58、瞳の色
ブロルを奪ったロットが谷底へと消え、一同が混乱する中、まず口を開いたのはルースだった。
「先に行って下さい。ロット隊長は僕が追います」
「本気なのか?」
エスカが問うと、彼は頷いた。
「山へ入るには時間の制限がある。ブロルを見捨てることは出来ませんが、ここで全てを無駄にするわけにもいかないんです」
「でも、今のロット隊長は何をするか分からないじゃないですか!」
たまらずカイが口を挟むと、ルースは落ち着いた声音でこう言った。
「僕の心配なんかしなくていい。自分の判断の責任は自分で取る。……エスカさん、お願いします」
自分の判断の責任は自分で取る――ルースが新人の頃に、他でもないエスカが教えた心構えだった。
彼は決して、無謀な真似をしようとしているのではない。それを悟ったエスカが頷くと、ルースはすぐさま走り出し、崖の縁を蹴って谷底へと姿を消した。
「副――」
「獄所台に気付かれる。冷静になれ」
大声を出しそうになったカイの口を魔術で閉じさせて、エスカが言った。
「この中でロット隊長の心に最も踏み込めるのは誰だ? ルースしかいないだろう。それに、あいつは最年少で副隊長になった男だ。後先考えずに動いたりはしない。大丈夫だよ」
エスカは諭すようにそう言って、外套の内側から懐中時計を取り出した。
「間もなく9時だ。山の入口の監視が外れる。俺たちには時間が無い、行くぞ」
微かな揺れを感じながら、ブロルはふと目を覚ました。
夢現に薄目を開けていると、天井から吊るされた裸電球だろうか、ぼんやりとした丸い灯りが幾度となく視界の端を通り過ぎていく。自分で歩いている感覚は無いのに、体はどんどん前に進んでいるようだ。
(あ、ロウソクウリか……)
ブロルはあやふやな頭でそう考える。ロウソクウリは暗い所で発光する瓜の仲間で、主に洞窟の天井にぶら下がって自生し、蝋燭を灯したような優しい光を放つ植物だ。
その灯りを見ているうちに意識がはっきりとしてきて、彼はようやく、自分が誰かに背負われていることに気が付いた。
(そういえば、僕……)
記憶が甦ってくる。橋を渡ったところで、エイロンを追うロットが現れ、その彼に腕を引かれ――それ以降を覚えていない。しかし、あのとき仲間と引き離されたことだけは確実に感じていた。
「……離せっ!」
完全に意識を取り戻したブロルは、体を仰け反らせるようにして身をよじった。どさりと地面に投げ出され、後退りしながら自分を背負っていた人物を確認する。
予想した通り、それはロットだった。
「もう目覚めたのか」
薄明かりの中に立つロットは、ブロルを見下ろしながら静かにそう言った。さっきの拍子で眼鏡が飛んだのか、彼は鼻の頭をさすっている。ややあって、ゆっくりとその手をよけた。
ブロルは眼鏡越しではない彼の目を、初めて見た。そして、息を呑んだ。
「その目……」
自分と同じように、瑠璃色に輝く瞳がそこにあった。
人の消えた街の中を駆け抜け、自警団の医務官たちは決死の思いで王宮に向かっていた。
近衛団の尽力もあり、オルデンの樹の暴走は止まった。しかし、彼らへの被害は甚大だと緊急連絡を受けたのだ。
「ルカ! そっちの医務官は何人だ?」
途中で病院から駆け付けたレナが合流し、自警団の医務官に尋ねた。彼女自身は、3人ほど医務官を引き連れている。
「8人です、医長。非常時の経験がある医務官を引っ張って来ました」
ルカが答えた。彼はエスカの同期で、自警団の中では既にベテランの括りに入る。仮眠中に叩き起こされたのか、彼の赤毛の短髪には寝癖が付いていた。
「非常時も非常時だ。現場を見ても驚くなよ。私が受けた報告だと……手足を失った団員もいるらしい」
レナは呻くように言い、足を速めた。
一同が王宮に到着すると、その周囲には点々と団員たちが倒れていた。意識のある者はいないのか、誰一人として動く気配がない。ナシルンで連絡を送ってきた団員も、既に気絶しているのだろう。
近付くほどにその惨状が明らかになってくる。倒れた団員たちの欠損した手足、黒ずんだ血が滲む傷口……。ミネの状態を知っているレナはすぐさま処置に入るが、他の医務官たちはその場で数秒固まっていた。
「何をしている! 止血と創部回帰、その後に部分凍結の魔術を使うんだ。急げ!」
レナが怒鳴りながら指示を飛ばす。医務官たちは我に返ったように、倒れた団員たちの元へ散らばっていった。
「しっかりしろ、分かるか?」
レナは自分が処置をした団員の肩を揺する。その男性は、右肘から先を失っていた。
「おい、ラシュカ」
彼女の声には微かに必死さが滲む。ラシュカは第三隊にいた頃、任務の度に怪我を負っては医務室を利用していた。手の掛かる隊員としてレナの記憶に残っていたのだ。
「……医長」
ラシュカはゆっくりと目を開け、弱々しい声で言った。
「キペルは、どうなりました……?」
「無事だ、安心しろ。お前たちはちょっと無事じゃないけどな」
レナは冗談のように言い、着ていた白衣を脱いでさりげなくラシュカに掛けた。傷口が彼の視界に入らないようにしたのだ。いくら覚悟の上とはいえ、体の一部を失うという事実はすぐに受け入れられるものではない。
「レンドルはどこに行った」
レナは辺りに視線を巡らせるが、彼らしき姿は見当たらなかった。
「副団長は……恐らく、洞窟の中へ……」
「中にはエディトもいるんだな?」
「はい」
「行ってくる。お前は寝ていろ。仲間がすぐに病院へ運んでくれるから」
ラシュカの額に触れて彼を眠らせ、レナは立ち上がる。遠くから自警団の隊員たちが駆けてくるのを確認し、彼女は王宮の中へと走り込んだ。