妖精姫の異変
ピナとあの男から少し離れた場所、柔らかな日差しに照らされて佇んでいる男性に私はゆっくりと近づいた。
彼にはいつもの冬の木立を思い起こさせる静かで鋭い雰囲気はない。その代わり、捨てられた子どものように胸を突くような虚しさと悲しさ、そして悔しさを滲ませていた。
「ランス」
声をかけると、彼はややあってピナを見つめる視線をそのままに私に尋ねた。
「あの様子、魔導師の君ならどう考える?」
「どう見てもおかしいわ。ああなる前に何かあった?」
今も目の前でいちゃいちゃしているピナたちから僅かに目を逸らしてランスに問いかける。
やっぱりあの空気は好きになれないわ。
いくらこの体を支配する嫌悪感や恐怖の原因がわかったからといって、いきなり直視することはできないものなのね。
「…いいや、特に。あの男を目にした時からああだ」
ランスと答えに、少し落胆する。何か変なものでも食べたのだというなら、ピナを元に戻すことも簡単だったかもしれないのに。
あの男をなるべく視界に入れないようにピナを観察してみる。
「ねえ、イツキ!イツキの世界ってどんなとこ?」
明るい口調も、子どものように無邪気な笑顔もピナのものなのに、どこか空々しく感じた。
「あの男を目にした時、ね。ランスはなんともないの?」
ランスの瞳を覗き込むと、彼は渋面を作って頷いた。
「ああ、何もおかしなところはない」
ランスはまたピナに視線を向ける。その目には主人への忠誠心以上のものが宿っていた。
「…そう、わかったわ。ありがとう」
お礼を言い、私はこれまで生きてきて、ずっと目を逸らしていたものを見つめる。注視すれば吐き気がこみ上げてくるけれど、無心になればチラ見くらいなら耐えられる気がした。
「じゃあ私、ちょっとピナたちにも話を聞いてくるわね」
ランスにそう告げると、彼はえ、と小さく声を漏らした。
「それはダメだ!」
ランスが慌てたように私の手首を掴む。心なしか顔色が悪い。
「どうして?」
首をかしげると、ランスは苦虫を噛み潰したような顔をして、
「あの男と目を合わせた女性はみんなピナ様みたいになる」
と呻いた。
「みんな?」
どういうこと、と周りを見回して私は思わず凍りついたように動きを止めた。
先ほどまでは気づかなかったけれど、王宮の窓や茂みの影、壁の向こう側などからたくさんの女性があの男に熱い視線を送っていたのだ。
中には視線に殺傷能力があるならば確実に人を射殺せそうな目でピナを睨んでいる人もいる。
ああ、キモチワルイ…。
けど、あのピナの変わりようが本人の意思なのかどうかだけでも確認しに行くのなら、そんなことは言っていられないわ。
自分を奮い立たせて、ランスの目をしっかりと見据えた。
「…私は大丈夫よ」
ひときわ強い風が私とランスの髪をさらっていく。
ランスの錆色の瞳がゆらゆら揺れる。
「…それでも、やめておいたほうが良い。君までああなったら、レオンが…」
彼が珍しく言葉を濁す。
なんでここでレオンの名前が出てくるのかしら?
