56、暴走
イプタが意識不明の状態になった――エディトがその報告を受けたのは、彼女が南特区の森に潜んでいた同盟の人間を捕縛し、セルマたちが無事に監獄へ繋がる橋を渡り始めたときだった。
彼女たちを護衛することと、巫女の命の危機。セルマとイプタが同じ巫女だとしても、近衛団として優先すべきは後者だ。
(……無事を祈っています)
遠ざかっていくセルマたちの後ろ姿にそう念じながら、エディトは踵を返し、キペルへと急いだ。
「団長!」
エディトが王宮に着くと、彼女の姿を捉えたレンドルがすぐに駆け寄って来た。なぜか彼の制服は所々裂け、顔には切り傷もある。
「レンドル、その傷は?」
「オルデンの樹が暴走しているんです。樹の下にイプタが倒れているのが見えましたが、洞窟の中にはナイフのような葉が激しく飛び交っている。私の力では彼女に近付くことが出来ません」
「分かりました。とにかく、行きましょう」
エディトは早口に言って、彼と共に地下へと急いだ。
巫女の洞窟へと繋がる通路の扉を開くと、暗闇の中で轟々と風の唸る音がする。レンドルの言葉通りなら、中へ入れば生きては出られないかもしれない。
(命を落とすその時まで、生きて戦おうとするのが覚悟……。私の戦う場所は、ここなのかもしれませんね)
王族と巫女の為なら命をも捨てる。それが当たり前のこととして生きてきた彼女に、恐怖心はなかった。敵が人間であろうと、オルデンの樹であろうと、果たすべき役目に変わりはない。
「もしイプタの命が尽きれば、キペルはガベリアと同じように闇の中へ消えます。我々は最悪の事態を想定しなければなりません」
エディトは小さく拳を握り、真剣な目でレンドルを見た。
「王族を全てスタミシアに避難させて下さい。それから、王宮に近いキペルの市民も避難させるよう自警団に連絡を。もしものことがあった場合は、我々が身を挺して被害を最小限に。……干渉包囲を実行します。方法は分かりますね、レンドル」
その言葉を聞いたレンドルは微かに目を見開いたが、答えた声は冷静だった。
「はい。団員たちも皆、覚悟は出来ているはずですが、……本当に実行する日が来るとは思いませんでした」
干渉包囲とはその名の通り、魔導師数人で対象を包囲し、彼らの魔力をもって対象の魔力を打ち消す方法だった。
国を揺るがす事態においてのみ、干渉包囲の使用が許される。近衛団に綿々と伝えられてきた魔術だが、過去に使われたことは一度もなかった。多くの場合、魔導師に犠牲が出るからだ。
失敗すれば魔力を全て失うか、最悪の場合は死に至る。対象が暴走したオルデンの樹ともなれば、その最悪の場合が起きる可能性の方が高かった。
それでも、近衛団に逃げることは許されない。王族を、ひいてはリスカスを守ることこそが使命だからだ。
「もちろん、私はイプタを死なせるつもりはない。あくまで最悪を想定してのことですよ。君はひとえに、副団長の務めを果たして下さい。……私の身に何があろうとも、です」
エディトは静かにそう言った。恐怖はない。しかし、別の感情が胸を締め付けていた。もし自分が死んだら、彼がどんな顔をするのだろうと。
レンドルは彼女の覚悟を察したのか、微かに表情を歪め、言葉を詰まらせた。それを見たエディトは、こう付け加えた。
「近衛団長が実力ではなく、その血で選ばれる理由を君なら知っているでしょう。いざというときに、巫女の力になれる。他の人間には出来ないことです」
彼女は毅然とした表情で言う。少しの迷いもレンドルには見せたくなかった。それがいつか、彼を苦しめることになるかもしれないからだ。
「エディト」
レンドルは不意に手を伸ばし、彼女の体を抱き寄せた。
