222話 ティタインとブラックソルト
―― Titain & Blacksalt ――
門の外に立っていた影は、しばらく動かなかった。
まるで、境界そのものを観察しているようだった。
スーペリアの奥。
この場所は、ただ辿り着けば入れるわけではない。門を前にした瞬間、多くの者は恐怖し、錯覚し、自我を乱される。自分が何者だったかさえ忘れる者もいる。
だが――その影は違った。
ゆっくりと、一歩。
石畳へ足を乗せる。
その瞬間、空気がわずかに軋んだ。
「……へえ」
ティタインが目を細める。
来訪者は黒い外套を纏っていた。
背丈は大きい。肩幅も広い。だが、歩き方には妙な軽さがある。
そして何より――。
「魔力が……ないし」
トシが屋根の上で羽を揺らした。
「クルッポー……本当に生き物か?」
影は門を潜り、ようやく月光の下へ姿を現した。
黒い肌。
獣じみた鼻梁。
牙の覗く口元。
そして、人型でありながら、明らかに“豚”に近い輪郭。
その男は、ゆっくり頭を下げた。
「どうも、始めましてじゃないっすか?」
低く濁った声。
「オイラ、黒塩〈ブラックソルト〉っす。
よろしくっす。さっきはどうもっす」
ティタインはじっと相手を見る。
魔力が存在しない。
それは、この世界において異常だった。
魔力とは生命力。
生命力とは存在の証明。
つまり魔力を持たぬ者とは、本来“生きていない”はずなのだ。
だが、目の前の男は確かに立っている。
息をしている。
心臓も動いている。
それなのに――空っぽだった。
まるで、世界という枠組みから切り離されているかのように。
「ちしし、面白いし」
ティタインが笑う。
「おいブタ、ペットになるし」
「いやっすね。
喋れるブタはもう家畜じゃないっす」
ブラックソルトは肩を竦めた。
背中には一本の大剣。
幅広で、鈍い鉄色をした無骨な剣だった。
「ん? もしかして……。
試験を受けに来たし?」
「そうっすよ」
「不合格にしたはずだし」
「そりゃ困るっすねぇ」
「でも来たし」
「そうっすよ」
そこで初めて、ブラックソルトはティタインの目を真っ直ぐ見た。
その瞬間だった。
空気が裂ける。
「――分割〈ディヴィジョン〉」
ティタインの指先が、静かに横へ払われた。
瞬間。
ブラックソルトの周囲で空間が“ズレる”。
石畳が断層のように分かれ、重力の向きが歪み、上下の感覚が消失する。
本来なら、それだけで終わっていた。
能力者なら、自らの魔力回路を断たれ、立つことすらできなくなる。
だが。
「おっと、おっと。
なんでっすかね? 効かないっすね」
ブラックソルトが、一歩踏み込む。
ズレていた空間が、音もなく元へ戻った。
ティタインの笑みが、少し深くなる。
「ちし」
ブラックソルトは剣を抜いた。
重い音。
だが構えは静かだった。
力任せではない。
無駄がない。
まるで長年、実戦だけで研ぎ澄まされた型。
「単純明快っすよ」
ブラックソルトは言う。
「“虚無”」
次の瞬間。
地面を蹴る。
爆発的だった。
巨体に似合わぬ速度。
一歩で間合いを潰し、剣が振り下ろされる。
ティタインは笑ったまま後ろへ跳ぶ。
「トシ」
「クルッポー」
黒い羽が舞う。
瞬間、ティタインの片目がカラスのものへ変わる。
視界が分割される。
上空視点。
死角の補足。
未来予測に近い空間把握。
それがトシの能力だった。
ティタインはその能力を“分割”し、自分へ接続している。
さらには――。
「ブシ」
水が爆ぜる。
庭中の水分が一斉に持ち上がり、巨大な顎となってブラックソルトへ襲いかかった。
だが。
「消去っす」
ブラックソルトが剣を振る。
その瞬間、水が消失した。
斬ったのではない。
霧散でもない。
“無かったこと”になった。
ティタインの目が細まる。
「どゆこと?
