領地へ
「え? 侯爵様はまだお戻りになっていないの?」
翌朝、領地を見て回ることへの許可を貰おうとしたアリッサだが、未だ侯爵が帰ってこないと聞き驚いた。花嫁選定中に愛人と朝帰りとはいい度胸だな、と。帰ってすらないが。
「はい……そうなのです。大変申し訳ございません……」
ひどく申し訳なさそうに謝る家令を見るとそれ以上咎めるようなことは言えなかった。家令も分かっているのだ。一家の当主が客人を置いてこんなにも長時間外出してしまうことが、どれだけ無礼かを。
しかも客人は妻に迎えようとしている女性。そんな立場の女性が邸内にいるというのに、愛人と朝帰りとは無礼を通り越して頭がどうかしているとしか思えない所業だ。
「侯爵様はどちらにお出かけかしら? もし領地に行かれているのなら、私もご一緒したいのだけど」
もしかして侯爵は領地にでもいるのかと思い、それならば丁度いいとアリッサは家令に尋ねた。
だが、彼は呆れた顔で首を横に振る。
「いえ……領地ではございません、別の場所です。それに旦那様はもう何年も領地へ足を運んでおりません」
「え⁉ 領主が領地に足を運んでいない? それはどうして……?」
その土地を管理する役割を担う領主が現地の視察を行っていないなど考えられない。アリッサの家でも当主である父親はもちろんのこと、夫人である母親も頻繁に足を運んでいる。実際の領民の暮らしや作物の状況は実際に見てみないことには分からない。
「それは……ジェシカ様が嫌がるからです」
「え……ジェシカさんが嫌がる?」
何故、愛人が領地視察を嫌がるのだろうか?
首を傾げるアリッサに家令は罰が悪そうに答えた。
「はい……。詳しい事はわたくしの口からは申し上げられないのですが……」
そこまで言って家令は口を噤んでしまった。
よくは分からないが、ジェシカと領民との間に何かあるのかもしれない。
その理由にはそこまで興味はないが、長年視察していない領地の民が領主に不満を抱いていないのかはとても気になる。
「そう……なら、詳しくは聞かないわ。それより領地を見学することは可能かしら?」
「え? 領地の見学ですか? はい……私が同行すれば可能です。視察を代行しておりますので……」
そこでアリッサは「領主の許可無しで見学してもいいの?」と思ったが口には出さなかった。もしかすると領地に赴かない主人に代わって家令が視察をしているのかもしれないし、その流れなら許可をいらないと思うのも不思議ではない。
「じゃあ、同行をお願いできるかしら? いずれは領主夫人になるかもしれないのですもの。今のうちに現地を確認しておきたいのよ」
家令は一瞬驚きはしたものの、すぐに「分かりました」と頷いた。
その顔にはあれだけ色々やらかしても一応は領主夫人になるつもりはあったのか、という内心がありありと浮かんでいる。
「あ……! そういえば……馬車がございません」
しまった、とばかりに家令が焦ったように告げる。
「……この屋敷には馬車が一台しかないの?」
「はい……すみません。旦那様以外使う方もおりませんので……」
下位貴族ならばまだしも、高位貴族の家に馬車が一台しかないという事実に驚く。
フロンティア子爵家でも馬車は数台所持していたというのに……。
「貴方はいつもどうやってそこまで行っているの?」
馬車が一台ということは、それは基本的に当主が使うのだろう。
そうなると使用人が当主用の馬車を使うとも思えないし、そうなるとこの家令は普段どうやって領地まで足を運んでいるのだろうか。
「わたくしですか? わたくしは馬を使います」
「ああ、成程。なら私もそうさせて頂けるかしら?」
「は……? え? 貴女様も馬に乗るとおっしゃるのですか?」
この国の貴婦人で乗馬を嗜む者はほとんどいない。
先進諸国の王族や高位貴族の女性は教育の一環で習うそうだが、後進的なこの国では聞いたことが無い。
「ええ、母の生家で習いましたの。それで、お借りできる馬はございますか?」
「え、あ……はい! ございます! いつ頃出発されますか?」
「私はいつでも大丈夫よ。やることも無いし、書類仕事はお父さ……ヴィクトリアが処理してくださるし」
今、『お父様』と言いかけた……と目で訴える家令にアリッサはにっこりと微笑んだ。
