36話
自分がどう思われ、どう見られているかを考えない奴はどこに行ってもやっていけない。
それを聞いたのは新隊員教育隊で、同じ教育中隊の別小隊、とある班員が指導を受けているときであった。新隊員として班員は必ず一人が何かしらの役割を担う、それは伝令業務だったり、あるいは営内班他隊員の健康管理だったり、指示指揮を任されたりと色々だ。
俺が営内班の一人の体調に関して報告しに行った時、事務室で怒られている隊員がいたのだ。理由は外出時に制服を着用する義務が有ったのだが、外出時に鞄に忍ばせた私服に着替えて風俗に行ったことが原因だ。後で理解したが、制服の着用を義務付けるのは「自分がどこに所属していて、どのような身分なのか」を意識付けるためだ。自衛官として、自衛隊に所属するものとして間違ったことが出来ないし、見っとも無いことが出来ないように自制の作用を齎すのだろう。
なお、その人物は数日後辞めて出て行った。家業を継ぎたくなくて自衛隊に逃げ込んできたらしいが、その自衛隊から逃げて家業を継ぐ事にしたらしい。二日目からハイポートと腕立て百回の反省、屈み跳躍百回とか反省でやらされてる上に食事は良くも悪くも質素すぎて辛かったとか。俺はそもそもほぼ外人みたいに生きてきたハーフなのだが、日本食というものを殆ど食べた事が無いので鬼の班長ですら「お前、家じゃマトモな食事が出来なかったのか……?」と哀れまれた。
さて、カティアと読書タイムを送っていた俺たちは昼になって食事に呼び出された。そして公爵が上座に座り、そこから俺、カティア、ミラノ、アリアと下座に下りていく。カティアは使い魔だから末席かなと思ったけれども、時期当主であるクラインの使い魔である彼女を離した位置に座らせるのは宜しくないと言うことでこうなった。
「我が息子よ。そう遠くないうちにヴァレリオ家の者とオルバ殿が来られる」
「あの、えっと──はい?」
「元々決まっていた事でな、隠れているように言うことも難しいだろう。
幾日か滞在し、そして帰る事になっている。オルバ殿も日は違えど、此方に来るのは同じだ。
私は当主として、政務や軍事に関して色々と語らねばならない事があるのでね」
「政務……、軍事……」
「──まあ、色々有るのだよ。それに、軍事演習をして互いの兵の練度を見て、そして更に強い軍を作るために、時折こうしてやるのだ。
見たいかな?」
「みっ、見たい! ──です」
軍事演習とか、そんなもの垂涎物だろ。どんな風に軍隊が運用され、部隊が動かされるのかがとても気になるし、それを知っておく事で俺が死地を逃れることだってあるだろう。貴族絶対主義で軍隊が運用されるとしたら──数千ぐらいが妥当かもしれない。トップダウン《上から下へ》が当たり前なのだが、結局それを運用するに当たって指示を行き届かせなければならないので、でかすぎる規模は遊兵が出る上に、狙われれば脆い。しかも遊兵とは言え味方なので、見捨てれば響く、沢山やられると指揮が下がる、かといってフォローしようとすれば薄くなるしでろくなことがない。
……冷静に考えると、俺とカティア──それとクラインは魔法によって互いの情報を共有し、情報を無線機の如くやり取りが出来るのでどこの軍隊よりも密度の高い作戦行動が取れるんじゃないかと考えてしまう。情報速度は即ち軍隊の行動速度に関わるし、行動速度に関わると言うことは前進も後退も撤退も作戦の変更も中断も即時だ。とは言え、その為には兵士の質を高めなければならないので、単純な指示への反応速度を高め、連帯感や更に小規模な部隊の作成と指揮者の作成なども必要だろうが。
色々とワクワクしていると、公爵は笑みを浮かべているし、ミラノは額に手を当てているし、アリアは苦笑している。カティアはあまり反応しないけれども「それが必要なことなんでしょ?」と言ってくれるだろう。
「約束したからね、望むのであれば連れて行こう」
「やった!」
「ただし、それまでに馬と剣くらいは覚える努力をしなさい。
馬に乗れるだけで目線が高くなる、そして私達は危険を感じたなら優先して逃げなければならないのだから」
「そう、ですね……」
一瞬「それは違うよ」と言いそうになったが、時代背景を踏まえればそれは正しいのだと理解する。自分達を指揮する者が倒れても継続して戦闘が行えるようになったのは近代以降だろう、それまでは指揮する者がイコールで兵達の大将だった。なので貴族が討たれるか囚われる、あるいは逃げ出せば兵達は蜘蛛の子が散るように逃げ出さなければならない。
けれども、近代以降から兵の最小単位がどんどん作られていき、情報伝達の確立と貴族制などの終焉から「自分を指揮する者」と言うのが、死のうが居なくなろうが新しく出てくるようになった。その場で階級が高いものが跡を継いで部隊を指揮する、それは班レベルでの話でもそうだし、更に幾つか規模をでかくした分隊、小隊、中隊規模でも同じことが言えるだろう。そもそも、徴発されたわけではなく義務として、あるいは志願してなった兵士なのだからその多くは再編や組み込みで再利用される事だろう。
軍事のあり方を今の発言から幾つか汲み取って頭が痛くなる。けれども、一瞬「兵士が幾ら死のうとも構わないのか」と沸騰しかけた俺は指揮者には向かない。冷徹で感情的にはならない者、それこそがきっと何百、あるいは何千と兵を指揮する者に求められる事柄なのだろうから。
「息子よ。どんな立派な心構えをしていようとも、どれだけ立派な領地運営をしようとも──私達が討たれれば全てが無意味になるのだ。
死んだ兵を裏切らぬ事。それは、生き延びて少しでも長く地を富ませ、守り、国を確固たるものにする事だ。もっとも、最近では幾らかそれも難しい話だが」
「というと?」
「──貴族至上主義とでも言うのだろうか。我々はただ導く立場であり、国や民を守る盾であったはずなのだが、神に選ばれたと言う宗教を下敷きに自らが特別であると言う輩が増えているのだよ」
あぁ、出たよ至上主義。白人至上主義が多分一番分かりやすい喩だろうけれども、大体何かしらを指して”これは最も優れており、それ以外は全て劣っている”という考えだ。なお、その至上主義が絡んだことで大問題となったのがナチズムである。同盟国であったはずの日本も
ドイツからは有色人種として下に見られていたとか。
それと同じように、魔法使いであり貴族であることが特別であると言う考えが生まれてしまったのだろう。そこから考えられるのは、搾取や圧政、理不尽な要求と領民への無理強いなどだろうか。頭の痛くなる問題だ、そういった奴らは思い上がりが行き過ぎて「邪魔だから排除しよう」という思考に行き着いてしまうのは想像に難くない。それこそ、危惧していた”暗殺”というものが現実に起こりかねない。公爵の発言を聞くに、狙われかねないのはクラインやミラノ、そしてアリアだろうか。それに連なって俺とカティアも狙われかねない、なんとも面倒なことか。
「そう言うのは、どうにか──出来ない、ですよね」
「出来ないな。国に反逆の意志があると言うわけでもなく、表向きは不自然なほど綺麗に取り繕っている。それこそ、先の物資支援にかこつけて横領や溜め込みを誤魔化してしまうくらいにはな」
