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元自衛官、異世界に赴任する  作者: 旗本蔵屋敷
三章 元自衛官、公爵の息子を演ず
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38話

 自衛官は、そのオンオフで一種の別人に慣れる人でもある。

 それは、俺の考えの一つだ。先日まで情けなく、馬鹿だと嘲られていた先輩が後輩を一喝し、思いと言われる対戦車誘導弾を持ちながら一番長い間行軍でその装備を抱えている。何かあったときにすぐに逃げ出し、言い訳を並べる先輩が行軍前に六十Kgにまで重量を詰め込んだ背嚢を背負って毎日夕方に駐屯地を歩いている。後輩を弄り、半ば虐めではないかと嫌われていた人物が、行軍の中疲弊しきった後輩との不寝番で後輩を休ませて自分だけ起きていた。

 それと同じように、俺も一部極端とは言えるけれども”スイッチ”とやらが出来た。面倒くさがりで、楽をしたがりで、怠惰な俺も――”楽しみ”が出来たのだから。


 午前に俺はヤゴと共に剣の訓練、修練、稽古をする事になった。まずは訓練前の運動をして、それから剣の扱いを教わる。当然のようにヤゴは名誉監督のように擬音でしか説明できないので、それを執事のザカリアスが言葉にして説明してくれた。

 だが、クラインという人物ならいざ知らず、中身の俺は紛いなりにも自衛官として訓練を何年も積んだ身だ。五年と言うブランクで技術や知識はさび付いたりはしただろうが、なくなったりはしない。格闘訓練や市街地戦等々と色々やっていれば、そこらへんの知識や経験は流用できる。結果として幾つかの段階をスキップするように修得済みとして飛び越えていった。

 そして数日の訓練を経て、ザカリアスは満足げにうなずいた。


「クライン様、衰えは無さそうですな。物忘れは幾つかありますが、概ね昔通りといって良いでしょう」

「なんだよクライン。私の事は忘れたのに戦いの事は覚えてるのかよ~」

「あはは……」


 中身がクラインじゃないので何とも言えないのだが、それでも剣技の扱いに幾らか慣れたのは良い事だと思う。剣の扱いなんて想像上、あるいは別の理論を持ってきて代用するしかない。その上、たぶん喧嘩殺法のような無法めいたものになるだろう。下段構えで切り上げ、胴への蹴りとそれを軸に踏み込んで切り下げるとか。逆袈裟からの蹴りとか――ゲームの技を多用する事はまず少なくは無いだろう。


「けど、ワクワクするなぁ……。クライン! 手合わせ、早く手合わせしよう!」

「待ちなさい、ヤゴ。確かにここ数日でクライン様に目を見張るものはあります。

 けれども、貴方の言う手合わせは”真剣勝負”そのものでしょう。お怪我をさせるつもりですか」

「大丈夫大丈夫、させないさせないって」

「た、頼むから止めよう?」


 しかし、ヤゴの悪癖というかなんと言うか……。彼女は”俺より強い奴に会いに行く”みたいなタイプらしく、生計を立てる為に行っている魔物退治や治安維持への助力は「強い奴居ないかな~」と喧嘩を吹っかけにいっているようなものらしい。バトルジャンキーかなと思ってしまったが、若さゆえと言う事だろう。彼女は十五歳、ミラノたちより一個年上と言う事になるが――育ちの関係か、精神年齢はカティアに劣る気がした。


「だって~、クライン……すっげぇ良い動きするんだもん!」

「まるで戦い慣れて居る様な、場当たりではない戦いをしますな。

 ――あぁ、実戦の経験は一応おありでしたか」

「あの時、どういう風に戦っていたかは覚えてないんだ。

 それでも、先を先をと見て戦わなきゃという考えと、大きな一発をねじ込むんだという考えが結構ひしめき合ってる」

「ええ、おおよそ向き合っている時はそれで宜しいでしょう。けれども、クライン様がそうやって自ら戦うような状況にしないのが、部下や兵の仕事です」

「――それは、僕が兵を率いる立場だからということかな」

「ええ、さようです。貴方様に何かあれば戦いだけでなく、この領地の未来さえ揺らぎます。それでも、戦いにおいて絶対と言うものはありません。ですからこうして剣を教え、馬に乗るのを教わっていただき、少しでも助かる見込みを高めているに過ぎませんから」


 ま、当然か。ツアル皇国では魔法使いは武将のような扱いで、兵と共に切り込んでいくのが常らしい。それとは違い、今居るヴィスコンティでは文字通り大将として座っているだけのことが多いらしい。じゃあ何してるのかといえば、補佐の人たちが命令してるのだとか。ただの戦場における”印鑑”じゃねえかと思わないでもない。カエサルだのハンニバルだのの時代はもう遠い昔ということなのだろう。


「それに、私どもには魔法が使えませんので。魔法を絡めた戦い方は教授する事が叶わないので、実質基本基礎を高めた上で、相手の出方に対して一つでも多くの対抗策を出せるようにするというだけの話です。

 技が一つでも多く使えるというのは、相手の出方に対して対応する手段があると言うだけの話です」

「とかいって。昔は熊の頭を叩き割ったり、公爵の尖兵として切り込んでいって沢山の兵士を切り伏せたって聞いてるけどな~。力技もあるじゃん」

「力技は、身の丈にあった使い方をしなければ。あるいは状況に応じて使用しなければ己を殺す技でしかありません。クライン様にはそういった技を使用していただくよりは、さっさと逃げていただいたほうが宜しいかと」

「――? 兵士を斬ったって、どういうこと?」


 なんか、戦争をしていたような感じはしないのだが。領地は馬車から見た感じ穏やかだし、あまり騒然とした感じはしない。戦いがあったようにも見えないのだが――


「あれ、クライン忘れちゃったの? 公爵って――」

「ヤゴ」


 ヤゴが何かを言いかけ、それをザカリアスが遮る。そのまま言葉が失われ、ヤゴが頭を搔いた。公爵が……なに? ザカリアスが若い頃は戦っていたという話があったが、兵士を斬ったという話は聞いていない。なんかきな臭いなと思いはしたが、二人とも語らないので聞かないほうがいいのだろう。


「まあ、実戦経験の豊富さでは私がこの中では一番でしょう。それでも旦那様のように魔法を纏わせた攻撃に比べれば力と技と速度で誤魔化しただけに過ぎないことが分かります。

 ――クライン様。旦那様もまた実戦経験がおありで、私どもの指導以上に強くなりたいと仰られるのであれば旦那様に頼み込んでください」

「確かに。剣技やザカリアスを下に見るわけじゃないけれども、魔法を交えた技となると父さんに聞かなきゃ駄目かぁ……」


 前にヒュウガやアルバートが見せてくれた魔法を交えた技というものを見せてもらったが、剣に焔を纏わせて地面を這わせて敵に当てて炸裂させるとか、振るった槍の先端にカマイタチ現象でリーチを稼ぎながらも相手に不可視の攻撃を与えるとか。色々あった。グリムは放った矢を補正したり、ある程度の距離から急加速させて距離と攻撃力を稼ぐ等の技術も見せてくれた。

 魔法から受けることが出来る恩恵は個人個人違うだろうが、それでも皆無よりは良いだろう。それを考えるのは俺の役割だろうし、実際に出来るかどうかを含めてそこから先は俺個人の責任か――。


