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ざわめきが聞こえた気がして、ぱっと目を開く。部屋の中はすっかり暗くなっていて、どうやら私は寝てしまったらしかった。今が何時になるのか、時計のない状態では見当もつかないけれど、とにかく完全に日は沈んだ後らしく、部屋の外も真っ暗だった。寒くはないけれど、空気が少し冷えている。
眠気の残る頭を軽く振ってベッドから起き上がる。
部屋の外から声が聞こえてくる。見張りの兵士だろう。時間が経っているから交代でもしているのかもしれない。
何となくドアの方に歩いていって、そうじゃないらしいことに気付く。外の声は、話をしているというよりは口論をしているという雰囲気で、厚いドア越しにその剣呑さが伝わるくらいには声が大きい。
ドアにぴたりと顔をくっつけて耳を澄ます。よくは聞こえないが、賊が、とか持ち場を、とか、どうも普通じゃない事態が起こっているらしい。そのまましばらく聞き耳を立てる。ところどころ拾い上げた単語から推測するに、招かれざる客がいらっしゃっているらしい。こんな簡単に侵入されて、ここの警備は厳重じゃなかったのかと思っていると、分かったよ、という不満げな声を最後に、廊下が静かになった。
言い争いをしている間にこっそり逃げたら良かったと、自分の迂闊さを後悔する。
けれど、声だけでなく人の気配も、もしかしたら消えたかもしれない。
私はごくごく一般人で、気配を読めるわけじゃないし、まさかドア越しに透視が出来るはずもない。けれども、もしや、と思ってそっと音を立てないように息を殺してドアを開けて廊下を覗いてみると、本当にそこには誰もいなかった。
屋敷中がなんとなくざわめいていて、廊下の向こうに広がる中庭も兵士が持つ松明か何かの明かりがあちこちでちらちらと揺らめいている。けれど、ここは無人だ。
心臓が早くなっていく。これはチャンスだ。上手くやればここから逃げられる。建物の見取り図なんて持ってないし、玄関からここまでの道ももうすっかり忘れてしまった。それでもやるしかない。
今しかない、という、不思議な確信。
失敗してしまえば、きっとより警備が厳重になるだろうし、更に逃げれる可能性が減ってしまう。殺されはしないだろうけれど、殴られるとかはあるかもしれない。
それでも、今、やるしかなかった。無理でも何でも、ここで頑張らなければ。
暗い廊下の奥まで目を凝らして、誰も来ないことを確認する。すぐ側の階段からも、誰かが上がってくる様子はなかった。
どちらから行くのが良いだろうか。この部屋に来たのは、廊下からだった。まっすぐ出口に向かうのなら廊下の方が良いかもしれない。けれど挟み撃ちにされた時、2階にいるとどうしようもない。1階ならまだ中庭に出たり、とにかく建物の外に逃げるという選択肢が増える。
迷っている暇はなかった。今にも人が来るかもしれない。
えいっと飛び込むような気持ちで、階段へと向かう。壁から覗くようにして階段に顔を出すと、薄暗いけど人はいない。靴は履いてなくて、潜めなくても足音は立たない。踊り場の手前まで下りて、手すりから身を乗り出すようにして階下を覗き込んだ。
兵士と、目が合った。
慌てて身を翻して、階段を駆け上がる。上がったところで逃げ切れるとは思わなかったけれど、そうする以外に何も頭に浮かばなかった。
2階に戻り、そこで立ち止まる。廊下の先まで行くか、部屋に戻るか。部屋に戻るのじゃ意味がない。でも廊下を行ったところですぐに追いつかれる。
そう思ったところで、兵士が下から上がって来ないのに気付く。階段のすぐ近くではなかったけれど、追いかけてきていたらもうすぐそこに来ているはずの距離だったのに。
壁に身を隠して、様子を窺う。兵士どころか人一人いない。
