は女主人の仕事ですが、こちらにはそれに該当する方はいらっしゃらないようですが……」
「そういうのは今まで家令が代理で行ってきた。だから家令がそれをすべきだろう」
「……その家令すら不在の状態ですよね? いるのは下男か下女ですが、彼等に貴族の使用人を雇う手配をさせるのは無理ですよ。となるといったい誰がその雑務を引き受けるので?」
「……………………」
返す言葉が見つからず、侯爵はそのまま口を噤んでしまった。
やや不貞腐れたようなその態度に子爵は「こいつ頭大丈夫か」と思わず口に出してしまいそうになる。
どうにもこの侯爵とは基本的な会話が成立しない。
こんなのを娘の夫にしようとしたのか、と子爵は今更ながら己の愚行を恥じた。
なんというか、この侯爵の精神年齢は子供かと思うほど幼い。
今までどれだけ甘やかされてきたかは知らないが、面倒ごとは全て自分以外の誰かがやってくれると未だに信じている気がする。こんな、中年にさしかかる年齢でそれはかなり無責任で頼りなく思える。
「……なら、そちらが手配すればいいのではないか? 彼女は僕の妻になるのだし、妻の実家が夫の家を助けるというのはなんらおかしいことではない」
「…………はあ?」
思わず低めの「はあ?」が出た。
なんだってこいつは恥ずかしげもなく全力で他人に寄りかかろうとするんだ。
貴族は他人に弱みを見せるべきではない、という考えが前提にある子爵にとっては侯爵のこの弱みも恥も曝け出す姿勢に怒りすら覚えた。当主としての矜持はないのか、みっともない。気を緩めたらうっかりそんな台詞を口に出してしまいそうだ。
「そうではなくて……何故使用人達が辞めていったのかを少しは考えたらどうです? 上級使用人が大量に辞職していった屋敷に誰が勤めたいと思うのですか。こちらが人員を募集したところで誰も来ないと思いますよ?」
「なっ……無礼な!」
「無礼で結構です。まずはその原因が何なのかを把握してからにしてください」
「あれはジェシカに仕えるのが嫌になったからだ! 前々から平民に仕えるのは嫌だと使用人が愚痴を零していたのは知っていた……。だが、もうジェシカはいない。だから何も問題ないはずだ!」
「いや、知っていたならもっと早く対処してくださいよ。自業自得じゃありませんか、そんなの」
「うるさい! 終わったことをいつまでもグチグチ言うな!」
「ああ、はい、そうですね。無関係な他人が余計なお世話でした。では、これで失礼します」
アリッサの手をひきそのまま邸を出ようとした子爵に侯爵が「あ、おい! 待て!」と追いすがる。また一騒動起きるかと思ったその時だった。
「アリッサ! 迎えに来たぞ!」
入り口の扉がバーンと効果音がつきそうなほど豪快に開かれ、剛毅を体現したかのような老人を筆頭に煌びやかな集団がぞろぞろと中に入ってきた。




