86 小猫は心をずたぼろにされた
南の海に浮かぶ真珠と讃えられるディリライト諸島。
神子姫が再び訪れたという知らせに、ディリライト島に住む人々は興奮し、沸き返っていた。
静かな環境を好み、人と会うだけでも疲れきって寝込んでしまう繊細な姫君だというのでほとんどの人は押し掛けたりしないが、ディリライト邸にはひっきりなしに来客がある。
「神子様はとても繊細なお方。見知らぬ人とお過ごしになるだけで気疲れなさり、今や臥せっておしまいになりました。ですから私共も静かにお過ごしいただけるような環境を整え、邪魔はしておらぬのです。姫様には、私共の息子と娘を世話係としてつけております。使用人ですら、姫様にはご負担になりますのでな」
だが、ディリライト首長であるコウヤは、言外に「自分達もあまり接しないようにしているのだからそちらも遠慮しろ」と匂わせ、追い払っていた。
黒髪に焦げ茶色の瞳、そして日焼けしていない肌を持つ、心優しくも儚げな神子姫ハールカ。
その方が滞在しているというディリライト邸に向けて祈りを捧げる人も出てくる始末だったが、本当に熱狂的だとしか言いようがない。
「大変ねぇ、お姫様ってのも」
「そうだよねー。人に会うだけで疲れちゃうんじゃ、遊園地の切符きりのバイトもできないよね」
鉢巻のように黒髪に布を巻きつけた、焦げ茶色の瞳に浅黒い肌をした少年がのんびりとしたコメントを出せば、肩に止まっている鸚鵡も相槌を打つ。
「バイトとは何だ?」
「日雇いのお金稼ぎかな」
一緒にいた黄土色の髪をした青年が尋ねてきたので、鸚鵡はそんなことを答えた。
「それよりも日差しが強くなってきましたわね。ユーリ、この布をかぶっておいた方がいいと思いますわ」
「ありがとう、リリアン。だけどそれ、女物でしょ。さすがに男の子がそういうのかぶってるのって変じゃない?」
「大丈夫ですわ。私が弟を案じてかけただけって誰もが分かりますもの。仲の良い姉弟みたいで羨ましがられてしまうかもしれません。こんな可愛らしい弟だなんて」
「まあ。ひどいわ、リリアン。それなら私達だって黒髪に染めたのに。やっぱり金髪より黒髪にしておくんだったかしら」
「えー。だけどガーネット達の白い髪ってやっぱり綺麗だもん。マジュネルの玄武さんもそうだけど、せっかく雪みたいな色を染めるのって勿体ないと思う。そりゃ金髪も似合うけど」
鸚鵡の主張に、ガーネットは赤い目を細めた。
「まあ。嬉しがらせを言ってくれるんですから、マーコットったら。ですけど、ヴィゴラス。こういう時は、男なんですからあなたが日よけになるぐらいはするものですわ。ちゃんとハールカにもそうして差し上げないといけませんよ」
「俺がそうするとユーリもマコトも逃げるのだ。ハルカは可愛らしく座っててくれるのに」
現在、ドラゴンとペガサスは、優理が打ち立てた「遥佳の為にヴィゴラスの性格を少し直しておきましょう」計画に賛同中である。
リリアンとガーネット、ヴィゴラスに護衛された優理と真琴は、優理が男の子っぽい格好にして肌もわざと浅黒い塗料を塗り、そうして真琴が鸚鵡の姿に変化することで、ディリライト諸島の小さな島々を観光していた。
「あのさぁ、ヴィゴラス。言わせてもらうけどヴィゴラスのあれ、日よけとか風よけなんて可愛いもんじゃないから。周りが見えないぐらいにまで人を包んでくるのってほとんど簀巻きって言うと思うんだよね。誰だって逃げるよ、それ」
「ハルカは逃げない」
「そりゃ遥佳は逃げないけど」
反論するヴィゴラスに、鸚鵡もそこは否定できない。
「しょうがないわよ。遥佳は心で周囲を見ちゃうんだもの。自分を包みこむ存在が全く自分に害意がないなら、安心してそのままになっちゃうわよ。だから遥佳が一番厄介なんだけど」
「厄介って何が? 単にとろいだけじゃないの?」
鸚鵡がひどいことを言う。
「嘘に耐えられなくなるってことよ。普通はね、誰だって心は一定しないの。どんなに好きでも、人なんて心は揺れるわ。
たとえば私、真琴の事は好きだけど、運動公園とかに行った時には全速力で遠ざかりたいって思うわけじゃない。ついでにマラソン大会なんて真琴が参加するのはいいけど私は巻き込まないで、迷惑って思うわね。
つまり、そういう時の真琴は鬱陶しいのよ」
「ひどい・・・。優理ってば、私のこと嫌いだったんだ」
「嫌いじゃないけど、全てにまで付き合いきれないわ。真琴だって私の参加したゲームなんて、説明を聞くなり逃げ出したじゃない」
「だってあんな難しいの、私には無理だもん」