少し考えてみて、確かにいきなり幼なじみの様子がおかしくなったら、あのちゃらんぽらんに見えてその実繊細なアイツなら傷つくわよね、と納得した。
「大丈夫、念のため魔法を防ぐ障壁は張っていくわ」
それに、私はピナみたいにはなれない。
あの男は私の前世の敵だもの。その記憶がある以上、あんな風に好意を持つことはできないわ。
じっとランスを見つめると、彼は観念したように目を閉じた。そして次に目を開いた時には、いつもの静かで強い意志を瞳を宿す冬の木立のような彼に戻っていた。
「そうか。なら、僕も一緒に行ってもいいか?」
「ええ、もちろん」
ランスも付いてきてくれるなら心強いわね。
私よりもピナと過ごした時間が長いランスなら、私が気づかないことにも気づくかもしれないもの。
ランスと連れ立って二人の元へ向かうと、ピナたちも私たちに気づいたらしく話を止めてこちらを向いた。
その瞬間、二人が浮かべた表情に私は思わず足を止めそうになった。
ピナは私たちが歩いてくるのを認めても、まるで道端の石ころを見たときみたいに何の感情も宿さない目をしていた。
対してあの男は、隣のランスには目もくれず、私だけを見つめて仄暗い光を瞳に宿してニヤリと笑ったのだ。
このまま回れ右をして、帰ってしまいたい。
そう思う心を押さえつけて、私はランスと共に二人の前に立った。
「初めまして、勇者様。私は…」
重たい口を開き、笑顔を貼り付けて定型文を紡ごうとした…のだが。
「花!やっぱり君だったんだね」
私の言葉を遮って、あの男がいきなり立ち上がった。その勢いであの男にしなだれかかっていたピナが弾き飛ばされ、地面に倒れる。
「ピナ様!」
ランスが慌てて抱き起こそうとする。しかし、それよりも早くピナはその桃色の瞳に冷徹な光を宿してランスの手を払いのけた。
「っ⁉︎」
「あたしに気軽に触らないで」
平坦な声で告げたピナは、地面に倒されたとは思えないほど軽やかに、そして優雅に立ち上がりランスを見据える。
凛と背筋を伸ばした彼女の、今まで見たことがないほどの威圧感に私もランスも息を飲んだ。
この子は一体誰?本当にピナなの?
目に魔力を籠めてピナを見つめる。するとゆっくりと、ピナを取り巻く魔力の光…簡単に言うとオーラのようなものが見え始めた。
初々しい咲きかけの蕾のようなピンク色の光が見え始める。その光にまとわりつく、ネットリとした赤黒い…。
「花、会いたかった…」
「きゃっ⁈」
不意に私の首に男の腕が回されて、集めた魔力が四散した。
せっかく見え始めていた魔力の光が一気に見えなくなる。
邪魔した相手はやはり、あの男だった。あの男の顔が存外近くにあり、胃のあたりからムカデが這い上がってくるような嫌悪感が湧いてくる。
触られたところ全てが気持ち悪い。
私に触らないで!
叫び、得意の魔法で氷漬けにしてしまいそうになり、私は深く息を吐いた。
ダメ、この男は腐ってもこの国の食客よ。害を与えたら、国どころか世界の問題となる。
「私は花ではありません。フィオーレです」
努めて冷静に返し、離してください、とその腕を退けようとした。
しかし、拘束を解こうとすればするほど腕の締め上げる力は強くなるばかり。
骨が軋む。
苦しい。息ができない!
目尻に涙が滲んだ。
このままじゃ絞め殺される!
ハッ、と短く息を吐き出した時だった。
「フィオ!逃げて!」
どこからともなく高い声が降ってきた。と同時に、目の前の男が立派な角を持った牡鹿に跳ね飛ばされる。
「っ!ゲホッ!」
気管に一気に空気が流れ込み、ひとつ大きく咳き込んだ。
支えを失った身体が地面に沈む。柔らかい草が身体を受け止めてくれた。
ゲホゲホと咳き込みながら喉を抑えて、声が聞こえた方…生命の危機から助けてくれた人物の方を向く。
そこには虚ろな目をしたピナが立っていた。
「ピナ、今の…」
痛む喉で問いかける。
すると数少ない私の友人はかすかに苦しそうに顔を顰めて、
「逃げて」
と囁いた。
誰からか、なんて問いかけるまでもない。牡鹿に撥ねられて、女官たちに心配されている男の姿に腸が煮えくりかえりそうになった。
…やっぱり、ピナのこと状態は本人が望んだものじゃないみたいね。ということは、あの男に駆け寄る彼女たちも…。
「…ランス」
ピナが長年連れ添った従者であり幼なじみの名前を呼ぶ。
それだけで彼は得心したように頷いた。さすがおしめをしていた頃からの付き合いだ。
「フィオ、一度戻ろう」
「…ええ」
首肯し、差し伸べられた手に掴まって立ち上がる。そして今度こそあの男に近寄られないようにより強固な障壁を張り、一瞬だけピナの方を一瞥した。
「必ず助けるわ」
呟いた声は普通の人間よりも耳の良いピナの耳に届いたらしい。
彼女もまた、刹那の笑みを返してくれた。が、すぐにそれも無機質な表情に隠れてしまう。
私たちは振り返ることなく王宮の中へと戻ったのだった。