心変わりの始まり
ヘブンズ伯爵は広い小麦畑を領内に所有する資産家だ。
御年すでに七十近くにありながらもまだ当主の座を嫡男に譲ろうとしない。
それも全ては憎き娘の仇であるヴィンセント・フロンティア子爵に復讐をするため。愛娘が嫁ぎ先で味わった苦渋を奴の娘にも味合わせ、奴にも自分と同じ苦痛を与えるためだ。
親友関係にあった当時の国王に「奴に娘が出来たら何としてもサラを同じ目に遭わせてほしい」と頼み、了承してはもらったが、その娘が出来る前に王は病で早くに亡くなってしまった。
王が代替わりをしてもこの望みは必ず果たすという執念で彼は当主の座にしがみついている。
自分と折り合いの悪い嫡男はこの復讐心を理解しようとしないばかりか、そんな愚かな真似は止めろと否定してきた。代替わりすればこの嫡男によって復讐を阻止されてしまうことは明白だ。
だからこそ当主の権限を渡さないままこの年まできた。
その甲斐があってようやく念願叶い、憎き仇の娘を平民の愛人に傾倒しているろくでもない男に嫁がせることが出来る。
現国王が中々この件について了承してくれなかったせいでこんなに長く待たされてしまったことに不満は残るが、そこは割り切るしかない。本当ならば娘がもっと幼いうちに絶望的な婚約を結ばせてやりたかった。
憎き仇の愛娘がろくでもない夫に冷遇される様を想像するだけで伯爵の心は暗い愉悦で満たされる。そしてそれだけが亡くなった自分の娘サラへの供養になると本気で信じていた。
だからこの……愛娘サラの夫と同じように愛人に傾倒しているろくでもない男、バーティ侯爵がこうして屋敷を訪れた時は心が弾んだ。彼の口からフロンティア子爵の娘をどのように虐げているか聞くことが出来ると思ったから。
先触れ無しの訪問は些か無礼と感じたが、まあろくでもない男に常識を求めてもいけないと思い直した。常識的であるのなら大っぴらに平民の愛人を連れ歩くような真似はしないだろう。それをしている時点で自分は非常識な人間ですと公言しているようなものだ。
その平民の愛人をこの場に同席させることには流石に苦言を呈したかったが、相手はろくでもないとはいえ格上の侯爵。機嫌を損ねるのは得策ではないと我慢して話を聞いた。すると話を聞き進めていくうちに平民が同じ目線で自分達と同席していることなどどうでもよくなるくらいの衝撃に襲われる。
「なんてことだ……。バーティ侯爵閣下のもとに女装したフロンティア子爵が花嫁候補としてやってきて、しかもそれが王命により定められしものだったと? なんなんですか、その頭のおかしい王命は……⁉」
興奮する侯爵を宥め、彼の話を聞き進めていくうちに伯爵は己の理解が届かない現実に意識が遠のきそうになる。
憎き仇の血を分けた娘をろくでもない男に嫁がせようとしたのに、その憎き仇本人がろくでもない男の花嫁候補としてやってきた。何がどうしてそうなったのかさっぱり理解が出来ない。
「……あの、それは本当の話ですか? もしや儂を騙そうとしているのでは……」
いやいや、よくよく考えてもそんな展開は現実に有り得ないだろう。
まだ侯爵の妄想だと言った方が納得できる。
「騙されたのはこちらの方だ! 全部貴殿が企てたことだろう⁉ 陛下まで巻き込んでどういうつもりだ!」
「いやいやいや……冗談は止してください! 何でこんな阿呆みたいな企てをしなくちゃならんのですか⁉ 完全に冤罪ですよ! 儂は陛下に『フロンティア子爵家の娘を貴方の花嫁に』と奏上したまでです!」
そうだ、自分は陛下にフロンティア子爵令嬢とバーティ侯爵の婚姻を願っただけだ。間違っても憎き仇自身に女装させて嫁がせろ、なんて馬鹿みたいな願いを言ったつもりはない。