「──……、」
酷くいらいらした。俺が出会った人物が公爵でよかった、真っ先に駆けつけて街を救おうとしてくれたのがこの人で良かった、ミラノ達の親がこんな立派な人で良かった、そんな立派な人の下に居られた俺は幸福だ。
けれども、だからと言って──そういった貴族の領民である人々が不幸であって良い理由にはならない。けれども義憤の如く俺が激情に駆られようともただの偽善にしかならない、解決する手段を持たないのだから。やらぬ善よりやる偽善とは言うだろうが、この場合働きかけなければならない相手はそういった貴族であり、救うべき相手が領民である以上──挿げ替えや領地の吸収でもしなければそれは達成できない。
「同じ国に使えている貴族だと言うのに、何故……」
「考え方の違いだよ。三つの公爵家と国王は、遡れば伝説の十二英雄に繋がっている。その直系であるからこそ自己を戒め、民の為に存在すると言う理念を受け継ぎ、今日まで代々やってきた。
しかし、公爵家ではない貴族の多くは分家であったり、魔力を持たぬ者と成した子が跡継を継いだりしてきたのだから、そういった意識は薄いのだろうね。
──オルバ殿の家、ライラント家が半ば取り潰しに似た扱いをされたのは決して小さくない。今までの歴史の中で……ふむ……そういった扱いを公爵家が受けるのは初めてなのだ。
故に、歴史と言う我等の土台が揺らいでいると考えてくれて良い。かつての様に我ら貴族が民衆を導き、守る役割であった時代も過去になりつつあると言う事だろうがね」
そう言って公爵はため息を吐いた。その姿は歳相応に見え、普段の優しい口調と穏やかな表情からは見出せないほどの疲労感や疲弊感がにじみ出ている。もしかするとワリを食わされているのかもしれない、そして俺は──正しいことをしている人が悪しきように言われるのは好きじゃない。と言うか、嫌いだ。
「父さん、僕にも何か出来ることは無いかな」
「うん?」
「確かに今は役に立てないかもしれない。けど”僕にも”出来ることがあれば、手伝いたい」
正しい事をしているのに、それを自分の利益や欲の為に害され──さらには殺されても良い理由にはならない。既に危機が設定されている以上、避けられないと判断した。公爵が折れるか、その貴族達を排斥しなければ平穏など無いだろう。
じゃあ、異国に逃げます? なんて考えたけれども、どこも似たようなものだろう。ツアル皇国は隣国のヘルマン国と一緒になってかつての魔王軍の残党と戦争状態だし、神聖フランツ帝国はなんか「免罪符を買えば救われますよ」みたいなイメージしか湧かないと言うか宗教色が強いらしいし、じゃあユニオン共和国は? と思ったけど、共和制──というか、共産主義の匂いがプンプンしていて滅茶苦茶嫌だ。自分の財産すらもてない上に、変に目立ってあらぬ嫌疑を密告されて秘密警察に捕まるだなんて御免被りたい。
生きると言うことは、戦わなければならないと言うことだ。もし己の所有する権利や財産等々を守るつもりが無く差し出して生きると言うのなら、それはとても惨めな生になるだろう。それに……
なんだかんだ、親しくなったのだ。愛着もある。
「──あぁ、そうだな。考えておこう」
クラインとしてこの場に居る以上、公爵は明確に肯定も否定もしない。あとで俺がヤクモとして行動出来るようになった時、公爵は何か考えてくれるだろう。俺は、嫌だ──
『人殺しの訓練をしている人に助けられたくない』
正しい事を、しているんだ。
『日本に軍隊は要らない!』
なのに、何で石を投げられたんだ? 俺……。
『災害派遣にて、まだ二十四名が行方不明なんですよ? ちゃんと働いてもらわないと──』
どうしようもない事だって、あるのに……。
『ご両親がかわいそうだと思わないの?』
そんな事──
「ご主人様、顔色が宜しくないようですけれども。もしかしてお加減が宜しくないのかしら?」
思考の海に沈んでいた。カティアは覗き込むように下から俺の顔を見ている、しかし声をかけるよりも先に気遣うふりをして肩を強く握りやがった。それでも痛みはそこそこで、逆に痛みを感知した事で現実に冷静的に戻ることが出来た。顔を触り、自分の顔が普段よりも冷たく感じた。血の気が引いていたのだろう、熱したり冷めたりと忙しい奴だなと自嘲できるくらいには──正気になれた。
「旦那様、そう言えば──ミラノ様とアリア様をお助けした彼の英雄にはお会いになれましたかな?」
俺の様子がおかしい事を理解し、ザカリアスが話題転換をしてくれた。よほど重い話だと思ったのだろう、少しでも明るく楽しい話題になって欲しいと願っての発言だったかもしれないが、助かった。少しばかり彼を見て軽く手を上げると、軽く会釈される。どうやら彼なりの好意による行動だったらしい、ありがたい話だ。
今度からは少し邪魔だと思わないようにしようと考えながら、公爵が意味ありげに俺を見た。──と言うか、その英雄扱いされてるの俺なんですよね。ミラノとアリアも何だかこちらを見ているし、カティアはそ知らぬ顔をして食事に戻っている。コイツ、俺が緊張で味の大半を理解できないのを知っていて楽しんでないだろうか?羨ましい限りだ。
「──ああ、会ったよ。休んでいた所へと急に現れたものだから、物凄く驚いていたよ」
「左様ですか」
左様ですかじゃねえよ。あれはガチで驚いたわ。それでも、無難なスタートが切れてよかったけどさ……。
「どのような方なのでしょうか?」
「そうだね。……我が息子と瓜二つの、若い青年だったよ」
「ほう、青年ですか」
「はは、屈強な男性を想像したかな? けど、そうじゃなかった。同じ背丈、同じ髪型、似たような事を言うけれども思考や価値観が幾らか違う別人でね。騎士になり、報酬を我が家、同じく子を救われたヴァレリオ家から貰ったけれども別に喜んだりはしてい無かったよ」
「ほう……それは、また」
変わった人ですな。その言葉が地味にグサリと来る。確かにそうだろう。元々身分無しどころかこの世界で生を受けてない上に、使い魔として当初は存在していた。なのに、今ではその使い魔契約ですら無くなり、騎士階級になっている。しかも街の中では人助けをしたことで一握りの人には存在が知られているし、デルブルグ家とヴァレリオ家の子息を助けた事で覚えは良いだろう。
冷静に考えて、そんな人材が居たら怪しむか欲しがるかのどちらかしかないだろう。んで、接触してみたら「末端とは言え貴族階級とか息苦しいし肩身狭いんで嫌だわ~」とか「報酬貰ったけど使い道が無さ過ぎてあっても困るわ~」とか言ってたら、公爵家としてみたら「何だコイツ」となるのは当然だろう。
ここで執事も変に相槌をうって話が拗れるのを嫌ったのだろう、それ以上何も言えずに公爵からミラノとアリアに相手を変えた。
「ミラノ様とアリア様は、どのように見ましたか?」
「信用できる人よ」
「え?」
ミラノの発言に俺が声を上げてしまい、ミラノに睨まれてしまった。萎縮し、浮かしかけた腰を下ろすとカティアが横目で此方を見ていて、それに気付くと”ザマァ”と言わんばかりにニヤリと笑った。こいつ、大分良い性格してるぞ……!