「ミラノ、父さんにお願いしたとして通るかな?」

「通らないでしょうね。それこそ『自分で考えなさい』って言うだろうし」

「ま、そうだよね。じゃあ、自分で考えるしかないなあ」


 身体が強化され、人一倍強固な肉体を得ている。それでも”天才”と呼ばれるのだろう、ヤゴの剣技と体運びや足裁きはかなり素早かった。それでもザカリアスに言わせれば「力任せ」だそうで、逆にヤゴにザカリアスを語らせるなら「雷みたい」だそうだ。

 剣を持った戦いなんか考えたことが無いので、銃剣突撃を取り入れようかと思ったがあれは銃あってのものだと放棄した。俺に似合う戦い方はなんだろうと考え、考え、考える。けれどもやはり分からずに、どうでも良くなった。


「――いや、やっぱり実際に手合わせした方が早いかもしれない」

「お、やっとその気になってくれたか!」

「……宜しいのですか?」

「実際に命のやり取りをする訳じゃないけれども、それでもそれに近い状態にまで持っていく事が出来れば色々学ぶところはあると思う」

「では、すぐに怪我をしないような得物をお持ちしますので、それまでお待ちください」

「うん、お願いね」


 ザカリアスが去っていき、俺は素振り等で使用していた自前の剣を鞘に収めた。流石にこれで打ち合えば、それは切り結んでいることになっている事になる。そして互いに刃引きされてないので綺麗に切れるし、それで互いに負傷したり重傷や致命傷なんて笑えない。ふと屋敷を見ると公爵夫人が窓際に居て、見ている事に気づくと軽く手を振ってくれた。俺はそれに手を振り替えした。

 ――こんな、剣の訓練で刃傷沙汰を起こしただけでも公爵夫人は卒倒しかねない。手合わせ用の武器の場合は打撲や打ち身程度はあるだろうが、その程度なら自然回復でもいいし治癒魔法を使っても良い。


「というか二人とも、そこで優雅にお茶を飲んでのんびりしてるけど。見てて楽しい?」

「うん、楽しいよ?」

「私はどこまでもご主人様と一緒ですわ」


 そこに居るのはアリアとカティアで、アリアが俺宛に出された縁談というか見合いに対して断れるものや引き延ばしが出来るかどうかで数日試行錯誤し、その最終確認として今はミラノが処理をしているところであった。

 時間の経過と共に「全員断ればいいんじゃね?」と思ったのだが、それはそれで角が立つからもう少し待ってくれと言われてしまった。どうやら相手の立場や地位、面目や体裁を傷つけずに断るのは相当骨が折れるらしい。そして公爵もそれに目を通してから許可が下り次第送られていく。俺の知らない場所で奥さん候補が出来てるのは「なにこれ、罰ゲーム?」と言いたくなった。


「兄さんが頑張る所見たいなあって」

「ずっと部屋で頑張ってたみたいだし、僕も頑張ってる所を見せないとね」

「――本当にアリア様は頑張ってたのかしら?」


 カティアがそんな事を言う。俺は汗を拭ってからその手をカティアにコツリとぶつけた。


「こら、人の事をそう言っちゃ駄目だよ。アリアはずっと――彼の為に頑張ってたんだから」

「あら、ご主人様。箱の中の猫は確認しない限りその生死を確定させられない事はご存知かと思いましたけど」

「シュレディンガーの猫理論で人が頑張ってるかどうかを見るのは良くないよ。

 そんな事を言ったら、僕はカティアが僕をどういう感情で仕えているのかを確証バイアスに従ってでしか判断できないって事も言わなきゃいけなくなる」


 確証バイアスというのは人間心理における用語で「自分の信じたい情報や、好む材料しか集めず、それらに対する反論や反証は無視したり集めようとしない」という傾向のことだ。つまり、金持ちは皆汚い事をしているという主張や思考を持った人が居て、その後押しのために実際の出来事や小さい事柄を挙げ連ねる。しかし、中には立派な人が居たり、状況によってそういった手段に手を染めざるを得なかった人物が居たという考慮を無視して「あいつもだ!」といっているようなものである。

 俺の言葉にカティアは口を閉ざしてびくりと震えた。そして何かを言おうとして口を開いたけれども「ごめんなさい……」と小さくこぼして目線をそらした。そんな彼女の頭を撫でながら「分かれば良し」と言って聞かせた。


「”しゅれ”……”かくしょー”?」

「あぁ、えっと……。一つは確率論の話と物事が重なり合った事を言うんだ。もう一つは心理的な傾向に関して……かな」

「っ!? なんか面白そう、聞かせて欲しいな~」


 ……あれ、アリアもこんな子だったっけ。最近ミラノとカティアとヤゴで調子狂わされっぱなしだし、アーニャの件もあってアリアの事も微妙に分からなくなってしまった。アリアもこう、優しかったりはするけれども深入りしてこないような――遠慮? のような物があった気がする。

 だが、久しぶりに一緒に居る彼女は何だか踏み込んでくる。久しぶりの屋敷であり、家族と一緒の時間だからだろうか。学園では周囲に政敵になりうる人材が沢山居て、その上身体が弱いという事もあって目立たないようにしていたのかもしれない。


「その話はまた今度。今は手合わせをするんだから、その為に――集中しないと」

「兄さんは意地悪なんだ……」

「クラインは難しい話をするから私にはわかんないや。

 けど、使い魔のその子――なんか良いよね~」


 ヤゴはカティアがお気に入りのようであった。そしてソロリソロリと近づき、捕らえんと量の腕をサッと伸ばした。するとカティア、俺に頭を撫でられていたはずなのにそこにはただ無が存在するだけとなっていた。そしてその空っぽの空間にヤゴが「おろ?」なんていいながらカティアの座っていた椅子を巻き込みながら転がっていった。アリアは驚いていて、それでもその手でとっさにカップを押さえたのは埃等の異物が入る事がないようにするためだろう。

 埃や落ち葉を幾らか巻き上げながら転げていくヤゴ、すっ飛ぶ椅子。それを呆然と見ていると俺の隣でカティアが長いスカートをはためかせながらスタリとそこに降り立っていた。ジャンプしたのか、別のよけ方をしたのかまでは分からない。けれどもゼロとイチ、オンとオフ、在ると無いの様に彼女の存在が”そのままズレた”かのように錯覚する事すらできた。それは彼女の魔法か? それとも、シレっと猫に化けて移動して人の姿に戻っただけなのかもしれないが。


「御触りは現金。私に触れていいのはご主人様とそれに連なるミラノ様とアリア様だけですわ」

「え~……。ずっるいなぁ~。クライン~、私も触りたい~」

「あはは……。カティアは綺麗好きだから、汗を流してからお願いしてみたら良いんじゃないかな」

「抱き付かないのであれば、いくらでもお相手いたしますわ。

 ――え、本気で相手しなきゃならないのかしら」

「相手したげてよ。僕も世話になってるんだ、それくらいの交友があってもいいと思うんだ」

「まあご主人様がそう言うのなら従うけど……」


 カティアは不承不承といった感じであったが、従ってくれた。そんな彼女をまた撫でて「良い子だね」と呟く。するとその手を掴んで顎に持っていかせるカティア、どうやら顎を撫でて欲しいらしい。元が猫だからという事もあって別に良いのだけれども、人の姿をしている時に顎を撫でさせるのはちょっと周囲の目線がきつい……。

 後でねと言いながら短時間で済ませると不満そうな表情をしたが、ちょうどザカリアスのほうも戻ってきたようで、タイミングに救われた形になる。ヤゴもぶっ倒した椅子を起こして「ごめんね?」なんてアリアに言っていた。アリアは気にしていないようではあったが、お茶に埃などが入っていないかどうかの方が気になっているようで覗き込んでから口にしている。なんとも平和な光景か。

