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カリファの2年間  作者: こじまき
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これからの日常

「お父様と、あのことについて話をしてきたのよ」

「え…お姉様、それは…」

「そう。私たちを苦しめてきた、あのこと」


エリッサはベッドの上で少し身を震わせ、「それで、いかがでしたか?」と聞く。


会話の一部始終を再現した後、私は言う。


「お父様は、あの人は、腐っているとしか思えない。お母様はお父様なしでは生きていけない人だからどうするかは知らないけれど、私はもう縁を切ったの」


あの後王都のセルブリッジ邸に父から小切手が届いたのだが、そのまま送り返した。それ以降は何の音沙汰もない。


「それで、お姉様は今どんなお気持ちなの?」

「そうね…雲ひとつないとまでは言えないけれど、晴れやかよ。ようやく、怖がらずに前に進める気がするの」


エリッサは私をじっと見つめて「お姉様はご自身の人生に向き合って、受け入れたのね。だから前に進めるのだわ」と静かに言ってから、俯いた。


自分の人生を受け入れる…エリッサに言われてようやく気づく。ああ、そういうことだったのか。過去に向き合って、親を断ち切って、私はようやく自分の人生を受け入れられた。


今までは「あんなことさえなかったら、もっと幸せだったはず」と思い続けて生きてきた。


普通の親子関係の中で育つ人生。もっと美しく気立てよく生まれていた人生。そんな、もう絶対に手に入らない人生を夢見続けてきたのだ。


けれどこれからは、現実を受け入れて、これが私の人生だと受け入れて生きていく。旦那様とアイリスと一緒に。


あんなことがあって良かったとは、決して思わない。だからこそ人の痛みがわかるとか、強くなれたとか、教訓を得たとか、そんなことは思いたくもない。他に強く優しくなれる方法はいくらでもあるはずだ。辛い思いをしない人生の方がいいに決まっている。


けれど、この人生を生きてきたから今があるのも、また事実なのだ。


「お姉様はご立派ね。けれど私にはできないわ。ずっと逃げていたい」と俯いたままエリッサが呟く。握り締めた手が少し震えている。震えを止めてあげたくて、エリッサの手に手を重ねる。


「私は弱い」と消え入りそうな声。「相手が悪いと思っているのに、向き合うこともできない。怖くて死ぬことすらできなかった」という声が震える。


「あなたは弱くない。もがきながら生きているあなたは、強いのよ」


エリッサの人生は、エリッサのものだ。父に向き合うことを強制するつもりはない。ただひとつ、伝えたいことは。


「あなたが死んだら私は悲しい。生きていてくれて、ありがとう」


握る手に少し力を込める。


「逃げたいならとことん逃げればいいのよ。手伝うから。いつか話をしたくなったらすればいいし、しなくてもいい。あなたが少しでも心穏やかに過ごせるように、そのことだけを考えなさい」

「…ええ、お姉様」


しばらくして、エリッサは症状が落ち着いたとして退院を許可された。伯爵家には戻らず、親族の見舞いに来ているところを知り合ったという商人の家で暮らしたいと言う。


騙されているのではないかと心配になって、旦那様と一緒にその商人と会ってみたら、私より少し年上の、教養のある立派な人で、私は安心して「妹をお願いいたします」と託したのだった。


頭の中で「平民と、しかも結婚もしないうちから一緒に暮らすだと!」という父の声が聞こえるが、気にしない。エリッサも王都で暮らすから、これからはいつでも会いに行ける。


「エリッサ、退院おめでとう」

「お姉様、ありがとうございます」




◇ ◇ ◇




いつものように旦那様を出迎える。玄関に飾られた秋バラが、良い香りを漂わせている。


「おかえりなさいませ、旦那様」

「ただいま。今日のアイリスの様子はどうだったかな」

「自分で立ち上がって…もうすぐ一歩が出そうですわ」

「そうか。楽しみだね」


旦那様は私からアイリスを受け取り、「歩くところは、一番にお父様に見せておくれ」と言う。アイリスはもうすぐ1歳。意味がわかっているのかいないなのか、旦那様を見て嬉しそうに声を上げて笑う。


これが私の幸せ。


旦那様とアイリスを見つめて動かない私に、旦那様が「どうした?」と優しく聞いてくれる。旦那様に伝えたいことがある。今まで伝えたことがなかったこと。今、身体が震えるほど伝えたい。


「旦那様。私、たぶん…いいえ、たぶんではなく、旦那様を愛しています。いつからか、とても深く。旦那様は私にとってなくてはならない方です」

「そうか」


旦那様はアイリスを優しく床に下ろして頭をひと撫でする。そして私に近づいて抱きしめた。


使用人たちもいる前で、こんなことをされるのは初めてだ。「旦那様…」と声をかけると、「レオンと」と返ってくる。


「レオン様」

「なに?」

「レオン様」

「なに?」

「レオン様」

「だから、なに?」


笑いながらレオン様が体を離す。


「ただ呼んでみたくて。きっと、ずっとこう呼びたかったのです」

「そうか」

「感謝しています。変わらずそばにいてくださって」

「当たり前だ。カリファのそばにいることが私の幸せだから」


「これからも、思い出して辛くなることはあるだろう。そんなときは私にぶつけなさい。聞くから」と言ってくれる。そう言って変わらずそばにいてくれる人がいる有難さに震える。


レオン様の頰を手で挟んでキスしようとすると、レオン様も私に顔を近づける。その時、視界の隅に私は動きを捉えた。


「レオン様、アイリスが」


アイリスが「ああう」と声を上げながら立ち上がり、私たちに向かって、初めての一歩を踏み出し…そして尻もちをついた。


「見逃した」

「ふふ。またすぐ見られま…」


最後まで言う前に、レオン様が私の顎を持ち上げてキスをした。

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