「コホン──。とは言っても、私はあの人の事を何も知らないから、信用しすぎるのは難しいけど。
けど、その思考や有り方だけは信じても良いと思ってる」
「それは何故かね」
「恩を優先する事、指示には納得の行く理由であれば従ってくれること、例え自身の命が危ぶまれる状況であっても逃げ出さずに何とか対処しようとしてくれること、そして──自分で判断して、何をしたらこれから役に立つかを考え出して、自ら努力する姿勢かと。
──あの人は、兄さんと同じく無の魔法が使えました」
「ほう」
「なんと……それは、真ですか?」
「えぇ。けどね、彼は自分に一番必要なのはまず戦い方を学ぶと言うことと、魔法がどういうものか分からないと言うことから魔法を優先しなかった。その結果と思うけれども、私達が救われた時に使い慣れない魔法を無理に行使しようとする事なく、確実に進んでくれたの。
魔法に使い慣れた私達でさえ、実際に闘うとなった時に”何の魔法であれば状況に合うか”なんて考えたことが無かった。状況に合わせ、固執する事無く、正しいと思える手段を取ってくれる。あの時も、”安全”と”確実性”を優先したが為に自分が犠牲になる事になった──。事故かも知れない、けど彼がもし私達の安全を最優先にしてくれていなければ死んでいたのは私かアリアだったかもしれないし、アルバートやグリム──それと、マルコの誰かだったかもしれない。或いは、ぜんいんだった可能性もある」
そうつらつらと述べるミラノを見て、少しだけ心が痛かった。何だろう、褒められたことが無いと言うか、褒められなれてないからだろうか? 嫌な動悸もする。心拍数の上昇、高揚と言うよりも変な緊張、少しばかり汗ばんでる。一番近いのは「空砲が装填された野戦地で、仲間の先輩に銃口を顔面に至近距離で向けられた」あの時に似た感じだ。後でドッと汗をかくかも知れない、食事をしているフリをして回復を待とう。
「彼は、自分の信念や信じた事には忠実だと思う。ただ、さっきも言ったけど指示に対して理由が示されなかったり、納得がいかない時は不満を率直に言うわね。
だから、私は愚かにならずに居られるとも言えるけど。全てを納得させなければいけない訳じゃないし、時には強制させなきゃいけない。そういう意味では──そうね、父さんのように下に誰かがつくと言う事を少し理解できたかも」
「だとすれば、彼の存在は君にとっても良い事なんだろうね」
「ごほっ、ごほっ!?」
俺は、何時もの様に逃げ癖が発動した。何だか居心地の悪さを感じ、先ほど不調だと疑われたことを利用して体調が優れないと言う事にし、食事もそこそこに中座して部屋に戻ることにしたのだ。
「息子よ、大丈夫かい?」
「いえ、その。少し……具合が悪いかなって──」
「ふむ、そうかね? では部屋に戻ってゆっくりしなさい。ザカリアス、メイドを一名部屋に。何かあったら私に知らせるように」
「分かりました。クライン様、ご一緒します」
「あ、ありがとう……」
ザカリアスに付き添われ、カティアを引き連れて俺はそのまま部屋へと戻っていった。そしてミラノの言葉を思い出し、更に変な動悸がして吐きそうになる。忘れよう、何も聞かなかった。ミラノが俺を褒めるなんて──そんな事は無かったんだ。ヤクモに戻れば、また俺を理不尽に叱り、理不尽に殴り蹴り、理不尽にやる事を増やすだろう。
そう考えると不思議に落ち着いた。そうだ、認められる訳が無い。俺なんて、そんな立派な人じゃないんだ。そう考えながらベッドに潜り、縮こまるように丸まりながら枕の柔らかさに意識を遠のけた。眠りにつくその時まで、カティアが傍で本を読みながらも寄り添っている。意識が無くなる少し前から──俺の頭を撫でていたのが、印象的だった。
~ ☆ ~
クラインを演じていたヤクモが去った後も、幾らか英雄であるその人物に関しての話は続いていた。公爵とミラノは薄々では有るが、ヤクモは自分の話で居心地が悪いので去ったのではないかと思っていた。なので、その分本人が居ない場で全てを語ろうとしていた。
「戻ったか、ザカリアス。容態はどうだった?」
「それが、具合が本当に悪そうでしたね。吐き気を催し、汗を幾らかかいているようでした。
──久しぶりにまともな食事をされて、身体が驚いたのでしょう」
「ふむ、気がかりだが、大事がなければ良いが──」
そう言って公爵は、本当に気がかりそうな表情をしてみせた。事実、今の所実の息子であるように振舞っているので、公爵自身もそうせざるを得ないのだ。しかし、褒められていたはずの人間がいきなり体調を崩したという事は、公私関係無しに心配にさせるものでもあった。
「──それで、先ほどの話の続きを聞かせて頂いても宜しいでしょうか。
此度は別件で来られていないようですが、いつかは来られるかもしれません。
その時に失礼が無いよう、色々知っておきたいのです」
「だって、姉さま」
「もう、仕方が無いわね……」
そう言って、ミラノは彼女なりにヤクモとの生活や、今までの中で見たこと、聞いた事、知ったこと、理解したこと、こうかなという憶測や考えも幾らか取り入れながら語る。そして、その場をさっさと立ち去ったのが正解だと言わんばかりに──やはり、肯定的な発言が多かった。その場にヤクモが居残っていたのなら、更に状態を悪化させて寝込んでいたくらいには褒め要素が多い。
「しかし、そうやって話を聞いて纏めると。些か──」
「欲が無さ過ぎる、って言いたいのかしら」
「その通り。あまりにも欲が無さ過ぎる。少なくとも金は生活を保障してくれる、地位や身分は一目置かれるようになるし、発言が通りやすくなる。けれども、金品や身分よりも──ふふ──ノンビリとしたいと言うのが望みとはね」
「言葉が分からないから勉強して、何があっても怖くないようにと自己鍛錬に励んで、頼まれたからって戦い方の指導をして、言ってる事とやってる事が矛盾しすぎ。
ノンビリしたいって言ってるのに、朝早くから走ったり身体を鍛えたりしてるのよ? 最近じゃ夜寝るまでずっと字の勉強と礼儀作法、魔法の練習と読書ばっかりしてて……」
「まるで、その──クライン様に、似た方なのですな」
執事は呻く様にそう漏らした。彼の頭の中で、外見上の情報が全て似ていると言う風にイメージが作り上げられ、そんな人物が「ノンビリしたい」と言いながらも朝早くから夜遅くまで何かしらの訓練や勉学に明け暮れ、読書などをしているところを想像したのだ。その姿が、そのまま若い頃のクラインで描かれたのだ。
剣の扱いに不慣れでコッソリと訓練していたこと、礼儀作法で極度に緊張して部屋で練習していたこと、魔法の練習の為に書物を読み漁り部屋で失敗して部屋が凄まじい事になった事、線が細く頼りがいが無さそうだと言われたのを気にして教わった鍛錬方法を朝早くや夕方に実施していたこと等々──。本人は隠し通しバレていないつもりだっただろうけれども、屋敷の全員が知っている事だった。そして欲は無さそうでノンビリしたいと言いながらも、誰かの為に行動し続けていた事も──全て。
「しかし、その。何と言うか、私の考えすぎかもしれませんが。”脆さ”を感じずには居られません」
「──ええ、その通りよザカリアス。今まで彼は、不満を述べたりする事はあっても反発はしなかった。やると決めた事や、やるようにと決まった事をすべて抱え込んでる。
上手くやれなかった私の責任だし……、私もどうしていいのか分からなくて──」
「……成る程、あの時の繰り返しになるんじゃないかと怯えているわけだね?」