「それこそ信じられん……! 誰かが余計な入れ知恵でもしない限りオッサンが女装して嫁ぐなんて阿呆な事をわざわざ王命で定めたりするか? 貴殿はどうもフロンティア子爵に並々ならぬ恨みを抱いているようだ。子爵に恥をかかせる為にわざわざ僕まで巻き込んでこんな真似をしたのだろう?」
「そんなわけないじゃないですか! 確かに儂はフロンティア子爵に積年の恨みを抱いております。それは否定しません! だからといってこんなやり方でその恨みを晴らそうなどとは思いつきもしません……!」
「なら、どうしてこんなことになっている? 貴殿でないのなら一体誰がこんなことを思いつく?」
そんなの分かるわけがない、とヘブンズ伯爵は頭を抱えた。
こんなふざけた企てを一国の王まで巻き込んで実行するような頭のおかしい者がどこにいるというのだ。
「これがれっきとした王命であるという証拠もある。ほら、これは陛下直筆の書状だ。ここに内容もきちんと記されている」
ヘブンズ伯爵は侯爵が見せた書状をひったくるように奪い、食い入るように読んだ。
「ほ、ほんとうだ……これには確かに国王陛下の玉璽が押されている……。しかも、この内容は……」
それはアリッサ達が持参した王命が記された書状。
そこにはきちんとアリッサを妻にする際の条件と、ヴィクトリアを妻にする際の条件が記されていた。
「はて……フロンティア子爵家には娘が二人いるのですか?」
「それは知らないが、僕の邸に来たのはアリッサという若い令嬢と女装したフロンティア子爵だ。その書状に記されている『ヴィクトリア』というのが子爵を指すらしい」
いや、なんでだよ⁉ そうヘブンズ伯爵は大声で叫びたい衝動に駆られた。
「なんでご丁寧に子爵に女の名までつけているんです⁉ なんですか『ヴィクトリア』って!!」
「だからそれはこちらが聞きたいと言っているだろう!」
もうその場は混沌と化していた。ヘブンズ伯爵家の使用人達は格上の侯爵相手に声を荒げる主人を止めるべきか迷っている。
「儂だって知りませんよ! こんなふざけたことを陛下に奏上できるわけがないでしょう⁉ 出来るとしたら相当頭がおかしくて性根の悪い奴でしょうね!」
その頭がおかしくて性根も悪い奴というのが憎き仇の娘であることをヘブンズ伯爵は知らない。
彼にとってアリッサはただ不幸になればいいとしか思っていない相手なので、彼女が自分にとって脅威になるとこれっぽっちも考えていない。
「くっ……これでは意味が無い!儂は憎いあやつの娘が不幸な目に遭う日を心待ちにしていたというのに……! せっかく、平民なんぞを愛玩するろくでもない男を見繕ったというのに……これでは……」
常識では考えられない状況にヘブンズ伯爵はひどく苛つき、口にしてはいけない本音をつい漏らしてしまった。
「……ヘブンズ伯爵、貴様……今、なんと言った……?」
侯爵の低い声にヘブンズ伯爵は自分の失言に気づく。
「あ……! い、いや……これは、その……」
「ふざけるなよ……伯爵風情が侯爵である僕にそんな口を利いていいと思っているのか?」
「い、いえ……今のは言葉の綾で……」
口をついて出た言葉はもう無かったことには出来ない。
本音を聞かれてしまい、ヘブンズ伯爵は真っ青な顔に冷や汗を垂らした。
「もういい! 最初から貴様のくだらない妄言に付き合うのではなかった。今からでも陛下にこの婚約を無かったことにしてもらうよう訴えてやる!」
「は、はあ⁉ 王命を無かったことにするなど正気ですか?」
「当然だ! こんな僕に何の利もない婚約など受け入れられるか!」
当初、この婚約は侯爵にのみ利益があるものだった。
ヘブンズ伯爵は侯爵とジェシカの真実の愛を成就させるため、隠れ蓑となる名ばかりの妻を用意すると持ち掛けてきたのだ。