目が合ったと思ったけど、気が付かなかったのだろうか。そうだとしたら、もう一度チャンスはある。
一段一段、ゆっくり下りていく。さっきと同じ場所で足を止めた。
全身が心臓になったみたいだ。
そっと、音の一つも立てないように体を動かす。出来るだけ体が影から出ないように、顔、出来れば視界だけ下に向けれれば良いのにと思いながら、下を覗く。
さっきよりも遠く、階段の向かいの壁際に兵士がいた。
絶対見つかったと思ったのに、どうやら私がここにいることには気付いていないらしい。ラッキーだ。そして更に運が良いことに、階段のすぐ側に、外に繋がるドアがあった。ここから出て、完全に敷地の外に行くまでにはまた距離があるだろうけど、建物の中にいるよりはずっとマシだ。
さっきも見つからなかったんだから、たぶんこのままいけるだろう。
自分でも楽観的になってるとは思う。油断大敵って言うし、ここでドアを開ける時に音でも立てたらすぐ掴まるだろう。でも、そうやって自分を戒めつつも、いける、という不思議な自信が私にはあった。根拠のない自信ってやつなんだけど。
小さな子供みたいに一段ずつ階段を下りていく。着物の衣擦れの音をさせないようにと思うとどうしても動作が遅くなって、じりじりと焦りながらも階段を下りきった。
階段を下りたところは少し広いスペースが広がっていて、向こうは廊下が続いている。兵士はそちらを警戒しているようで、こっちは見向きもしない。それに机や椅子がいくつもあって、屈んでしまえば私の姿は向こうからは見えなくなったはずだ。
しゃがんですり足で進む。すごく動きにくいけど仕方ない。ドアの目の前まできて、一度ほっと息を吐いた。
と、足下で小さく光るものに気付く。
拾って目の前に持ってくると、それは見覚えのあるものだった。部屋に水を持ってきてくれた兵士の胸元にあったものと同じものだ。大切なものだろうに、誰か落としてしまったのだろうか。
そのまま床に戻すのも何だかおかしい気がして、着物の袖の中に入れる。記念に一つもらっても、この数日のことを思えばおつりがくるくらいじゃないだろうか。
しゃがみ込んだまま、手を伸ばしてノブに触れる。古そうなドアだ。油が切れてて開く時に音がしたらどうしようかと、祈るような気持ちでノブを回し、ドアを開いていく。
祈りが通じたのか、たぶんきちんと手入れをされているだけだろうけど、全く音を立てずにドアは開いた。外も暗いから光が差し込むようなこともない。闇に紛れるようにして外に出て、最後の仕上げに、またドアを静かに閉める。
完全にドアが閉まって、無意識に詰めていた息を吐き出した。
息を吐ききって、そしてそっと吸う。まだ終わりじゃない。私の不在に気付かれる前に、敷地内から出なければ。
後ろに広がるのは、庭園だ。その外側にぐるりと四方を囲む壁がある。その外にさえ出てしまえば逃げられる。たぶん。
遠くから兵士の声が聞こえてくる。賊はもう捕まったのか、ところどころで揺れる明かりに焦っている様子はなかった。普通の見回りをしているように、ゆっくり決められた場所を見回っているという感じだ。
どちらにしろ、庭園にいる兵士の数は多くない。明かりを持っていない兵士もいるだろうけど、かくれんぼでもわりと早々に見つかるタイプだった私にそこまで気にするのは無理だ。意識しすぎて逆に音を立てたりして見つかってしまうのがオチだろう。
庭園というよりは広場に近い雰囲気で、背の高い植物は決められた場所に整えられているものの、他は芝生やごくごく低い植物ばかりだ。身を隠すのにはかなり心もとない。というかどう隠せばいいのか分からない。
ここは普通に、低く屈んだ状態でさっと駆け抜ける、というのが理想だ。
まあ、理想は理想であって、実際はもっと不格好になるわけだけど。
見ている人がいないのをいいことに、なんとか、手を使ったりしつつ、壁際まで誰にも気付かれずに来ることが出来た。