そう言われたミラノは、ゆっくりと静かに頷く。認めたくない、けれどもそう言ったからには認めなければならないと言った様子で。アリアは、その会話には一切混じらなかった。ただ寂しげに、悲しげに俯いて薄っすらと笑みを浮かべているだけで、執事はそれに気付きながらも痛ましく思うだけで触れることは無い。
ミラノが公爵に言われたとおり、誰かの為に何かの為にとクラインは頑張り続けてきた。その裏には、立派にならなければならないと言う表向きの理由も有りながらも──認められたいと言う願望もあったからだ。その結果、浚われたミラノを救うために単身乗り込み負傷している。今現在この場に居ないのは、それが理由なのだ。そしてミラノは、似たような在り方をしていたヤクモを知らず知らずのうちに甘やかしていた。それは徐々に、けれども顕著に。かつては四六時中一緒に居たはずなのに、今では用事が無ければ特に放っている。外出も理由と時間を告げて許可が下りれば街に出て行けるし、学園内部でも何をしているかが分かれば特に問題視しなかった。
どうせ悪い事はしない、どうせ必要なことをしている、どうせ変な事をしようとは考えない、どうせ結果的に自分達の利益になる事をやっている。そんな、確信めいた予感がしていたのだから。
だが、今度は自由が出来た筈なのに、その時間ですら独学や訓練にあててしまった。その結果、ミラノは不安になったのだ。そのまま色々なものを抱え込んで、以前のように”誰かの為に”と居なくなってしまうのではないか──死んでしまうのではないだろうかという恐れが首をもたげたのだ。
「午前は訓練してるし、人が居たときは他の人と一緒に戦い方の訓練をしてた。午後は魔法の訓練、礼儀作法の練習、字の読み書きの仕方を覚えるためにずっと本を読んでて──。
なんだろ、何時休んでるのか分からなくなるの。嫌がったりはするんだけど、ちゃんとやってくれるから余計に……ね」
「なら、休みを与えてみたら良い。仕事をさせる為に強制させなきゃいけないのも確かに正しいが、これからも頑張っていけるように休むことを強制するのもまた正しい。
──ミラノ、君が彼を使い捨てたいのなら今のままでもいいかもしれない」
「そんな訳っ! ……ないから」
公爵の言葉に対して反射的に否定するミラノ。けれども思う所があり、尻すぼみに言葉は消えていった。それを見ていた公爵は少しだけ楽しげに笑みを浮かべながら顎を撫で、少しだけ考えた。
「思うに、心配しすぎる事では無いかも知れないけどね。彼のいた場所、世界はどのような場所だったのかは分からない。けれども、文字が分からない、魔法が分からない、国が分からないと言って居たから、彼の欲する娯楽や休みと我々の居るこの場所で得られる娯楽や休みのあり方が一致してない可能性もある。文字通り、何をしていいか分からない赤子のようなものだよ。
だから彼は言ったんじゃないかな? 『酒とお茶を飲みながらノンビリ出来れば良い』、と。これから色々知り、色々と学び、世界を知っていく中で彼が好む事柄や物事があるかも知れない。
それが何なのかは私にも分からないが、与えて良い物なのか悪い物なのか、どのように与えるべきなのかを考えなさい。酒が好きだからと常に与えて酔っ払いにするのが宜しくないように、かと言って無知を好むかのごとく書物を与えないのが宜しくないように。考えて。考えて考えて考えた上で、彼をどうしたいのかを考えなさい
アリアも、彼の事を気にかけてやってくれ。ミラノは直接の主人だから甘やかす事も、優しくする事も難しいだろうからね。その分、君がその役割を担って姉を支えてあげてはくれないだろうか」
長い会話の末に、まさか自分に話が振られるとは思って居なかったのだろう。アリアはビクリと身体を震わせると、ゆっくりと顔を上げた。そしてミラノを見、公爵を見る。そんな様子のアリアを見てミラノはため息のように息を吐き、アリアの頭を優しく撫でる。
「アリア、しっかりして」
「姉、さま……?」
「今まで、学園でも私達は二人で頑張ってきたでしょ。私に出来ないことがあっても、アリアが何とかした。アリアに出来ない事は、私がやってきた。これからも私を支えて」
ミラノの顔を暫く見ていたアリアだったが、少しの間を置いてから「……はい」と答えた。けれども、ミラノと公爵のやり取りを聞いている中でアリアは、話題に上がらなかったヤクモの脆さを思い出していた。
『もう、会えないんだよなぁ……』
深夜の学園で、一人部屋の中でワインをボトルから直に飲みながら窓に凭れ掛かりながらの独り言。その湿った声と鼻を啜る音、そして断続的に聞こえるワインを呷る音。普段はダラっとしていて、けれども何かをするときは常に芯を持っていて、戦いの場になると魔法なんて関係なしにどうしたら良いのか素人なミラノや戦いに長けているアルバートですら口を出させない。
そんな──強いと思っていた彼が、一人で泣いているのを知ってしまった。その理由は分からないけれども、何と無くアリアには想像が出来た。妹が居ると前に話をしていた、弟が居るとオルバが似ていることから予想が出来た、そして両親は亡くなったけれども──妹に子供が産まれた事も、その赤ん坊を抱いた事や成長を楽しみにしていた事も全て聞いた。
ミラノは休みが必要なのではないだろうかと考えたが、アリアはもっと違うもの──。それこそ、生き甲斐となるような何かが必要なんじゃないかと考えていた。今はただ受動的な……”ただ生きている”と言う、生物学的な言い方しか出来ない在り方に思えて。何かをしたい、何かを成したい、と言う能動的な”生きている”と言う風にしたいと思った。
けれども、公爵が言ったとおり「何を求め、何を欲するのか」が分からない以上、今出来ることは無いんだなとアリアは気分を沈めた。
~ ☆ ~
数時間ほど眠ったら、変な動悸や不安は無くなっていた。その代わりに目覚めたら隣でカティアが寄り添って寝ているのに驚いてベッドから落ち、上半身のみ地面に叩きつけられて姿勢的にもダメージ的にも辛いことになった。
ベッドから落下したことでカティアは目を覚ますし、部屋の外で控えていたのだろうメイドさんが突入してくるしで慌しい。メイドさんには執事とお茶を頼み、着替えを済ませベッドを整えるとカティアを起こすのか寝かすのかで軽い問答となり、結局起きると言うことでそれまでフニャフニャしてるのを起こすのに時間を費やす羽目になった。
「クライン様、剣の指南役と馬の指南役は直ぐに手配がつきそうです。
旦那様と話をして、問題がなければ離れに滞在する事になります」
「あ、そうなんだ。早いね、もっと時間がかかると思った」
「いえいえ。むしろつかなければ問題が有ったと申しますか……。覚えておりますかな? 私の孫娘でして、剣も馬もお教えできますが」
孫娘と言われても、俺にしてみれば執事のザカリアスですら初対面だし、更に言ってしまえば公爵の奥さんですら初対面なのだ。どのような人物か分からずに頬をかきながら「あぁ、えっと……」と思案する事しか出来なかった。
「ごめん。よく覚えてない、みたい」
「それはそれは。孫娘も、残念に思うでしょうな。
──クライン様の父君、旦那様の剣の指南役を勤めさせていただいたのは私の息子でした。
しかし、残念な事に息子は他界してしまいまして。私も老いからお相手出来ませんので。なにとぞご容赦を」
「いや、構わないよ。ザカリアスが孫娘を選んだと言うことは、自信が有るんでしょ?