「貴方の予定が大丈夫なら、すぐにでも出立しましょう?」
「は……はい! すぐにご準備いたします!」
有無を言わさない迫力のある笑みに思わず声が裏返った。
家令はアリッサに一礼すると、足をもつれさせながら馬小屋まで向かう。
*
「よい馬ね。毛並みもそうだけど、脚力も優れているわ」
「は、はい……お気に召して頂けて何よりです……」
用意された馬で領地に到着したアリッサ。最初の内は並走していた家令だが、自分よりも馬の扱いに長けていたアリッサに見る見るうちに離されてしまい、おいてかれまいと必死になった。その結果、現在ゼエゼエと荒い息を吐きながらぐったりするという事態にみまわれている。
「まあ、ごめんなさいね。私ったらつい、はしゃいでしまったようだわ……」
「い、いえ……とんでもございません……。わたくしめが遅いのが悪いので……うっ……」
吐き気でも催したのか急に口元を押さえる家令。
その姿を見てアリッサは心配そうに眉根を下げる。
「まああ、大変! 顔色が悪いわ! 無理をさせて本当にごめんなさいね……どうか貴方はどこかで休んでいてちょうだい」
「いや、そんな……お客様をお一人にするわけには……」
「緊急事態だもの、そう言ってもいられないわ! 私なら大丈夫だから、どこか横になれるような場所で帰る時間まで休んでいて」
家令はアリッサの優しい言葉につい頷いてしまった。
本当であれば使用人が貴族の客人を放置するなど不作法な行為どころか不敬そのものだ。だが、家令はそんなことも考えられないほど具合が悪かった。
「お気遣いありがとうございます……。では、そこの宿屋で少し休ませていただきますので、お帰りの際はお声がけください」
そこの、と指差す先には小さな宿屋があった。
古びて年季の入ったそこは侯爵家の家令が休むような場所とは思えないが、その慣れた口調からいつもここを利用していることがうかがえる。
「分かったわ。ゆっくり休んでね」
そう家令に声をかけ、アリッサは馬にまたがり領民が住む村の方へと駆けていった。
「案外優しい方でよかった……。お言葉に甘えて休ませていただこう……」
アリッサを見送った家令は馬から降り、よろよろとした足取りで宿屋の敷地内にある馬留めまで手綱を引いていった。
「それにしても乗馬まで出来るとは……多才な御方だ」
あの手綱さばきといい、馬の扱い方といい、自分よりもずっと手慣れている。
確か母親の生家で習ったと言っていたが……それはどこの家だろう。
「うっ……だめだ、酔いがひどい……。早く休ませてもらおう……」
考えているうちに再び気分が悪くなった家令は休むべく宿屋へと入って行った。
*
家令と別れたアリッサは近くの村まで馬を走らせていた。
先程よりも速度を落とし、景色を楽しめるくらいゆっくりと。
改めて周囲を眺めると豊かな自然が目に映る。
そしてそれと同時に整備されていない道路や、放置されている壊れて古びた橋、そして屋根が崩れて見るからに人が住めそうにない家等も。
領内の道の整備、橋や建物の修繕は領主の義務。
それがここまで成されていないということは、バーティ侯爵が領主の義務を放棄していると捉えられる。
『領地を整えることは領主が何より優先すべきことだ』
フロンティア子爵領を治める父は何よりも領地の整備に力を入れていた。
それが領民を預かる主としての義務だと口癖のように言っていたことを覚えている。考えが甘い父ではあるが、領民想いであることは間違いない。
そしてバーティ侯爵は領民の事を何も考えていないということが分かる。
「それにしても、家令さんには悪いことをしたわね。乗馬は久しぶりだったから、ついはしゃいでしまったわ……」
アリッサは罰の悪そうな顔で独り言ちる。
久しぶりの乗馬についはしゃいでしまい、並走する家令のことも考えずかなりの速度を出してしまったのだ。
「やっぱり馬はいいわ……。馬車よりも好き。なのに、どうしてこちらでは女性の乗馬が普及していないのかしらね……」
しみじみと呟くと、ふと眼前に家々が密集する集落が映る。
きっとここが領地の村なのだろうとアリッサは目を凝らして集落の中にいる人々を眺めた。
「は? ……え? これって、まさか……」
目に映った光景にアリッサは愕然とする。
そこには予想すらしていなかった事態が起きていた。