 だが――


「ちぇりゃぁああああああッ!!!!!」

「ぐっ!」


 暫くすると、そこにあるのは穏やかな空間ではなく、一種の死線を越えた場所があった。首を、心臓を、脇腹を、内臓を、眼球を、喉元を、膝を、腹下を、股間を、鼻っ柱を、顎を容赦なく狙ってくるヤゴに大してこちらも最初は防戦一方だったけれども、徐々に防御行動が素早くなり、先読みが始まり、相手の空間を切り取り削り取る戦いが始まる。

 突けば点で、斬れば線で相手の持つ空間を攻める事になる。その空間の先に重要なポイントがあり、そこに攻撃が到達すれば攻撃の成功となるのだが、回避をする事で相手は空間をずらし、防御をする事で切り取る刃を止め、攻撃を仕掛けてくる事でそれを逆に行ってくる。その押収は決して楽なものではなかった。

 若干露出の多いヤゴの肩を突き、そのまま木剣が滑って彼女の皮膚を抉り、出血を強いた。防御が間に合わず、弾くだけとなったヤゴの剣が俺の額を殴りつけて血が流れ出る。ヤゴの戦闘は特徴的で、剣だけではなくもう片方の手や両足も攻撃の手段としてフルに活用してくる。

 剣で鍔競り合いにでもなると、剣を手放して胸倉を掴んでそのまま一本背負いのように地面へと叩きつけてきた。跳躍してからの斬撃が防がれるとそのまま剣を滑らせて流して着地し、防御で硬直しきってしまった真下からロケット頭突きのように顎下へと頭を叩きつけてきた。薙ぐような横一線が回避されるとそのまま一歩踏み出してから回転蹴りを飛びながら放ってくる。

 それでも、徐々にそんな行動にすら目と思考が追いついてくる。荒々しい攻撃は、予備動作から行動が予想できる事を思い出す。目の前で繰り出される攻撃ではなく、その次に連続で出されてくるであろう攻撃を予想して百の力で一撃目を防御や回避するのではなく、相手の行動にあわせた適量の力で抗してから二撃目、三撃目にも対処する。

 そうやって手合わせをしていると、徐々に俺も手足を出したくなってくる。それでも、何とか剣のみで対処しているのだが――頑張れば頑張るほどヤゴのテンションがあがっていく。


「あははははははは! クライン、やっぱさいこーっ! これこれ、これだよ!

 生きてる! 私は生きてる!」

「ばっ……。バトルジャンキー!!!」

「なにいってんのかわっかりませ~ん!!!」


 ヤゴは攻防を一手重ねれば重ねるほどに勢いを増していく。それは攻撃が大振りになるのとは同義ではなく、早く、容赦が無くなっていくと言う意味だ。力と速さ、そして技術を兼ね備え、感性と言う”天才”を持った相手が本気になるとこういうものかと汗が目に入る事すら厭わずに直視し続ける。

 徐々に、俺の中の痺れも手の痺れも利かなくなって行った。だからつい――伸ばした手で彼女の肩に触れ、押し退けた。たったそれだけの動作だったが、戦闘行動と今までの速度にそぐわない物だったが為にヤゴの攻撃は途絶え、互いに睨み合うように対峙した。


「あはは、ようやく手が出た。なんか立派だな~って思ったけど、それを――忘れてた?」

「いや……まあ、うん……そう。忘れてたね」

「お行儀よくしてちゃ、昔みたいには――やれないよ?」


 そう言われ、呼吸を整え張り詰めすぎた緊張を幾らかほぐすように姿勢を崩した。けれども今この瞬間にも打ち込んできても良いように、隙だらけにはしないようにだ。髪が汗を吸い、その髪が額に張り付く。顎下を拭うと血が付着していて、それを少しばかり舐めた。生きてる。うん、生きてる。痛みを感じると言う事は生きてる事だ、疲れてると言う事は今まで元気だった証拠だ、血が流れていると言う事は生命活動をしている証拠だ。

 だが、戦い方を学ぶと言うことは……相手が、或いは相手を――二度とそういった事柄から切り離してしまう事だ。笑う事も泣く事も出来なくし、痛みを感じる事も疲労を覚える事も、流れる血ですら絶やしてしまう事だ。

 しかし……何だろう?


『たぶん、お前は前線で活躍するタイプだろ』


 その事に対して忌避感を抱いた事は無い。


『戦場心理の一つとして、直接の殺傷を避ける傾向にあり、銃弾であったとしても何割かの兵士は自分が手を下す事を恐れる。お前は、あまり自衛官を”義務”として取り入れすぎないほうが良い』


 直接、人の死を見た事もあれば幾つもの死体を見てきた事も関係しているのだろうか?


『お前ほど、軍隊と言う組織で輝ける人材は居ないだろう』


 敵は敵、味方は味方。交戦規約に則り、武器を捨てない相手であれば殺して良いと言うだけの話なのに、それが異端に見えるらしい。けれども、産まれれば生で亡くなれば死なのは人間に限らず動物や植物でも同じだ。ただ、条件付きで殺して良いか悪いかが分かれるだけで、その条件が複雑なだけでもある。そして、積極的に殺さなきゃいけない時もあれば、殺さないほうが良い場合もあるだけ。

 身体が冷えていく、そしてヤゴを静かに見つめながらゆっくりと緩慢な動作で構えた。それを見て彼女は笑みを深める。


「良いね良いね! そう、それだよ! 生きるか死ぬかっ! それが全部だっ!」

「はは、良いね……嫌いじゃないよ、こういうのはさぁっ!!!」


 そして、仕切りなおしと言わんばかりに俺も攻めに転じることにした。その時間は長く、ザカリアスによってストップが入るまで俺たちは互いに打ち合い、傷つけあい、泥や草にまみれ、汗と血を流しながら楽しそうに――それこそ、激しく輪舞をするかのごとく立ち回った。



 ~ ☆ ~


 ヤクモがクラインとして屋敷で手合わせをしている最中、当の本人はと言うと目蓋を閉ざしながら楽しそうに茶を楽しんでいる最中でした。


「クライン様。楽しそうですな」

「分かるかい? 今、僕を助けてくれた彼と感覚の幾つかを共有してるんだ。

 僕自身ここに居ながら、彼の見聞きしている物を目を閉ざし耳を澄ますと聞こえてくる……」

「それは魔法なのですか?」

「みたいだね。夜に時々彼と話をしてて、一日の出来事が聞けたり屋敷での生活で聞きたい事があったら聞かれるって事が多いよ」

「ふむ……。しかし、無の魔法でしたか? 私どものような庶民には魔法とは何が出来るのか分かりませんからな」


 クラインの視界にはヤクモが、幼馴染であるヤゴと剣の手合わせで奮戦しているのが映しだされている。模擬戦用の武器が互いに素早く繰り出される。そして視界が安定している時間は少なく、クラインは時々酔った。

 酔いが近づく度に現実に帰り、薬湯の準備をしたラムセスに笑みを見せた。その笑み一つで、長年死んだように眠っていた相手として見ていたラムセスは心中穏やかになる。死んでいたはずの人間が生き返ったとか、死ぬはずの人間が生きながらえたのと同じ理屈だ。ラムセスも僅かながら関わりがあり、クライン本人の人と成りもあって喜ぶ人は少なくない証拠でもあった。


「彼は凄いね。父さんが母さんを元気付ける為とは言え、演じさせたくなったのも分かるよ。

 それに、戦いも得意みたいだ」

「あの方は英雄と呼ばれておりますからなあ。それに、噂に聞いたような慈悲を有してらっしゃるようで。町の中で民を救い、魔物の群れの中で妹君達をお救いした。しかも自己を顧みる事無く、一度は死んだと言われておりますな」