それに、ただ孫娘に僕を見させる訳じゃないと思うし」
「そうです。身体は衰えましたが、経験と知識だけは御座います。
孫娘が教えられぬ事は私が口を出させていただきますので、それで宜しいでしょうか」
「うん、大丈夫。それで、話が通ったとしてくるのは何時になりそう?」
「許可が下りてから一刻で話は届くでしょう。お屋敷を出て町へ下りて、その町外れに住まいが有りますから」
そりゃ大分近い。一刻という事は二時間程度だったかな? 言葉尻を捉えるのなら「かかるかどうか」と言う発言から「それよりは早くつくと思います」と言う意味を拾い取れる。しかし女性なのに剣と馬か、何と言うか──ミラノやアリアのような女性像しか無いので想像がつかない。……無双ゲームなら大分居るけれども、それを持ち出すと「人類はビーム放てたんや!」となってしまいかねない。軍師はビームを出す存在じゃありません、念のため。
「孫娘って、どういう人?」
「そうですね。少なくとも馬に関しては乗りこなしておりますな。そして剣技に関してはまだまだ私や息子には劣りますが、感性に関しては文句無しでしょう。
街の若い者を束ねて魔物を退治に行く事数回、その際に他の者では太刀打ち出来なかった巨躯の相手に勝つことも少なくないとか。体力も兵士に負けるとも劣らずとも言え、剣技と言うよりも、感性において戦いに向いた子であります」
「なるほど……」
つまり、新兵教育以上の訓練はしてるし実戦経験に近いものが有るということか。それで居て人を纏める素養と言うか、素質があって、いざと言うときは自分が踏みとどまれると。何そのうってつけな人材。戦う事、長時間の戦闘に耐えうると言うだけでも良いのに、人を束ねる信用や信頼があって、強敵が出てきたら自分が前に出ることを厭わないとか──それこそ、部隊に一人は欲しい人材だ。
「名前は、なんていうの?」
「ヤゴと申します。ヤゴ・カーマインです」
「……となると、ザカリアスはザカリアス・カーマイン?」
「私はナイト・ザカリアス・カーマインで御座います。当代のみでは有りますが、騎士爵ですので」
それを聞いて、二つの事柄が脳裏に浮かぶ。それはこの執事が俺と同じ騎士階級を叙任してもらえた──功績もち? と言うこと。それとは全く無関係で「カーマインって、死にそう……」と言う根も葉もないものであった。きっと彼の息子はアンソニーとかベンジャミンといった名前だったのだろう、冥福を祈っておく。
「騎士爵なんだ」
「恥ずかしながら。私がまだまだ若く、やんちゃな頃が御座いまして。その時に今の旦那様をお助けしたことがありまして。それだけではなく、今ほど魔物の脅威が少なくない頃に先遣部隊として迂回してきた魔物の集団を叩いた事も幾つかございます。
その功績を旦那様の父君によって認められ、騎士にしていただきました」
「ってことは、そんなザカリアスの教えを継いでいる──ヤゴ、だっけ? 彼女もまた立派な人なんだろうなって」
「いえいえ、それほどでもありません。ささ、お茶が冷めてしまう前にお飲みになってください。
でないと、メイドが肝を冷やします」
そう言われて俺はお茶を飲む。その傍らでカティアを起こすために時間を費やし、彼女にもお茶を飲んでもらって目を覚ましてもらった。そのままお茶を楽しみ、ザカリアスと会話を楽しんだ。当然、彼にとっては嘗て有った出来事でありクラインも一度は聞いた事があることかもしれない。けれども、俺にとっては全てが初耳だった。
アルバートの領地では果物がよく取れるらしく、それに連なって果実酒を作っているのだろう。デルブルグの領地は農地が多いらしく、国の胃袋と言わしめるくらいに農作物を育て、その傍らで幾らかの蓄膿をしているのだとか。オルバの家が所有していた領地は金属や貴金属の産出が多いとか。其々の領地に特徴があるのだなと理解し、そして逆にその領土が押さえられることで被る損失を考えていた。
果物が抑えられれば栄養バランスが悪くなる、農作物や肉を失えば活気が無くなる、貴金属や金属が無くなれば武器の調達ですら困難になり戦闘が続けられなくなる。そう考えるが、直ぐにそれは今考えることじゃないと話に集中した。
そして会話を通して一時間ほど費やしただろうか。ミラノが部屋にやってきてザカリアスは恭しく礼をする。ミラノはそれに答礼しながらもこちらを見た。
「そろそろ大丈夫? 父さんが、兄さんを母さんの所に連れて行ってやってくれと言ってんだけど」
「おれ──」
俺は大丈夫だけどと言いかけて、気が緩んでたかなと咳払いをした。
「それは、直ぐにって事かな?」
出来るだけ自然に、ごまかしが聞くような音選びをする。出来れば「それ」という単語を言おうとして「俺」と言ってしまったのだと錯覚してくれれば良いのだけれども、これに関してはミラノですら無反応だった。上手く誤魔化せたかなと、お茶に再び口をつけた。そしてカティアの目線が突き刺さっていて、気付くとニヤリとした。滅茶苦茶性格悪いな、おい!
「多少前後してもいいけど、夕食までには顔通しをしておいて欲しいって」
「大分急ぎだね。何かあったの?」
「それが、誰かが漏らしたみたいなの。兄さんが帰ってきたと言う事をね。それと庭を案内したときに窓から見ていたらしいから」
ありゃ、公爵がゆっくりと進めていこうという話が全て前倒しになってしまったわけか。けれども、知られたからにはノンビリと話を進めるわけにもいかないし、待たせることで焦らせてしまうかもしれないのでこれでよかったかもしれない。
じゃあ行こうかなと立ち上がると、ミラノが慌てて止める。
「待って待って! 剣、剣は置いていって」
「あ、ごめん」
先ほどまで剣技の話をしていた事もあり、普段のように”装備”を癖で掴んでしまった。屋敷の案内をしてもらった時は普通に剣を提げていたし、銃も弾帯を何時もは持ち歩いていたのでその名残だろう。そう言えば腰周りが軽くて違和感を覚える、何時もは水筒だの銃剣だのエンピだのと色々ぶら下げているからだろう。
剣を静かに戻し、ミラノがホッとするのを見ると。彼女はそのまま話を進める。そう言えば意識し忘れていたが、ミラノは刃物──というか、刀剣や血が苦手だったんだよな、そう言えば。
「一緒に行くけど、最初に母さんに色々説明するから。呼んだら入ってきて」
「その方が一番衝撃が少ないだろうね。僕が──何も、覚えてないって事も、加えておいてよ」
「──そうね、それも言っておかなくちゃ。今行く?」
「早いに越したことは無いよ、行こう」
「行ってらっしゃいませ、クライン様、ミラノ様」