貴族家当主がいつまでも独身のままというのは世間に批判される。
それは世継ぎを作らず血を絶やすという行為とみなされるからだ。
血を繋ぎ、家を守ることを使命とする貴族がそれではよろしくない。最悪は当主の座を降ろされる恐れすらある。
しかし侯爵は最愛のジェシカ以外を妻にする気はなく、子供を作るなどもってのほかだった。そこにヘブンズ伯爵が「言いなりにできる身分の貴族令嬢を名ばかりの妻として迎えて屋敷のどこかに閉じ込めておけばいい。跡継ぎも恋人との子を正妻との子だと偽り届け出てしまえばいい」と甘言を囁いてきたので、侯爵は二つ返事でそれに了承した。
しかし、蓋を開けてみれば花嫁候補としてやってきたのは破天荒な令嬢と女装した中年男だ。前者を選ぶならジェシカと別れろと王に釘を刺されてしまったし、後者を選ぶという選択肢は持ちたくもない。
仮に国王の命令に背いて当初の予定通り事を進めようとしても、あの破天荒な令嬢が大人しくどこかに閉じ込められている想像が全く出来ない。まだ会って一日しか経っていないが、どう見ても危ない女だと本能が警鐘を鳴らしている。
「それは困ります……! どうか、儂が陛下と話してみますので早まるのはお止めください!」
「は? 陛下に何を話す気だ? こちらはもうこの話自体無かったものにしてほしいんだぞ!」
無かったものにされるのは困るとヘブンズ伯爵は非常に焦った。
憎き仇の娘が不幸になることだけを希望に今まで生きてきたのだ。それが無くなっては死んでも死にきれない。
「……フロンティア子爵の娘一人だけを貴方様に嫁がせるよう、今一度お願いして参ります。ですから……どうか、しばらくおまちください!」
ヘブンズ伯爵の必死の訴えに侯爵はしばし考えた。
オッサンがいなくなって娘一人が嫁いできたとしても、あの条件が取り下げられるとは限らない。それに条件が無くなったとしてもあの娘が破天荒であることは何も変わりがないのだ。そうなるとあまり意味が無いような気もする。
(いや……だが、あの娘を手放すのは惜しいような……)
ここに来る前に見たアリッサの姿が侯爵の頭によぎる。
朝の陽光を受けて眩いばかりに輝くストロベリーブロンドの髪と滑らかな白い肌がやけに目に焼き付いている。
あれほど美しい令嬢は王都でも滅多にお目にかかれるものじゃない。
この婚約が無くなれば彼女は他の男のもとに嫁ぐのだろう。あれほどの美貌だ、彼女を妻にと望む男は山程出てくるのではないか。
そう考えると胸にどす黒い感情がこみ上げる。
自分のモノになるはずだった若く美しい娘を手放したくない、という欲求。
確かに破天荒で言い知れない恐ろしさのある娘だが、それはそれとしてあの美貌は捨てがたい。他の男にくれてやるには惜しい。
「マクス…………?」
ずっと黙ったままの恋人を心配したジェシカが侯爵の名を呼ぶ。
そこで彼はハッと我に返り、自分が最愛の人の隣で他の女のことを考えていたことを恥じた。
「あ、すまないジェシカ…………」
気まずさで侯爵はジェシカから顔を逸らしてしまった。
彼女だけだとあれほど心に誓ったのに、どうして別の女のことを考えてしまったのか……。
「伯爵、フロンティア子爵の娘一人がただ嫁ぐだけでは意味が無い。貴殿が最初に提示した条件である『お飾りの妻』を陛下に進言し、王命を書き換えてもらえるのであれば失言を許してやろう。早急に話を整えてくるように……」
内心を悟られたくなくて侯爵は視線をヘブンズ伯爵へと向ける。
今ジェシカと目を合わせてしまえば心の内を見透かされてしまいそうで怖い。
誤魔化すように侯爵は冷や汗を垂らして頷くヘブンズ伯爵とだけ目を合わせた。