「つまり、彼は神に愛されたのかもしれないね。あるいは、十二英雄の生まれ変わりか血筋のものか……」


 そういってクラインは薬湯を口にして、あからさまに不味そうな顔をした。そしてそんな表情をした自分に気づき、直ぐに引っ込めるが無かった事には出来なかった。そしてラムセスはそれをホホと笑い、受け入れた。


「クライン様、無理にご立派を演じずとも宜しいのです。人には出来る事と出来ない事があります。それでも出来る事を増やす、それはご立派な事でありましょう。ですがな、出来ない事を出来ないと認めて頭を下げるも、誰かを頼るも決して間違った事ではないとご理解下さい」

「ラムセス。それを今の僕が認めるわけにはいかない。これから僕は屋敷だけじゃなくて、もっと広い世界を知らなきゃいけないんだ。その上で出来ない事があると認めるのなら理解は出来るけれども、最初からそれをやるのは自分に言い訳と逃げの口実を与える事になる」

「ほむ」

「彼は僕が動けない事を知って、今回こうやって見聞きしたもので理解による学習の機会を与えてくれた。実際に体を動かせば僕は衰えた体がついて来なくてその通りには出来ないかもしれない。けれども、理屈を知っていればあと必要なのはそれを実行する技術と能力だけだ。

 技術と能力があっても理解の無い事柄を実行は出来ない、出来たとしてもそれは曖昧なものになってしまう。出来るかどうか、出来ない事が有るかどうかを今まで眠りについていた僕が考える事じゃない。やらない理由なんて無い。やってみた後で、その結果を無駄にするかどうかは自分次第――そうじゃない?」


 クライン言葉に、ラムセスは頭を下げる事しか出来なかった。けれども、それも一理あると彼は考える。人生なにが起きるか分からないと長年生きている彼だからこそ「何かを始めると言う事に関して、遅いも早いも無いでしょう」と考えたからだ。

 そしてクラインは自分の発言が受け入れられたのを見て小さくうなずき、再び薬湯を口にして苦い顔をした。


「ラムセス。この薬、味はどうにかならない?」

「良薬口に苦し、と申しますからな。滋養強壮、クライン様の摂られた食事の養分を少しでも多く体に染み込ませ、一日でも早く元気になられるようにと作った薬で御座います。

 それに、一日でも早く良くなりたいと仰られたのはクライン様です。その事、このラムセスは忘れておりませんぞ」

「あぁ、だね……。僕の言い出した事だ、最善だと思う方法の結果こんな苦い薬が出て来た訳だ……」


 クラインは自分の発言を思い出し、遠い目をした。身体に良い薬は苦いものだと受け入れるしかなく、机の上に置かれている砂糖の入った小さな容器から一匙、二匙と砂糖を投入してから一気飲みした。そしてヤケクソな感じでクラインは「飲んだぁ!」と杯を机に叩き付けた。その口の端からは一気飲みをすると決めた覚悟よりも僅かに多かった薬湯が漏れ出ていて、それに気づいて袖で拭っていた。


「ぷはぁっ! よしっ! 朝の分おしまい!」

「そのまま夕方の時も頑張ってくだされ。しかし、大分体調も良くなられたように見えますな。

 あと数日様子を見て、問題が無さそうであれば帰れます」

「たぶん、貰った薬が凄かったんだよ」

「あの薬、どのようなものかお聞きすれば良かったなと、今ごろ悔いております。

 何かあったときにまた同じように救える命が有れば医者として冥利に尽きますので」


 ラムセスの言葉にクラインは目線をそらして「あ~、うん。そうだね……」と考え込んだ。自分に与えられた薬が何なのかクラインも彼に尋ねたのだが、返答が「祝福された得体の知れないエリクシル的な何か」との事だったので、言葉通り”二度と手に入らない”ような物だった。そもそも得点と言う”願いを叶えてくれる”と言うものと引き換えにした物であり、薬学や魔術等を行使した結果得た物ではない為に、複製や生成が出来るかどうかも怪しい代物だった。


「けれども、彼のくれた薬は大分凄い物みたいだ。僕としては、明日にでも帰れそうな気がするよ」

「確かに。すでにお一人で歩き、食事が出来、歩き回る事も散歩も出来ますからな。

 しかし、何度も言っておりますが治ったと思った頃が一番大事なのです。毒と同じで、回復したように見えてその身体のどこかにまだ残っている場合もあります。ですが、人の多くは表面上の回復だけで治ったと思いがちですが、治ったと思ってから波があるものも有りますので」

「だね。悔しいけど、丸一日馬に乗って帰れば負担は小さく無さそうだし、ちゃんと治してから出る事にするよ」


 そういってからクラインは口直しにお茶を飲み、それから再び目蓋を閉じ意識を”向こう側”へと集中させた。そして感覚を共有している相手が激しくまだ打ち合っているのを確認すると、クラインの胸中にいくらか焦りがふつふつと沸いてくる。クラインも、ただ眠りに突いていたわけじゃない。うっすらと意識がある中で、いくつか物事を考える事くらいは出来た。けれども、自分に似た相手が今も立派に立ち振る舞っているのを見てしまい、本来であればそれをしなければならないのは自分なのにと考えたのだ。


「ラムセス。ここに居ながら僕に出来る、少しでも自分を鍛えられる事って無いかな」

「――筋力回復等の、寝た時間が長い患者が行う物ならありますが。クライン様は既にご自身で歩けるではないですか」

「なら、それよりも負荷を高める。そうすれば劣っているなりにも僕にだって幾らか前に進む事はできるはず」


 その言葉にラムセスは何かしらの理由をつけて反対しようとしたが、それを出来るほど無知でも無関係でもなかった。出来るか出来ないかという話題ではない、目が覚めた以上はクラインは公爵家の跡継ぎであり、公爵に何かあった場合彼の後を継いで立たなければならない。平和を言い訳にしようとしたが、その平和も外部からではなく国の内部から侵食されていると話に聞いている。暗殺、謀略、誘き出し――何でも可能性を考えられるので、それらを否定できないとクラインに対して行き過ぎた安静と緩やかな回復のみの今を肯定させるのは難しいと踏んだ。


「……では、私めが知っている物でも負荷が強くとも短時間で追い込むものを提案させていただきましょう。昔――公爵様が兄の問題で争った時に、兵の治療等を担当した事もあります」

「そう言えば、父さんも一度世話になったんだっけ……。酷い怪我をしたまま決戦に雪崩れ込んだんだよね?」

「ええ、そうですなあ。あの時は、酷い怪我でした。けれども、公爵様はご自身の怪我をしたという事すら利用して兄君を油断させ、準備万端迎え撃って勝利をもぎ取りました。

 あの時も負傷した事を隠すために兵の前で無理をし、傷口が開いても構わずにご自身で兵を率いて戦われました。あの時が私めの一番仕事の多い時であったと思います」


 クラインの父、ミラノとアリアの父親は現代の公爵家の当主だが、本来は二人兄弟でありその弟のほうである。しかし、とある事情から当主亡き後兄と弟で領地を別けた戦いとなり、その結果として弟が勝利し今に繋がっている。


「――公爵様も、丸くなられましたな。昔はご自身の事を”俺”と言い、言動は過激だったはずなのですが。今では”私”と言い、穏やかな物言いをされる。ですが、それが良かったのでしょうね。