ザカリアスに見送られ、俺はカティアを引き連れてミラノについていく。そして部屋の前まで到着するのだが、そこにアリアの姿が無かった。
「あれ、アリアは?」
「アリアは……ちょっと、荷物の整理が進んでないみたいだから」
「そっか」
何時もミラノとアリアは一緒なことが多かったから、どちらかが居ないとやはりしっくり来ない。カレーが出来たのにご飯が無いような、お好み焼き作ったけどソースやマヨネーズが無かったようなものだ。弾丸の無い銃、銃の無い弾丸と言ってもいいかもしれない。厳しいミラノと優しいアリア、厳格なミラノと穏やかなアリア。どちらか一人だけでは物足りないと言うか……やはり、四人そろってないと──落ち着かない。
ミラノがノックをしてカティアを連れて公爵夫人の居る部屋へと入っていく。それを見送ってから傍の壁に凭れ掛かってそっとため息を吐き、天井を見上げ、床を見つめながら少しばかり頭を抱えた。けれども、避けては通れない道だし、偽りの息子として母を騙すのは心苦しさが有る。母親とは、実際に腹を痛めて産んだ人物だ。後ろめたさはある、記憶が無いと言うだけでも酷い仕打ちだと言うのに、その上──本人じゃないのだから。
けれども、演じろ。騙せ、耐え切れ、乗り切るんだ。クラインは助かったのだ、少しばかり酷い仕打ちをするかもしれないけれども……本人が帰ってくれば、ちゃんと全てを覚えている本人が来てくれれば、偽りの仕打ちの対価として──公爵夫人は救われるだろうから。
俺、嫌われるだろうな。俺は今、存在するだけで屋敷に居る全員を裏切っている。その思いも、行動も、忠義も、関係ですらも。それでも、この話に乗ったのは俺の意志だ。それで救われると聞いたのだ、なら──別に俺が傷つくのは構わない、か。
「──これは正しい事なんだ、間違いなんかじゃ、ない」
そう小さく呟くと覚悟が決まる。誰も周囲に居なくて良かった、じゃないとただの不審者になってしまう。クラインは変な事をしない、クラインは優しい人物だ、クラインは気弱かもしれないけれども真っ直ぐな人物だ。そんな人物を、演じているとは言え──穢してはならない。
どうせ俺は死んだ身だ、両親は居ない。弟と妹とは無縁な世界に居る。俺と言う存在がどれだけ埋もれようとも、これが役に立つのなら幾らでも自分を消してやる。
「……ん。兄さん?」
我に返ると、ミラノが俺を呼んでいる声が聞こえた。驚き、慌てて身なりを正す。変な所は無いか、食い違いは無いか、ほつれは無いか、忘れていることは無いかと半ば疑心暗鬼の如く身なりを確認してから深呼吸で意識を切り替える。そして礼儀作法を思い出しながら「しっ、失礼します」と上ずった声を上げてからゆっくりと入った。
そして俺は部屋にゆっくりと踏み込み、カーテンがかかって姿の見えないベッド上の公爵夫人と向き合った。カティアは俺と同じくベッドから幾らか離れた位置に立っており、ミラノはベッドの脇に立っていた。多分そちらはカーテンが開いているのだろう、公爵夫人のシルエットは見えるのだが……その顔となりは分からなかった。
「クライン……?」
「はい。母さん。その……久しぶりって言っていいのかどうか──」
「大丈夫。話は全部ミラノから聞いたから。色々と、覚えてないみたいね」
「すみません……」
口調が優しく、穏やかな──アリアが一番影響を受けたであろう語りが向こうから聞こえてくる。公爵も幾らか穏やかだけれども、それは鋭く切り込んだり踏み込んだりするやり口なのでミラノが一番近いのだろう。双子の姉妹で影響を受ける相手がそれぞれ違うんだな。
そして先ほど決意を固めたにも関わらず、優しすぎるが為に早くも揺らいでいた。謝罪と同時に床を見てしまい、これではダメだと歯を食いしばる。緊張と不安が綯い交ぜになって、心拍数が変に上昇する。感情を殺した兵士の自分じゃ居られない、感情的な個人に戻るのを感じた。
「それでもっ……。屋敷に居れば、色々思い出すと思うから。
だからっ──」
「クライン、良いの。私は、貴方が帰って来てくれた。それだけで、もう救われたのだから。
覚えていないと言うのは悲しいことだけど、これからまた……色々と積み重ねていけばいいことでしょう?」
「はっ、はい」
こんな感じでいいのかな、このやり取りに問題は無いかなとミラノを見る。ミラノは小さく頷いてくれた、どうやらこれで問題は無いのだろう。些か緊張のし過ぎか喉が渇いてくるが、今ココに飲み物になりそうなものは無いので唾でも飲むしかない。
何を話せばいいだろうか、何を言えばいいだろうか。考え込んでしまい、言葉が出ない。クラインならどうしただろう、クラインなら何を言っただろう。それを考えて、そうするのが一番かなと思ったことを口にした。
「顔を、見ても良いですか」
「ええ……。ええ、勿論」
許可が下りたので、俺はゆっくりとミラノの居るほうへ。カーテンが開いている方へと歩み寄った。そして公爵夫人の顔を見て、俺は緊張も覚悟も──全てが吹き飛んだ。
「……良い男に、なったわね」
そう言って、公爵夫人が手を伸ばして俺の頬に触れた。そして撫でるように頬を撫で、その手がゆっくりと頭に触れ──撫でる。それに対して俺は反応できない、何かを思って言うことも出来ない。むしろ、これは俺に対する罰なんじゃないだろうか……。
──公爵夫人が、俺の母親の姿をしているだなんて──
「母、さん──」
「ええ。母ですよ、クライン──」
偽の息子と、そうとは知らずに実の息子との再会を喜ぶ公爵夫人。実の母親ではない相手に遭遇して思考停止している俺と、違うにも拘らず全く同じことをしてくる公爵夫人。だから、尚更俺は揺さぶられる。頭が痛くなり、俺は逃げることを選んだ。
「ごめん、母さん。ちょっと……具合が悪くて」
「え?」
ミラノの驚くような声とは対照的に、公爵夫人は落ち着いていた。あるいは、驚くような気力が無いのかも知れない。彼女は頭を数度撫でると、そのまま笑みを浮かべる。
「ええ、仕方が無い事よ。クラインも、まだ元気じゃないって聞いてるから。
だから、ゆっくり休みなさい。母さんは、いつでもここにいますから」
「はっ、はい! それじゃあ、失礼します」
その言葉を聞いて、俺は礼をすると足早に部屋を後にした。そして部屋に戻ると誰も居ないのを確認し、机と椅子を扉の前に置いて開けられない様にするとそのまま部屋の隅で蹲った。
『──、大丈夫。元気になるまで、ゆっくり休みなさい。
母さんは、いつでも傍に居るから』
やめろよ、やめろよ畜生! 弟はまだ我慢できた、アイツはまだ生きていたし自分の足で人生を歩んでいた。なのに、何で? なんで!? なんで母さんがここで出てくる!!!