最後の問題が、この壁だ。この恰好で登るのは難しい。かといって、門の方までいけば、それこそ門番がいるだろう。
壁の高さは、軽くジャンプすれば余裕で手がかかるくらい。コンクリートで出来てるはずもなくて、石壁だから足を引っかけられそうだ。見回りの兵士は、たぶん何とかなる。ならなくちゃ困る。何とかなることにしておこう。
着物だけはどうしようもなくて、仕方なく、しゃがんで帯を解く。着物も脱いで、肌襦袢だけにした。肌寒いし恥ずかしいけど、この際そこは我慢するしかない。着物と帯を肩にかけて立ち上がる。今は近くには兵士はいない。
とにかく壁を越えることだけに意識を向ける。多少音がしたとしても、捕まる前に逃げてしまえば良いのだ。
ジャンプして両手をかける。着物が壁に擦れた。こんなの知られたらお母さんに怒られるだろうけど、ここにいない人のことを考えても仕方ない。というか、かなり怖いから考えたくない。
裸足のおかげで、壁にしっかり足がかかる。滑らない場所を選びながら、上に上がっていくとすぐに壁を跨ぐことが出来た。
思ったよりもずっと簡単だったことに安堵して、壁の上に腰を下ろして少しだけ、屋敷の方を見る。
お城というには小さくて、でも屋敷というには大きいような、そして少し豪華な建物だ。小規模な離宮とか、そんな感じだろうか。そういうのに詳しくないからよく分からない。まあ、こんなに簡単に逃げたりできて、警備は本当に大丈夫なのかっていう心配はするけれども。
さて、と息を吐いて、壁から降りようとしたところで、大きく声が響いた。
「侵入者だ!」
「うわぁっ!」
ちょうど足を上げたところだったせいで、驚いて壁から落ちる。
「いった・・・」
不幸中の幸いというか、落ちたのが外側だったのは大分助かった。これで中に落ちてたら逃げ切れない。
警戒の声を上げながら足音と武器の音を響かせて兵士が動き出すのが壁を超えて聞こえてくる。実際どれだけの数なのかは見えないから分からないけど結構いそうだ。
さっさと逃げておけば良かったと猛烈に後悔してももう遅い。私に出来るのは、さっさとここから離れること。
出来るだけ入り組んだ道の方へと走る。適当なところで曲がって、また走って曲がる。方向感覚は完全に狂って、どっちの方向に屋敷があるのかも分からなくなったけど、戻るつもりはまさかないし、土地勘なんて最初からないのだからどうでも良かった。
ただ、兵士のいない方に、というのだけ気を向ける。適当に曲がっているから、どこから追手が向かってくるのか分からないのだけが心配だった。
息が上がる。日頃の運動不足が恨めしい。
狭い路地を走っているから音がよく反響する。激しい呼吸音や足音が、自分のものなのか、それとも追手が近くに来ているのか、耳だけじゃ判断できない。時々はっと振り返っては誰の影もないことを確認する、ということを何度も繰り返しながら、とにかく走る。
民家や店が多いのか、逃げ込めそうな場所がない。
このままじゃ、体力が切れてしまう。捕まるのも時間の問題になりそうだ、と思ったところで、道端にいくつかの馬車が停まっているのが目に入った。
周りを見ても、人はいない。
考えている暇はなかった。とにかく身を隠さなくちゃということだけが頭にあった。ほろの付いた荷台の方に近づいて布を捲ると、荷物が積んであるのが目に入る。多いけれど、人が一人お邪魔する場所くらいはありそうだ。
足をかけるとギシリと荷台が軋んだけれど、それを聞き咎めた人は誰もいない。
座り込むスペースを確保してから手に持ったままの着物を羽織る。帯を結び直すには窮屈で、紐で止めるだけにしておいた。
床に座ると、ようやく一息吐けた。徐々に息も整ってくる。
壁に背を預けて目を閉じる。
疲労のせいか、安堵のせいか、眠りはすぐに訪れた。