 あの時なぜ戦ったのかは大半の人が知らぬままでしょう、知っている者も大半が死にました」

「僕もそこは教わってないんだ。何で父さんが実の兄と戦わなきゃいけなかったのか、理由を尋ねても教えてくれなくて」

「……まだ、教えられないと言う事でしょう。しかし、公爵様は必ずクライン様にお教えになります。それまで、辛抱してください」

「待つのはなれてるよ。今まで……この数年、ずっと待ったんだ。昔は待てなかったかもしれないけどね」


 そう言ってからクラインは少しだけ考え、それから屋敷に居るヤクモの事を考えた。自分に似ている相手、思考や思想も幾らか似通っている相手。本来なら恐れるべき事かもしれない存在であるにも拘らず、クラインは恐れるよりも共感や同情のほうが勝った。

 彼は孤独だ、帰る家も家族も住みなれた場所も失った。そんな宙ぶらりんなまま、英雄なんて重圧を背負わされるのは可哀想だ。だから――


「僕は、彼に報いられるかな」

「報いられるかどうかではなく、報いるんだとせめて意気込んでやってください。

 その人が何を望んでいるのかを考え、適切に処置をしてやるのは骨ですが――報いられた側は決してそれを忘れないでしょう」

「だと良いけどね」


 そしてクラインはヤクモの戦闘の光景を見ながら、幾らか彼に置いて行かれない様に――自分のなりたかった虚像を具現化したかのような存在に喰らいつくかのように、それから屋敷に戻るまでの間を幾らかのトレーニングを行いながらすごす事になる。

 そのとき、ヤクモやクラインはあまり考えて居なかった薬の効果が彼に強く作用していた。身体能力の向上……ヤクモ自身あまり気にもしなかった効果なのだが、それが寝たきりだった彼の身体を以前よりも幾らか強化してくれていたのだから。

 数日後、彼は領地に戻る事になる――。



 ~ ☆ ~


 ヤゴとの手合わせは――楽しくも激しかった。あの後ザカリアスにストップをかけられ、ヤゴと俺は互いにだいぶ負傷させあっていることに気付いたが、笑った。


「いや~、お互いに酷いね!」

「酷いねじゃないよ……。あの後、僕怒られたんだからね?」

「え、誰に?」

「アリアとカティアに」


 しかも公爵夫人が見てるのを途中から忘れ、泣かれた。メイドに「公爵夫人が及びでございます」と言われ、自分の様子を見て誤魔化そうかなと思ったら「”そのまま”、来られるようにとの事です」と釘を刺されてしまった。そして恐る恐る公爵夫人の部屋にまでそのまま向かい、出血だの痣だの打ち身だのを見て泣かれてしまった。


『私を心配で死なせる気ですか――!』


 似たような事を自衛隊に入る前にも言われたなと思いながら、俺はただただ謝罪をする事しか出来なかった。その場で目立つ負傷の全てを治療して見せても、文字通り”取り繕い”でしかないので何の解決にもならなかった。

 それでも何とか、考えを纏め心配かけた事を謝罪しながら、必要な事なんだと認めさせる。それは空白の期間だったり跡継ぎとしての立場だったり体裁だったりとか、色々なものだ。本当のクラインはまだどうか分からないけれども、ここに居るクラインを演じている俺は健康そのものなので若干の強弁も入り混じった。それでも理解はしたけれども感情が納得していないと言う様子だった。それも仕方のない事なのかもしれない。

 そして汗を流し、手当てをし、昼の食事を終えて午後に入った。午後は乗馬で、馬の管理を任されている使用人が馬を二頭連れてきてくれた。前に乗ったのは……中学生の頃だっただろうか? それが最後なので、体格的にも重量的にも互いに違うのだろうけれども。


「ヤゴは、怪我を治さなくて良いの?」

「ん? あぁ、私は良いかな。傷は男の勲章! ってみんな言ってたし、それが無くても私がまだまだ未熟な所が有るっていう事を忘れない為にも残しておきたいのさ」


 そういう考え方もあるかな。負傷した事実よりも、その負傷が存在する事で自分の失態を思い出す。戒め、のようなものかもしれない。けれども――


『兄さんは、怪我をして喜ぶ趣味でもあるのかな?』

『ご主人様。もしかしてワザと怪我をして心配させるのが趣味なのかしら?』


 訓練後、入浴と着替えを済ませた俺を待っていたのはアリアとカティアによる叱責だった。自分の部屋なのに正座させられ、頭上から声がずっと降って来るのは精神的にも来るものがあった。そして鬱血から足が痺れ出し、食事の時間が来て許されたときに力が入らなくて床とキスをした、めちゃ痛い。

 本来負傷してない箇所に湿布等を貼りつけていて、食事中に公爵に少しばかり驚かれたが、それでも「訓練中の傷です、サー」と答えれば笑ってすんなり受け入れられたが、アリアは苦笑してるしカティアは冷めた目でこちらを見ていた。

 俺、ここに来てから地味に評価落としてないか? ミラノにはウジウジと昔を思い出して膝抱えてるところ見られてるし、カティアにはヤゴ関連で胸を揉み馬乗りになられた事で好感度下がってるっぽいし、アリアには傷だらけになってもザカリアスのストップが入るまで互いに負傷させあいながらも打ち合っていた事で引かれている――気がする。

 何だかなあと思いながらも、流石に乗馬にはカティアもついて来る事は難しいと踏んだのか、アリアと一緒にミラノの手伝いをしにいくのだとか。ここ数日ずっと部屋にこもって作業していたはずなのに、まだやるとかアリアは甲斐甲斐し過ぎて泣けてくる。なお、全部俺の縁談の模様。


「馬の乗り方は覚えてるか? クライン」

「まあ、昔を思い出してやってみるよ――っと」


 まず馬具が全てあるか確認。鞍と鐙、手綱があるのを確認する。それから手綱を手にして馬がついて来てくれるかを確認するが、少しばかり抵抗した後に直ぐ手綱に引かれるままついてきてくれるのも確認できた。

 変に反抗心の強い馬では無い様だし、記憶にある範囲で馬具も揃っている様なので安心する。馬の頭を少し戸惑いながらも撫でてやると、つぶらな瞳が気になった。やっぱり、動物は良いよな……。人間相手だと立場、身分、年齢、所属等々を踏まえてさまざまな事を考えながら関わらなければならない。けれども動物相手の場合はストレスを与えない事、面倒を見ること、過不足ない程度に触れ合う事。最低限やるべき事をやっていれば嫌われずにすむし、懐いて貰えるし、そこに国柄だの派閥だのと言った面倒くさい事は何も存在しない。

 ふへへ、やっぱ動物は良いよなぁ……。


「クライン? 撫でてばっかじゃ、馬に乗れないぞ?」

「おとと、そうだった……」


 動物に触れる事がメインになってしまっていた所、ヤゴから突込みが入り本来の目的を思い出す。最後にもう一度だけ撫でてやり、それから手綱を握り締め、鞍に手を、鐙の片足を乗っけてからヒョイと乗っかった。その行動自体は前と同じで、特に疑問を抱いたり恐れる事でもなかった。それでも乗った瞬間にブルルと声を響かせた瞬間、落とそうとするのではないかと姿勢を低くしたがそんな事は無かった。


「どうどうどう――」

「おっ、良いね。馬の乗り方も忘れてないみたいだね」

「うまく乗りこなせるかどうかは分からないけど――っと!」


 しっかりと馬に乗り、手綱を握り締めて軽く馬の腹を蹴った。本当なら腹を蹴らなくても走らせる事が出来るのかもしれないけれども、俺はそれを知らないので蹴るしかない。それでもそんなに強く蹴ってないので小走り程度の速度で馬が動き出した。後は手綱で左右への方向転換や減速程度の操作は出来る。

