196話 異質の魂
―― Xeno-soul ――
胸が、むしゃくしゃする。
理由は分かっている。不浄の地と地底を行き来する生活に、身体が慣れていないだけだ。だが、それだけで、こんなにも息が詰まるとは思わなかった。
足元で、低い振動が続いている。
ステラロイド達が、静かに稼働していた。
それは人型をしている。だが、人間ではない。
僕たちはそれを、ゼノ=ヒューマンと呼んでいる。
呼び名だけが、人間だった。
僕自身も、その分類に含まれている。
だから、この場所に立っている。
本当なら、家に帰っていたはずだ。
家族と同じ食卓を囲み、何でもない話をして、温かい布団に潜り込む。
そんな日常を、想像するだけで胸が軋んだ。
だが、許されなかった。
僕の前に、それは降り立った。
翼を持ち、山羊の角を生やした異形。
だが、目だけは妙に人間じみている。
ベリフィム。
「少年、面白いな」
声は低く、愉快そうだった。
僕は答えない。言葉を返せば、何かを失う気がした。
「ここで立ち向かうつもりか?」
逃げたい。
だが、足は動かなかった。
「今しか、できないことがある」
自分に言い聞かせるように呟いた。
それが何かは、分からない。ただ、今ここに立っていなければならないという感覚だけがあった。
ベリフィムが、僕を値踏みするように見下ろす。
「アザゼルを知っているか?」
知らない。
だが、黙っていた。
沈黙は、時に盾になる。
「その顔……消し炭になりたいらしいな」
空気が歪む。
力が集まる気配が、皮膚を刺した。
――よせ。
心の中で、何度も念じる。
近づくな。話しかけるな。
僕を、見ないでくれ。
次の瞬間、ベリフィムが力を振るおうとした。
だが、その動きが止まる。
彼の瞳が、揺れた。
「……?」
時間が、ずれたように感じた。
ベリフィムの表情から、殺意が抜け落ちる。
代わりに浮かんだのは、困惑だった。
「……なぜだ」
彼は、独り言のように呟く。
その目が、どこか遠くを見ていた。
「……娘がいた」
声が、かすれる。
「笑っていた。手を引いて……」
それは、僕に向けた言葉ではなかった。
彼自身の内側から、漏れ出た記憶。
「捨てられたと思っていた。すべて、夢だと……」
一瞬だけ、彼は“人間”だった。
次の瞬間、幻は歪む。
可憐な少女の姿が、異形へと変わる。
食われる側と、食う側が反転する。
理解できない光景。
だが、感情だけは伝わってきた。
――嫌悪。
――後悔。
――そして、取り返しのつかなさ。
「……すまなかった」
誰に向けた言葉かは、分からない。
ベリフィムの視線が、再び僕に戻る。
だが、もう先ほどとは違っていた。
恐怖ではない。
敵意でもない。
何かを、見てしまった者の目だ。
「……一件落着、か」
そう言って、彼は身を翻す。
「次に行く」
その背中を、僕は追えなかった。
ベリフィムは、深淵を覗いてしまったのだ。
一度覗けば、引き返せない場所を。
極楽だと語る者もいる。
地獄だと言う者もいる。
だが、共通しているのは一つだけ。
――戻ってきた者はいない。
彼が去った後、振動音だけが残った。
ステラロイドは、何事もなかったかのように動き続けている。
僕は、自分の手を見る。
震えていた。
ゼノ=ヒューマンとしての力がある。
だが、それ以上に、確かに残っているものがあった。
恐怖だ。
そして、理解。
――彼を、加害してはならない。
それは命令ではない。
警告ですらない。
ただの、確信だった。




