春の章 第5話 談話室にて
あさひ山荘は、山奥の森の中にある。
夜の森は、闇が深い。
月明かりが山の輪郭を撫でるように照らし出しているが、木立の奥までは届かない。
春とはいっても、山深いこの辺りでは、日没後は急に冷え込んでくる。
冷たい風が窓ガラスを叩き、かたかたと小さく震わせた。
深い闇も凍えるような夜風も、頑丈な丸太づくりの建物の中には入ってこない。
山荘の談話室では、薪ストーブがあかあかと燃えていた。
薪の燃える良い匂いと、じんわりと染み込むような温もりが、部屋を満たしている。
ストーブの周りには、椅子やベンチが置かれ、一隅にはアルバムや思い出ノートを並べた本棚、壁面には、写真や周辺の見どころを紹介する手作りの地図。
宿泊客の多くは、夕食後のひとときを、ここで思い思いに過ごしていた。
さくらは、談話室の窓際のベンチに座り、アルバムをめくっていた。
山荘では、宿泊客向けの山歩きのツアーをしばしば行っていて、アルバムには過去のツアーのときの写真が多く収められている。
ページをめくるたび、真っ先に耕平の姿をさがしている。彼は時々、ガイドとしてツアーに参加していた。
アルバムの写真の中に、彼の屈託のない明るい笑顔――周りの人にいつも見せている――を見つけるたび、さくらの心臓はとくんと小さく跳ねるのだった。
そして背景の山の景色――それは季節ごとに色合いを異にしていたが――にも目をやって、いつかまた、彼と一緒に見たいと思った。
去年の秋の一日のように。
「さくらさん」
綾子がさくらの側に来て、声をかけた。
「綾子さん。今日の夕食もとっても美味しかったです」
さくらが顔を上げ、笑顔になって言った。夕食のメニューは、ロールキャベツを白菜で和風仕立てに作ったもので、山荘ならではのやさしい味わいだった。
「気に入ってもらえてよかったわ」
綾子が微笑んで言った。綾子はおそらく誰が見ても美人の顔立ちをしているが、宿泊客の心を開かせるのは、その親しみやすい優しい笑顔とさりげない気遣いのせいだった。
「さっきはごめんなさいね。明日のこと、私が勝手に決めてしまって」
綾子はさくらの隣に腰を下ろすと言った。
「いえ。厨房でパンを焼かせてもらえるのは勉強になるし、耕平さんに食べてもらえると思うと、すごく……嬉しいです」
言いながら、さくらはだんだん恥ずかしくなって、声が小さくなっていく。
その様子を見て、綾子が小さく笑った。
「よかったわね、さくらさん。耕平くんは、とてもいい人だもの」
「はい。私なんかには、もったいないです。今でも信じられないくらいで」
本心からそう言って、さくらはうつむいた。
落とした視線の先に、アルバムの写真の耕平の笑顔。
こんな笑顔をする人が、私のことを好きになるなんて、ありえるだろうか?
つい、そんなふうに考えてしまう。
――「好きです」
――「あなたが不安になるたびに、何度でも言います。あなたが好きだって……」
あの夜の彼の言葉は、灯のように温かくずっと心に残っている。
彼のことは、信じられる。けれど、彼の言葉を心の底から信じられないのは、きっと、自分に自信が持てないせいだ。
うつむいて顔を曇らせたさくらを見て、綾子が優しく言った。
「私、知ってたの。この前の冬の夜。耕平くん、突然ここに訪ねてきたでしょう?あなたに話がある、って。すごく真剣な顔で」
「……」
さくらは、あの日のことを思い浮かべた。
一カ月半前。
二人で鏡池に行った日の夜。
「そして二人で外に出ていって……しばらくして、あなただけ談話室に戻ってきたとき」
「……」
今でも、夢の中の出来事のようで。
山荘に戻ってからのことは、実はほとんど覚えていなかった。
「耕平くん、普段あんな顔する人じゃないもの。心配なんてする必要ないわ」
綾子の言葉が、さくらの胸の奥で優しく響いた。