アーニャには聞いていた、可能性がある事も理解していたはずだ。なのに、こんな直ぐ近くに居るだなんて思ってなかった。考えたことも無かった! 同じ声、同じ姿、同じ言葉、同じ仕草──。そんなもの、俺が耐えられるわけが無かった。それでも、叫び暴れなかっただけまだ自制が利いているかも知れないが……我慢自体が出来ているわけじゃなかった。
膝を抱えて蹲っている中、指が腕に食い込む。その痛みをを自覚すると今度は情けなくなった。死にたい、滅茶苦茶死にたい。けれども自分を傷つけることも出来ない、全てが封じられた俺は何も出来ない。
親に置いていかれて死なれるぐらいなら、俺が代わりに死にたかった。俺の人生そのものが徒労になって苦しみしか残らないのであれば、そんなものを抱えてまで生きて居たくなかった。俺の功罪全てがそこに起因している。自衛官として成した事、家に引きこもって腐った数年でさえも……両親が居なければ発生しなかった事柄だ。
そこまで考え、両親のせいにしようとしている自分に気がついて壁に頭を打ちつけた。そして眼球の奥底まで痺れる痛みを抱えながら、自分の浅ましさを情けなく思った。違う、両親は立派な人だった。けれども俺は自分が認められたいが為だけに自衛隊に入り、そして様々な事をしてきた。けれども親が死んで生きる目標すら失ってしまったのは──親の責任じゃない。生きる目的や目標を見出せなかった俺の責任なのだ。
そう、俺が悪い。俺が悪いんだ。俺が悪くなければ両親に非が有ることになってしまう。
「畜生、間抜け間抜け間抜け間抜け……」
部屋の外からカティアの声が聞こえ、扉を叩居ている音が徐々にカリカリと引っ掻く音となって消えていく。そしてカティアからメッセージが届いたので、内容を禄に見ることも無く「暫く一人にして欲しい」とだけ書いて送り返した。すると最後にノックが三度だけ響き、それ以降何も聞こえることは無かった。
そしてただ部屋の空気が重く感じた。このまま、俺の存在が押しつぶされてしまえばいいのに。そんな事を考えていると、窓がガタガタと震えた。風が強いのだろうかと思いながらも蹲っていると、その窓が開いてしまった。そしてそこから現れたのはミラノで、ボンヤリと彼女を見る。
ミラノは部屋の中を見回し、扉を封鎖するために使った椅子と机を見ると「おんなじことしてる……」と盛大なため息を吐いた。そして俺の前で腕を組み、険しい表情で俺を見下ろしていて──怒られるかなと思った。
だが、俺の予想に反して彼女はその表情を緩めた。そして──この屋敷で何度目だろう、彼女がため息を吐くとゆっくりと目の前で座り込んだ。目線の高さが、俺と会う。
「ねえ、もしかして……辛い?」
「何故そんな事を聞くのさ」
「──少し待って」
ミラノは一度立ち上がり、バリケードを築いた扉へと近寄る。そして椅子や机を引っ張り、僅かに扉を開けられるようにすると上半身のみで廊下の様子を見ていた。そして何事も無いのか、そのまま扉を閉ざしてバリケードを戻すと戻ってくる。
そしてミラノは何を思ったのか、ベッドの掛け布団を掴んで俺に放り投げて被せて来た。当然そんな事をされれば視界は全て閉ざされる。一瞬「布団殴りの計」と言う、自衛隊の中でリンチをするときにやっていた事を体験する羽目になるんじゃないだろうかと考えてしまった。布団の上から殴ろうが蹴ろうが悲鳴は吸収されて響かないし、痛みに反して痣は出来難い。しかも息が苦しくなる上に周囲の状況が全く分からないと言う恐怖の罰だ。
けれども、それよりも先に闇の中に光が差し込んで、ミラノが潜り込んで来たのが見えた。そして膝を突き合わせるような距離で互いに布団に包まり、また真っ暗になる。そしてミラノは次に何をしたかと言うと、杖を取り出してなにやら詠唱したのだ。その詠唱は短く、完成すると淡い光が杖先に灯って明かりとなる。ミラノの顔が、近くで、よく見える。
「これなら声は外に漏れないから、今だけは演技止めていいわ」
「──……、」
「大丈夫。ここで聞いた事は誰にも言わないから。それとも、私の言う事が信じられない?」
布団に隠れながらのミラノの問い。それに対して俺は迷い、悩み、苦しみながら「分からない」とだけ言った。
「分からない?」
「ミラノには、恩とかは有る。けど……俺は、背中を預けるとかそういうやり方でしか信じる信じないを判断してきたから──」
高校時代、俺はどうやって仲良くなったのだろうか? 彼らとは、今まで友人で居られたのだろうか? 学生時代の記憶は殆ど無い、だから必然的に記憶の大半は自衛隊生活で占められている。そして自衛隊生活での信じられる信じられないとは、背中を預けるに値するか──あるいは、その人物にどこまでついていけるかが判断基準だった。後ろ弾とはよく聞くだろうが、営内陸士では上官や先輩に対して時折そういった話題をしているのを見聞きしたことが有る。それは、もし戦争になった場合にどの人物にだったらついていけて、苦しくても信じられるかというものだ。
残念だけれども──自衛隊の内部でも「何故その人物がその階級に居られるのか」と言うのを疑いたくなる人物と言うのは存在する。能力はあるけれどもその分他人の不出来に理解が無く心無い発言をくり返す二曹、弄りと虐めを勘違いして陸士を追い詰めていく一曹、ゴマすりと掌返しが得意で自分の失敗を認めない曹長、自分に与えられた罰を部下や後輩に丸投げする三曹等々──色々居た。そういう人物にはやはり「後ろから撃つ」と言う話題は決して無くならなかった。
だから、俺もその判断基準で見ているのかもしれない。ミラノの事を──
「まだ付き合いが浅いから、その判断は出来ない」
「──なら、身分も地位も、爵位も、上下も関係無しに。聞かなかったことにするから、言って。
その……、言いたければ、でいいから。アナタ、辛い?」
「──……、」
「昼もそうだけど、さっきのアナタは様子が変だったもの。
だから、もしかしたら今回の件が負担になってるんじゃないかと思って」
そう言ったミラノの様子は、本気で心配しているようであった。普段はあまり感情の起伏を見せないようにしていて、それでもアッサリ崩れてしまう程度なのだが。
──俺は、心配させていいのか?──
存在するのは罪悪感であり、自分を守るための言い訳だ。けれども、他人に心配をかけ、迷惑をかけるという罪深さが俺の中で肥大化していく。意識してしまったが故に、気持ちが悪くなるくらいに嫌に思えた。けれども、ここで強がっても俺の態度の説明にはならない。だから──この場を逃れるための、半ば真実で半ば嘘を吐かなければならない。全てが嘘であれば大問題だが、全てをその通りに語らなければ嘘ではない……。いつもの、その場逃れでしかなかった。
「あの人が……」
「母さんが?」
「俺の、母さんそっくりなんだ──」
「──……、」
「声も同じ、姿形も同じ、声も……多分同じ、それで仕草も同じで。
俺の頬に触れてから、頭を撫でたあの仕草も、その後で言った言葉も──母さんの言った言葉と全く一緒なんだ」
騙そうとし、その場逃れをしようとした途端に気分が落ち着いてくる。けれども、最低レベルでの落ち着きなので気分は晴れない、陰鬱な気分で俺は「何やってるんだろう」と自嘲していた。
「母さんは死んだ、五年も前に。けど、オルバもそうだけど……俺の身内に似ている人が居て、しかも物凄く似てて……辛いんだ」
「……そう」
そう言ってミラノは特に何も言わなかった。ただ、彼女はそのまま向き合っているのではなく、俺の隣に移動してきて肩を寄せ、同じように座り込んだ。
「私達、似てるのかもね。私達はみんな、兄さんの事でまだ縛られてる。
アナタは家族の事で、ずっと苦しんでる」
「──いや、違うよ。俺と、ミラノ達とじゃ」
言ってから「俺の方が悲惨だ」とでも言いたかったのだろうかと自分の浅ましさを呪った。俺は構って欲しい子供か? 違うだろ。自衛官として、国を一時でも背負った──立派な、大人だろうが。彼女達とは違う、どれだけ腐っても俺の方が長生きしてるんだ。だから確りしないと──そうだ、確りしないと、親が報われない。
だから、良いかなと思った。別に、俺はダメージを受けないから。
「実はさ、クラインと会ったんだ」
「え?」
「意識が無いまま眠り続けてて、ミラノ達を助けたときから──ずっと、目を覚まさない彼に」
俺がそう言うと、ミラノは「──死んだと思ってた」と言った。やっぱりそうか、公爵以外はクラインのことを生きているとは思って居なかったらしい。だから刃物と血がトラウマなのかもしれないし、似ている俺の事を酷く扱うことを記憶が邪魔して出来なかったのかもしれないが……。
「一つ、ミラノに良い知らせがある」
「良い知らせ?」
「そう。けど、絶対に他言しないって誓えるか?