あ、能力そのものを打ち消してるし」
「さすがっすね」
ブラックソルトは止まらない。
踏み込み。
横薙ぎ。
突き。
一撃一撃は荒々しいのに、奇妙なほど理に適っている。
ティタインは軽やかに避け続ける。
その動きは踊りに近かった。
「シツジ」
「承知しました」
鍵が鳴る。
カラン。
空間の一部が封鎖される。
見えない檻。
座標固定。
侵入禁止領域。
シツジの鍵は“管理”の力。
この家そのものの法則を操作する能力。
ブラックソルトの足元が止まる。
拘束成功――のはずだった。
だが。
「御免」
ブラックソルトが前へ出る。
鍵の拘束が砕けた。
否。
“無効化された”。
シツジが初めて眉を動かす。
「……管理権限を消した?」
「さあ、どうっすかね?」
ブラックソルトは鼻を鳴らす。
「邪魔だったから、無くしただけっすよ」
ティタインはそこで、ようやく着地した。
楽しそうだった。
心底。
「すごいし」
ブラックソルトは剣を肩へ乗せる。
「そりゃどうもっす」
「本当に魔力ないし?」
「ん~そうっすね」
「なのに能力は使えるし」
「生まれつきだ」
「変わっとるし」
「師匠にも言われたっすよ」
ティタインは、少しだけ黙った。
そして。
笑う。
「ちしし」
次の瞬間。
空気が変わった。
トシが羽を広げる。
ブシが水中から完全に姿を現す。
シツジの鍵束が、一斉に浮かび上がる。
ティタインの周囲で、三つの能力が同時に分割されていく。
視界。
暴力。
管理。
それらが混ざり合い、彼女の中へ流れ込む。
金色の髪がふわりと浮いた。
ブラックソルトは目を細める。
「……いいんすか?」
「ティタインは監視役だし」
少女は笑う。
「強くないと……困るし」
瞬間。
消えた。
ブラックソルトの視界から。
否。
認識そのものがズレた。
上から。
横から。
背後から。
三方向同時。
ティタインが現れる。
ブラックソルトは直感で剣を振った。
轟音。
衝撃。
石畳が砕け飛ぶ。
だが。
「よっこいしょ」
ティタインの指が、ブラックソルトの肩へ触れる。
「分割」
その瞬間。
ブラックソルトの剣と身体の“繋がり”が断たれた。
感覚が消える。
握っているはずなのに、自分の武器ではない。
脳と肉体の接続がズレる。
常人なら発狂する。
だが。
「――無効」
ブラックソルトが呟く。
世界が戻る。
ティタインの指先が離れた。
初めて、彼女の目に驚きが宿る。
「今のも消すし?」
「そうっすね」
「……ぷふ、おもすろ」
沈黙。
夜風だけが流れる。
そして。
ティタインは、ゆっくり笑った。
今までで一番。
楽しそうに。
「合格候補、初めてかもしれんし」
トシが低く鳴く。
シツジは静かに目を伏せた。
ブシは水面を揺らす。
誰も口にはしない。
だが理解していた。
この男は異物だ。
この世界の法則から外れている。
だからこそ――。
ティタインは興味を持った。
「おいブタ、間違えたし。
ブラックソルト」
「ん? なんすか?」
「次は、本番だし」
門の奥。
さらに深い場所。
スーペリアの中核へ続く道が、静かに開いていく。
そこから漂ってくる気配は、先程までとは比べ物にならない。
濃密な魔力。
圧力。
歪み。
まるで世界の深淵そのもの。
だがブラックソルトは怯まない。
剣を担ぎ直し、鼻を鳴らす。
「彼女の言葉を借りるならば……。
『望むところだ』っすかね?」
ティタインは振り返る。
その笑みは、子供のように無邪気で。
同時に、天災のように危険だった。
「じゃあ――遊戯の時間だし」