 ぐるりと少しばかり走らせ、ヤゴの所まで戻ると彼女もすでに騎乗し終えていた。


「へへ、馬に乗るところから教えなきゃいけないかなって、尻を押す準備をしてたけどその必要は無かったみたい」

「女の子にお尻を押してもらって馬に乗るのは流石に情けないと思うんだけど……」

「尻くらいで今更どうのこうの言う関係じゃないじゃん。昔なんか二人とも泥だらけになって、怒られるのが嫌だからって逃げてたら二人纏めて風呂に突っ込まれた事もあったし」


 なんだそれ、ガチの幼馴染イベントじゃねえか。クラインは結構苦労人というか、幸薄い感じがしていたけれども、その分女運が良いのかも知れない。羨まし過ぎる話だ。

 しかし、当然ながらヤゴがそんな事を語っても俺には頭を搔いて「う~ん」としか言えない。何故なら俺には存在しない出来事であり記憶なのだから、下手に取り繕って身バレした場合が一番恐ろしい。


「ごめん。覚えてないんだ」

「まあ、そう珍しい事じゃなかったしな~」

「珍しくなかったの!?」

「だって、クラインはお屋敷の勉強に疲れると屋敷を抜け出してたじゃん。

 で、屋敷から出てきて近くにいる知り合いって言ったら私くらいしか居なかったし、良く町の知り合いと遊んでたからね。で、橋の手すりから落ちてびしょ濡れになる、川で魚を手づかみしようとして転んで濡れる、動物追い回して泥だらけになるなんてしょっちゅうだったし」

「あ~、うん……。なんか、それっぽい記憶が――」


 クラインではなく、俺個人の記憶だ。まだ劣等感だの認められたいだのと思い始めるより前、小中学生くらいの頃だろうか? 俺も同じように家庭教師から逃げたりしてたな……。あの時はまだ無邪気だった、そして天才だと親に言われた事を”引きずって”いた。十数名しか居ない中でのトップ、それがどれほどまでに井の中の蛙だった事か。

 治安の問題で送迎バスでの登下校だったが。下校の際は二度バスが出る事になっていて、部活等で遅くまで生徒が居残っても大丈夫なようになっていた。高校生の頃が”静”だとするなら、小中学の頃は”動”で、運動にばかりかまけていた気がする。中でも野球やバレーボール、バスケが好きだったか……サッカーは好きじゃなかったかな。


『男の子の癖に弱いんじゃ話しになんないよ~』


 幼馴染……なんか、それに近いような子は居た気がするんだけれども思い出せない。しょっちゅう喧嘩して、ボコボコにされてたっけ。スポーツでも負け、力勝負でも負け、口論でも負けていた。唯一つ勝っていたとすれば、勉強くらいか。それでも、仲が悪かったわけじゃないと思う。


『あ~、ウサギさんが逃げた! 追いかけて! 捕まえて!』

『え!? ちょ、僕ぅ!!!?』


 なんか、そのやり取りは若干ヤゴを思い出す。考え無しな行動でよく振り回されていたし、その尻拭いをさせられたのも俺だった。当時住んでいたマンションで一つフロア隣で、何度か遊びに来ていたというか……宿題をやりに来ていたんだったか。そういや、当時は”俺”とは言ってなかったな。”僕”と自分のことを呼んでいたか。


「ま、あんまり思い出せないなら無理すんなって。大事なのは昔より今っ!」

「はは、前向きな意見をどうもありがとう。それで、馬に乗ったは良いけど、どうする?」

「とりあえず町まで走らせてみよう! 距離も遠すぎないし、何かあっても屋敷でも町でも手当て受けられるし!」

「それ前向きな意見じゃないよね……。けど、長距離を走らせるのは賛成かな」


 どうせなら、前のように思いっきり馬を走らせたいと思っていた。なので少し楽しみにしていると、先導してくれるのかなと思ったヤゴが俺の乗っている馬の尻を思い切り叩いた。すると嘶いた馬が先ほどよりも早い、それこそ走りの速度で動き始めた。突如の事で一瞬上半身が持っていかれかけるけれども、直ぐに握り締めていた手綱を命綱として復帰。半ばしがみつく様な形であいた門扉から屋敷を離脱した。


「そうそう、馬に乗ってるときは自分じゃなくて馬に半分くらい任せる感じで、逆らわなけりゃ落ちたり疲れたりはしないよ!」

「はっ――走らせる前に一言言おうね!?」

「いつも身構えた状態で馬に乗ったり走ったり出来るわけ無いだろ~?

 馬だって生きてるんだからさ~、驚いたり怯えたりしてやらためったら走りまくる事だって有るじゃん?」

「まず走る事に慣れさせてからっ――」

「慣れるよりもまず体験だ! そらっ、いっくぞぉ~!!!」


 ヤゴも並んで馬を走らせる。こうなると俺だけが速度を落とすと彼女も速度を下げなければならないので、もう自棄だとそのまま馬を走らせた。だいぶ遠くに町が見えるが、屋敷がちょっとした丘の上にあるから錯覚で遠く見えるだけかもしれない。

 狙撃だったか行軍だったか……見上げるときは近く見え、見下ろすときは遠く見えるんだったか。

明暗だの周囲の色合いに対して浮いて見えるかなじんで見えるかとか、色々有った気がする。ミル公式計算などで対象と己との距離を測るとか、色々学んだんだったか……。


「うはっ――早い早い!」

「これでもまだまだ抑えてる方だぞクライン! こんなの小走りだっ!」

「よ、よしっ。ならもっと早くだっ!!!」


 馬を加速させ、ヤゴと並ぶ。そして彼女の横顔を見て、強がるように笑みを浮かべて見せた。すると彼女も同じように笑みを浮かべる、それは楽しい。風を全身で感じ、その速度と危険を身体で味わう。騎兵や貴族に乗馬が必須なのもなんとなく分かる、これは二つの足で地面を歩いたり走ったりしているだけでは決して味わえないものだ。

 鞍から腰を浮かせ、立ってみた。するとさらに楽しく思え、これで落ちたら酷い怪我をするんだろうなと思いながらも暫くそうやって揺れや流れる景色を楽しみながら町へと向かっていく。そして馬に乗っていただけの俺は、街についた頃には幾らか汗ばんでいた。

 当然だ、ヤゴによって「はい、右に方向変換! 次は速度を緩めて反転!」なんてやらされていたのだから。そうやって大体一時間くらい訓練をしてから町に入ったのだから汗ばんでいても仕方が無い、下手をすれば俺の摩り下ろしが完成する。


「いやぁ、楽しかった!」

「良いね。昔を思い出す良い乗りっぷりだったよ!」

「ありがとう。それで、これからどうしようか?」


 町にまでたどり着いたのは良いものの、そこから先は特に何も決めてなかった。馬からとりあえず下りてみたらふらつく、なんと言うか上下の振動に身体が慣れてしまったせいで足腰が動かぬ地面に違和感を覚えているかのようだった。