さっき言った──身分や地位、爵位や上下関係無しに、聞かなかった事に出来ると。
もし守れなかったら──」
「守れなかったら?」
「俺は、ミラノの事を少し信じられなくなる」
脅しでも何でもない。あぁ、ミラノってそういう人物なんだと評価を改めるだけの話だ。けれども、ミラノは考えることもせずに「誓う」と言ってのけた。
「アナタは私を守ってくれた。なのに、変な嘘を言うわけが無いじゃない」
嬉しいはずの発言なのに、胸が痛い。先ほど俺は自分が膝を抱えて苦しんでいる理由を「似ているから」と言う事に規模を小さくして、俺の人生と切り離して何でも無い事のようにしてしまった。その上で、自分の失言を誤魔化すように今ではクラインの情報を流そうとしている。心底、見下げた、屑でしかない。
けれども、今はそんな事を考える間でも無く。逡巡するように見せかけてから「分かった」と続けた。
「実は、クラインが目を覚ました」
その言葉は、布団に吸収されて直ぐに消えた。けれどもミラノはその言葉がどう響いたのだろう、数秒の間を置いてから「続けて」と言った。
「──俺が行った時に、そう……。公爵と一緒に、様子を見に行ったんだ。そしたら、目を覚まして……意識もハッキリしてた。だから一日到着が遅れたんだ」
「……嘘よ。だって、ならなんでアナタは兄さんを──」
「母親を一日でも早く元気にしたかったんだろ? 今は確かに……騙してるかもしれない。
けれども、元気になったら屋敷に戻すって話になってる。そしたら公爵がちゃんと全てを明かすって──約束、したんだ」
自分が何をしたかも誤魔化し、ただただ「運が良かった」みたいに言うのに齟齬が発生しないかを考えながら言う。あの場には公爵も居て、クラインも意識があって、医師もいた。変な嘘をつけば直ぐにばれる上に立場を悪くする、だから差しさわりの無い程度に情報を暈し、伝えたのだ。
それに、火事を消すために爆破を使うと言う考え方も出来る。彼女にとって重大な事で、それに劣る俺の事柄を覆い隠すつもりでもあったのだから、これが通用しないとこまる。
家族のことではなく、嘘偽りの為に上手く立ち回ろうと思考を巡らせていると塞ぎ込んでいた気持ちは回復してきた。結局、俺はどこまでも自分本位な人間なのだと自覚するのは、こういう時だ。他人の為に動く感情は少なく、自分の為に動く感情は数倍にも及ぶ。結局、前にミラノを守った時だって自分の矜持を貫き通したかっただけなのかもしれない。
「だから、俺の役割は彼がここに来るまでだ。それが何時になるか分からないけれども、別れる時には自分で起き上がり、自分で食事が出来てたから、そう遠くないうちだと思う」
「──その話、本当でしょうね?」
「俺の両親と、俺の誇りにかけて」
その誇りとやらも、自分で自分を戒めるためのものでしかないが……。それでも、無責任な自分では居ないようにするためのものだ。行動に、発言に、態度に──たとえ偽りが混ざろうとも、相手を傷つけないものであればそれで良い。
ミラノは考え込むように俯き、それから触れている肩越しにミラノが震えているのが分かった。
「──よがっ……、兄ざん──」
「──……、」
心底、俺はクソ野郎だ。自分が逃れるためとは言え、追及されないようにするためとは言え、嘘ではないとは言え、それが喜ばしいこととは言え──彼女の為ではなく、俺の為に言ったのだから。善でも偽善でもない、俺のした事は悪に違いない。
俺は泣いているミラノ盗み見て、それから後ろめたさから身動きが取れず、結果としてミラノが落ち着くまで布団を被ってそのまま傍に居ることしか出来なかった。彼女は泣き止むとそのまま顔をこすり、それから俺を一度睨む。
「言ったら──」
「いや、言わないよ。俺も……色々有るし」
「まあ、そうね。と言うか、アナタはそう言うところだけ律儀だし、言う相手も居ないから平気か」
なんかシレッと「友達居ないでしょ」みたいに言われた気がして地味に傷ついた。アルバートとかミナセとか、ヒュウガとかグリムとかは友達だぞ? 友達だよな? 友達であってくれ──。
けれどもミラノが元気になったっぽいし、立ち直ったみたいなので俺も幾らか気が晴れた。負の連鎖で悪い事を起こしてしまったが、まあ──何とかなったと言うことだろうか。まあ、何とかなったかなと落ち着きを見せると、俺の鼻にミラノの指が当てられた。
「けど、アナタの問題は解決してないからね。
私も上手く言えないし上手くやれないけど、アナタが辛くないように、苦しくないようにしてあげたいのは有るから」
そう言って、ミラノの指が俺の鼻から離れていった。そして俺は──素直に受け取ればいいのに、被虐的に笑みを浮かべながら彼女をみることを拒んだ。
「それは、俺がクラインに似ているからだろ……?」
「違う。それが……アナタを呼んだ、私の責任だから」
「責任──」
「アナタが家族と向き合うことが出来なくなったのも、弟や妹と会う事が出来なくなったのも、赤ちゃんの未来を確認する事も出来なくなった。アナタの──世界も、居場所も奪った。
だから、私はそれに見合う何かを与えなきゃいけない。それは当然でしょう?」
「──さあ、どうだろうな。けど、そうだな。……言ってもらえただけでも嬉しいよ」
形式だけの返事、あまりその言葉を信じていなかった。結果ありきの生き方ばかりしていて、どのような結果が俺に齎されるのかが分からないから。それでも、何も言わないでドンと構えられて居るよりも、形式であったとしても「ちゃんと報いる」と言われたのは……嬉しかった。
けれども、ミラノがそう言ったのであれば俺も同じように何かしら言葉にして伝えなければならないだろう。彼女が立ち上がり、布団をベッドに戻そうとしたところでその手を掴んだ。
「──俺は。俺の在り方に反せず、報いられ続ける限りはミラノとアリアを守るよ」
「どういうこと?」
「さっきのミラノが言葉にしてくれたから、俺も自分がどうするかを言葉にしてみただけで──。
大きな意味は、特に無い」
自分を縛れ、変な事を考えたりする余裕が無いくらいにもっと余裕を失え。どこにも所属していないからとウダウダとしてしまう位なら、意識だけでもどこかに所属させてしまえ。立派に、迷惑をかけず、心配されないような人になれ。
そうだ、最近自由になりすぎたからこんな事を考えてしまうんだ。もっと兵士になれ、あの頃の自分に戻れ、認められるとか認められないとか考えずにただ誇らしく有れたあの頃の自分に──。
そう意識をすると、起伏の激しかった心境が一気に一定になる。心拍数も安定し、落ち込んだ気持ちですらどこかへ消えてしまった。だが、そんな俺を見てミラノは表情を少し歪めた気がしたが、それを認識するよりも先に背中しか見えなくなり、ベッドを直す彼女を見ることしかできなくなった。
殺せ、殺すんだ。自分を、個を。単独の存在ではなくなってしまえ。集団の中の一人、戦死しても名ではなく数字でしか計上されない兵士のように、名も無き我らのように。