「戻ってきて下さい、必ず。これは副団長としてではなく、私個人の願いです。どんな形でもいい。私はまだ、あなたを失いたくはないんです」
時刻が夜9時を回った頃、キペルの街は俄に騒がしくなった。王宮に程近い住民たちが、自警団によって次々と避難させられているからだ。
数人、あるいは数家族ごとに、運び屋が市民をスタミシアへと運んでいる。都市間を忙しなく行き来している彼らは、冷たい風が吹く中でもその額に汗を浮かべていた。
「あの、自警団の方。私達も、あと三回が限界です」
運び屋の一人がぜいぜいと息をしながら、避難の指揮を取っていた第一隊の副隊長補佐、ライラックの元へ駆けてきた。
「協力に感謝します。ですがあと一組だけ、お願いします。それで最後ですから」
そう励ますライラックの額にも汗が滲む。彼も指揮官として、あちこち走り回って指示を飛ばしていたのだ。運び屋は頷き、また任務に戻っていった。
「ライラック!」
ライラックの元に、今度はフィズが駆けてきた。
「こっちは避難完了だ」
「了解。こちらもあの一団が避難すれば、完了です」
ライラックは先程の運び屋に目を遣る。数秒後、周囲に集まる人々と共に、彼の姿はふっと消えていた。
自警団だけを残し、市民の姿が消えた街はゴーストタウンのようになった。その静けさと吹き付けた風に背筋をぞっとさせながら、二人は顔を見合わせる。
「私の人生の中で、こんな異常事態が起きるとは思いもしませんでした。まぁ、第一隊の隊長も副隊長もいない時点で十分異常ですけどね」
ライラックが汗を拭いながら飄々と言うと、フィズは唸るように答えた。
「あのな、俺たちはガベリアの悪夢以来ずっと、異常の中で生きてるんだよ。慣れちまったから分からないだけだ」
「そうですね。魔力で直接人が傷付けられるなんてこと、以前は無かったわけですし。……これ以上魔力の秩序が乱れれば、はっきり言ってリスカスは地獄になるでしょう」
ライラックはそう言って、遠く、小高い丘の上に見える王宮に顔を向けた。そこでは今まさに、近衛団が命懸けの作戦を展開しようとしている。
「魔力によって、ゼロから何かを造り出すことは出来ない。この秩序があるからこそ、魔力を持つ私たちは立ち止まることが出来ている。そう思いませんか、フィズ隊長」
「当たり前だ。魔力で何でも出来ちまう世界なんて恐ろしいだろう。人を殺すための何かも造り放題ってことだ。武器でも、動物でも、人間でも」
「同盟は、やるでしょうか。もしキペルが消えて、秩序も消えたとしたら」
「やるだろうな。それが奴らの望みだ」
「止めなければいけませんね」
「残念だがな、巫女に関しては俺たちの力の及ぶところじゃない。俺たちは俺たちの仕事を全うするだけだ。行くぞ。お前のとこの隊長も、取っ捕まえて尋問しないといけないしな」
フィズがそう息巻くと、ライラックは不思議そうに尋ねた。
「意外ですね。まだロット隊長のこと、隊長だと認めているんですか? かなり怒っていたのに」
「うるせぇ。まだ正式に除籍されてないんだから、隊長で間違いはないだろ。個人的には最低のクソ野郎だよ、あんな奴は」
「そうですか。安心しました」
ライラックはそう言って、微笑んだ。
「あ?」
「フィズ隊長でも割り切れないなら、私ら第一隊の隊員が割り切れなくても仕方がないってことです。本当に……立派な隊長なんですよ、ロット隊長は。例え、あんなことをしたとしても」
寂しげな彼の視線が、宙を漂った。
「知ってるよ。だから獄所台には黙ってるんだろうが。誰だって真実は知りたい。勝手にしんみりしてんじゃねぇよ。行くぞ!」
強めにライラックの背中を叩いて、フィズは走り出す。ライラックはふっと笑い、その後を追った。