 それに対してヤゴは厩舎で馬のつなぎ方を教えるついでであっけらかんと言った。


「え? 休憩だよ。どうせ足腰ガタガタだろうし、これ以上やったら明日からまた手合わせできないじゃん」

「あぁ、そうなんだ……。まあ、急いでも仕方が無いからね。休めって言うのなら休むよ」


 軍隊や自衛隊は訓練してナンボだが、しっかりと休む事もまた訓練である。常日頃からキッカリ六時に起き、駐屯地ごとに差異はあれども十一時位には消灯で就寝。課業時間中は準備、訓練、整備と言う行動前、行動中、行動後の三つを行っている。だが、ただ負荷を与えるだけでは人間壊れてしまうので、与えた負荷の余韻を残しながらどんどん人として強化していく――みたいなイメージで良いだろう。それに、訓練で疲れ果てすぎて、いざと言う時に疲弊した兵を出せば瓦解なんてあっさりする。だから肉体的な疲労はもちろんだが、精神的な疲労もしっかりと管理する。それに関しては色々と事件があったことも関係するのだが、割愛する。


「それで、休憩は良いとしても――まさかここで棒立ちって事は無いよね?」

「まっさか! 町の中を歩いて~、何か飲んだり食べたり?」

「あの……、さっき昼食べたばっかりなんだけど。と言うかまだお茶の時間には遠いよ」

「だってさ~、お屋敷の食事は量が少なくてお腹空くしさ。クラインは食べなくて良いから汗を流したぶんだけ何か飲みなよ」

「あぁ、それだったら……」


 強制的に食事とか言われると吐き気がしてしまいそうだけれども、任意なら水分補給程度で良いかな。それに、彼女についていけば多少マッピングも出来そうだ。クラインが来れば俺もただの客人か付き人扱いになるわけだし、少なくとも肩肘張った事をしないで済むだろうから外出も出来るだろう。


「町の中を案内してもらえるかな?」

「い~よ~。さ、しゅっぱぁつ!!!」


 元気いっぱいなヤゴに連れられて俺も一歩くらい遅れた感じで並んで歩く。流石に服装は訓練等に向いている、幾らか装飾や煌びやかさ等の見栄えを抑えたものになっている。ヤゴは若干露出の多い”女冒険者”といった感じの様相だし、俺は俺でちょっと育ちが良いのかな? 程度の格好だ。けれども気を抜いてはいけない、公爵の領地だからこそ言動に気をつけないと変な風評被害に発展しかねない。

 剣の位置を確認するように触れ、それから服の上から首からぶら下がっているドッグタグに触れた。名前も認識番号もそのままで、ヤクモと呼ばれる前の本名だが誰にも読めないので関係のない話だ。

 ただ、やはり知らない場所だからと言う事もあってか周囲への興味が自分でも驚くくらいにあった。そういえば学園を包み込むように存在していた街はさらに規模がでかく、色々ありそうなものだが――大通りと言うか、主要な箇所以外を俺は知らない。だからなのか、民家だの道で遊んでいる子供だの、親の手伝いで坪を持っている少年や果物を持っている少女、全員が全員顔馴染みみたいな様相で歩き、話をし、係わり合い、生活をしていると言う光景が少し珍しく思えた。


「なんというか、落ち着いたところだね」

「そうかな? まあ、最近じゃ学園の方で襲撃騒ぎがあったみたいだし、それに比べたらまだ落ち着いてるね」

「――なんか引っかかるもの言いだなぁ」

「ん~、何て言えばいいのかな……」


 ヤゴが頭を搔いて何かを言おうとしている傍ら、騒がしそうにしていた建物から数名の人が出てきた。そして何事だろうかと思えば、どうやら数名で一人を”カモ”にしているようだ。


「イカサマ野郎!」

「イカサマなんかしてねえよ!」


 どうやら、何かしら賭け事をしていたらしい。そして始まる殴り合い。そこは酒場だったのか、窓や扉から野次馬が集まる事集まる事。そして中にはどっちが勝つかなんて事で賭け事を始める人までいて、どうにも民心と言うか治安的に問題があるんじゃないかと思えた。


「迷惑だなあ……。ヤゴ、あんまり関わらないように――

 ヤゴ? ヤゴぉぉぉおおおッ!!!!!?」


 振り返ればヤツが居ない。クラインだったらどうしただろうかと戸惑ったのだが、その答えを出すよりも先に飛び出したのはヤゴだった。一方的にボコられて居る人と相手の間に入り、即座にその胸倉を掴んで三十cmは身長差がある大の男を一回転で投げ飛ばしていた。

 そして俺は、理由を思いつくよりも先にその騒乱へと混じっていく。人ごみを掻き分けてヤゴのもとへとたどり着いたときには、周囲を取り囲んでいた取り巻きも加勢した乱闘へと変わっていた。だが、乱闘といえばある程度は”乱捕り”と言うものでなれている。背中や横っ面を殴られたりしながらも一人ずつ確実に行動不能にしていった。


「ハイ、ハア……。まったく、こんな事をさせないで欲しいなあ」

「あはは、まるで昔みたいだ。けど、最近こんな感じなんだよ。貴族の間で考え方、って言うのかな? その違いで対立が激しくなって来てるみたいで、こうやって町の人じゃない人が騒いだりしてるんだよね。喧嘩も増えたし、時々やらかすしさあ」

「あ、ありがとうな二人とも。くそっ、賭け事なんかするんじゃなかった……」


 周囲はすでに解散しており、負傷した相手を椅子に座らせて落ち着かせているところだった。相手は殴る蹴る等の暴行では有ったが、そこまでされるとは思っていなかったのか殴られたショックでヤゴが止めに入るまでに相当一方的にやられていたようだ。なお、手出しした相手はすでに兵に任せて連れて行ってもらった後である。その時に顔を見られて驚かれた気がするが、もしかするとクラインだと認識されたのかもしれない。


「賭け事なんてしたって儲からないからまじめに働きなって!」

「ヤゴ。そりゃお前が仕事の金を全部賭けて全部持っていかれたからだ。

 当たる時は当たるし勝つときは勝つ。実際、俺は儲かったんだ」

「それは殴らたり蹴られたりしても取り返せる位の儲け? 奥さんに叱られるよ」

「うっ、そいつぁ困るな……」

「――手当てするので、ちょっとおとなしくしてください」

「あ、あぁ……」


 こっそりと詠唱を省略した呪文名のみでの魔法を発動させ、怪我らしい怪我を全て治してしまう。ヤゴとのやり取りで分かった事だが、どうやら時折魔物退治だの熊や猪を狩に行く時の面子として何度か一緒になった事があるらしい。木こりと兼業のような物らしく、どちらかの仕事が出来ないときにもう片方で~と言う風にして収入を得ているのだとか。ヤゴはそうやって面識が広いらしく、頼られたり子供の憧れの対象になったりとだいぶ評判のようだ。


「治療終わりました」

「魔法……。悪いが、治療費は払わねえぞ。お前が勝手にやった事なんだからな」

「元々取るつもりは無いですよ。勝手にやった事ですから」

「へへ、クラインはやっぱ優しいな」

「くらっ――!?」


 名前を言ったとたんに相手はギョッとした表情になり、俺も驚いて後ずさってしまう。男はその場に素早くひれ伏し、土下座のごとく深く深く頭を下げた。


「いっ、今のは口が滑っただけなんです! どうか、どうか堪忍してくだせえ!」

「ま、待ってよ! しー! しーッ!!!

 ――ちょっと、まだ訳ありで元気だって言えるような状態じゃないんだ。だから、ここに居るのはただの魔法が使えるどっかの人――良いかな?」


 無理やりの説得ではあったが、何とか理解と納得を強制した形で終わらせると再び椅子へと座らせた。


「ああいう手合いって、最近多いの?」

「ええ、そりゃあもう。若い女に絡む奴も居れば、財布をチョロまかす奴も居る。

 前まではそういう方向だったみたいなんですが、最近じゃイチャモンつけて喧嘩をするというのも珍しくなくてそれでも手出しで捕まえても酒の席だったとか、賭け事だったとかで傷み分けだったんで直ぐに釈放されてたんですが、今回みたいにしょっ引かれるのは初めてでして」

「学園の方で襲撃があって、それを稼ぎ時と思って出てきたみたいだけど、それを逃したって居座ってるんだよ。けど、仕事をする訳でもないのに毎日好き勝手やってる。やになるねえ」


 何だろう。思っていたよりも、この世界の治安は良くないのかもしれない。幾らか沈み込む気持ちを隠しながら、領地の事で聞ける事は聞こうと思い、一杯の酒を頼んでその場で話を始めた。ヤゴはお酒が嫌いだと言うが、飲む事に対して別に怒ったりはしないようだ。隣で料理を頼み始めた彼女をよそに、運ばれてきたエール酒のコップをぶつけて俺たちは乾杯をした。



 ~ ☆ ~


 ヤクモがクラインとして町に辿り着き、酒を頼んで乾杯した頃。公爵の治めるデルブルグ領に接する領地を治める辺境伯は執務室で退屈そうに仕事をしていた。領民からの陳情、町長からの嘆願、部下からの報告などなどが積み重なっている中から必要なものだけを分別し、それ以外を『見なかった事』として処分する作業の途中だった。

 シャルダン地方を治める、ニコル・マルグレイブ・フォン・シャルダンと呼ばれる彼は、決して暗愚な人物ではなかった。代々から授けられた領地を良く治めており、父がそうしたように彼もまた同じように領地を良く治めた。しかし、少しずつその領地運営に歪が生じ出し、民や長等が彼の下へと”お願い”をするようになったのだ。 

 最初は僅かな増税だった。領地の為に、発展のために新たな支出が要ると説いたが為に誰もが納得し、理解し、そして絶えて来た。それは、十年ほど前に彼の親が亡くなり母親が離れで隠居生活をし始めた頃からだ。彼の話では灌漑工事をする事、川が決壊しないように補強する事、森の近くへと人を入れて開拓するという事など――聞けばそれらしく聞こえる物事ばかりだった。

 しかし、実際にはそうやって得た金の大半は己の懐へと消え、一握りの金のみで話を進めようとしているから進む訳が無い。そして五年ほど前を皮切りに、何かと理由をつけてジワリジワリと税を高めていった。外部から来る商人に対して荷物の総量で税を取るようにしたり、小さな罰であっても衛兵によってしょっ引かれて罰金を取るようにしたり、その罰金を重くしたり等としてきた。

 だが、そうやって懐に隠した金が何に使われたのかを知るものは少ない。あまり懐に入れては危ういと何かしらの形で民へと循環させる事で、変な噂をされる事を抑えていたからだ。上がった税の分、割高ではあるが籾を配布し借用と言う形で利子を低めにしつつ返済させるなど、目を背けさせる事にも十分注意していたからだ。

 そんな彼の居る部屋に、特徴的なノックの仕方をした後で入ってきた人物が居た。その人物は体格や体系を覆い隠すようにローブを着込み、顔の特徴を把握させないために鼻までフードを被っていた。本来であれば怪しむはずの相手に辺境伯は入るように促し、何用かをたずねる。すると相手は執務の机の前まで来るとボソボソと言葉を発する。

 その言葉を聴いた辺境伯は退屈そうにしていた顔を一変させ、驚愕と不信を交えて相手を見た。


「それは真実か」


 その言葉にローブの男は頷き、さらに幾つかの言葉を返す。すると辺境伯は楽しげに笑みを浮かべると、彼に任務の継続と追加の費用を約束させると退出させた。そして椅子から立ち上がると部屋の中を癖のように歩き回り、考え込んでから窓の外を見た。


「ふ。ふふ……。マティアス殿、どうやら私にも運が巡って来たようです――」


 マティアス――マティアス・ダーク・フォン・ライラント。彼の呼んだ人物の相手は既に世に存在しない人物だった。オルバの父であり、魔法使いは特別だから何をしても良いという考えを広め、そして死して領地を失して名に泥を塗った人物――そしてオルバの父親だ。

 ――辺境伯、ニコルは暗愚ではなかった。むしろ理想家であり、夢想家とも言えるほどに現実を直視し続けていた。彼が何を考え、何を思い、マティアスの名を呼んだのかは誰も理解できない。


「マリー! 十二英雄が一人よ!」


 そう叫ぶと、部屋の隅にジワリと闇が出現した。まるで水に一滴垂らした絵の具のように、空間にその存在をぼんやりと出現させてゆっくりとその姿が鮮明になる。そしてその輪郭でさえもハッキリと見て取れるようになってから、そこに一人の女性が立っているのを辺境伯は確認した。

 ――陰鬱な表情、そして幾らかボサボサな長髪。目を半ば隠してしまうくらいの長さでも、彼女が暗い表情をしているのは分かる。まるで世界を恨み、全てを嫌い、それでも無理やり生かされているが為に苦痛とでも言いたげであった。辺境伯の見慣れぬ服を外套のように着、開かれた所から下にはシャツワンピースを着ている。起伏の少ない体系で、その背丈も決して高いとは言えず、髪も幾らか地に着いているような有様だった。


「――なに?」

「出番だ。マティアス殿が果たせなかった望みを私が叶える。

 その為に働いてもらう」

「――好きにすれば」


 そう言って彼女は会話を打ち切るが、その目は辺境伯に向けられている。表情は一切変わらず、ただ従う事しかできない事を示している。


「――どうせ、私は逆らえない」

「そうだとも。マティアス殿が召還し、その契約を私が引き継いだ。

 そちらの実力の程は知らないが、かつて人類を救う為に振るったその力を発揮してもらうぞ」

「――……、」


 彼女はその言葉に肯定も否定も示さず、そのまま再び輪郭がボケていき、闇に飲まれるように消えて行った。後にはそこに存在し無かったかのように誰も居らず、それを見てから辺境伯は再び目線を窓の外へと向けた。富むはずの領地は少しずつその課税によって衰退している、けれども彼は「あと少しだけ」とそれを強いていた。

 両の目蓋を閉ざし、そして一人の人物の姿を思い描くと搾り出すように洩らす。


「エリー……」


 その声は誰にも聞かれること無く執務室の中で消えていった。ただ、その部屋にある肖像画に描かれた人物――女性の絵だけが、それを聞いていたようだ。





- 作者より -

閲覧及び愛読ありがとうございます、旗本蔵屋敷はたもとくらやしきです。

今回は、読んでいただいている方々に聞きたい事が有りこうやって末尾にメッセージを追加させていただきました。

前は執筆完了次第、今は予約投稿と言う形で朝の八時か午後の六時に投稿するようにしております。

しかし、その予約投稿も二つ存在すると読者である皆様が日に二度も確認しなければならないと思い、こうやって少しばかり前に出させていただきました。

最新の活動報告で構いませんので、

①朝の八時のみ

②午後の六時のみ

③今までどおり、完成した時間によって近い時間

の三つから、どれが皆様にとって都合が良いかをコメントください。

〆日は来週の金曜日、十一月二十五日の23:59までとさせていただき、その時点で多いものを採択して今後の投稿時間にさせていただきたいと思います。


あと、投稿してから誤字脱字なども結構発見したりするので、時間を見てそれらの修正を行いたいと思っています。長々とお邪魔しました、そしてこれからも『元自とチートと異世界と(仮)』を読んで頂けるように頑張りますので、お付き合いいただければ幸いです。

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