「私だってあなたが参加するようなものは無理なのよ。それは仕方のないことよね。お互いに重ねられない領域ってのは誰だってあるのよ。愛情とは別にして」
少年にしか見えない姿で優理は呟く。
「だけど嫌いになったわけじゃない。それも分かってるし、私達はお互いに嘘を言わないから平気だわ。だけど遥佳は他人のそういう心の動きを、普通の人よりも敏感に受け止めてしまうの。だから傷つくのよ。それは仕方のないことだと分かっていても」
普通の人ならその場をやり過ごす為に嘘をついたりもするけれど、遥佳はその嘘を見抜いてしまうからと、優理は悲しそうに言った。
「先約があるから・・・。
その日は用事があるから・・・。
もう済ませてしまったから・・・。
そんな言い訳が嘘だと分かっていて、それでも気づかなかったフリをし続けるのは辛いことだわ。そしていつか、知っていて知らないフリをしていたと気づかれたら、遥佳が責められるんだもの。
相手が嘘をついた瞬間から、遥佳はその嘘を真実のように扱うという嘘をつかなきゃいけなくなるの。そうやって追い詰められていくんだわ」
「それってさあ、最初からみんな、嘘を言わなきゃいいだけだよね」
「他人の行動なんて、誰も強要できるものじゃないのよ、真琴。人の行動なんて縛れないわ」
なるほどと、鸚鵡は頷く。
「そうだね。優理だって私達がストップかけないよう、最初から何も言わずに動くもんね」
「・・・ぅぐ」
長い付き合いだからこそ、色々と思うことはあるわけで、話はどこまでも脱線していた。
「だけどさあ、サフィルスとラーナも来れば良かったのに。ルーシーはドモロールの人達といなきゃいけないから仕方ないにしても」
ディリライト諸島ではディリライト島が一番便利で賑やかだ。
しかし他の島々も、変わった形の湾岸により素敵な景色が広がっていたり、その島でしか採れない貝などが売られていたりして、とても楽しい。
『この星砂、とっても変わった色してる。これを小瓶に入れて、そうしておまじない効果があるとか言ったら売れそう』
優理など、元手は無料だからと、砂を大きな瓶に詰めていたぐらいである。
「仕方ありませんわ。今度は隠し通せない神子姫様の滞在ですもの。ラーナとサフィルスなら適当にあしらっておいてくれるでしょう。ユーリもどうぞご心配なさらないで。顔を隠していても、ラーナなら何とでも相手を翻弄できますから」
鸚鵡のぼやきを受けて、ガーネットは穏やかな表情で微笑んだ。
「それは言えるわね。顔を隠していても色気が滲み出てるんだもの。きっと無理を通して突撃してきた人達も、あんな色っぽい神子姫様がいたなら魂抜かれちゃうわよ。私、このままハールカ役はラーナにお願いしちゃおうかしら」
「それ、ディリライト家の人達が困ると思うよ、優理」
当の神子姫様は少年になってバカンスを楽しんでいるが、どうせその評価は遥佳につくものと思っているからどうでもいいと割り切っている。
「だけど私、結局カイトさんの顔、まだ見てないのよね。普通、自分の猫が勝手に持っていかれたなら様子ぐらい見に来るんじゃないかしら。実は完全に厄介者というか、タダ飯食らいというか、本気で穀つぶしだったんじゃないの、真琴?」
「そっ、そんなことないもんっ。カイト、私のこと大事にしてたもんっ」
うぐっと怯む鸚鵡を、ヴィゴラスはひょいっと優理の肩から取り上げた。
そして色鮮やかな羽毛を撫でる。
「よしよし。やっぱりそんな薄情なシルバータイガーより俺の方がいいだろう。大丈夫だ、マコト。俺ならマコトがどこかに連れていかれても、ちゃんと取り戻すからな」
「・・・・・・ふぇ」
ひくひくっと、鸚鵡の嘴が揺れる。
それはつまり、カイトの自分への愛は、ヴィゴラスの遥佳の次よりも薄いという意味なのだろうか。
実は内心、カイト、迎えに来てくれないかなと、密かに願っていた鸚鵡に、その言葉はぐさりとダメージを与えてくる。
「シルバータイガーは取り戻しにこないだろうが」
「・・・わぁあんっ。リリアーン」
「あまりマーコットを苛めるんじゃありませんよ、ヴィゴラス。ほら、いらっしゃい。マーコット」
ヴィゴラスから鸚鵡をリリアンは奪い取った。
自分の肩に止まらせて、そっと頭を撫でる。
「苛めてなんかいない。勝手にとっていくな。マコトは俺のだ」
女神とよく似た気配を持つ神子姫は、一緒にいるだけで心が穏やかになる存在だ。それを奪い取られたヴィゴラスは不機嫌そうに文句を言った。
「あら。あなたにはハールカがいるでしょう? あっちこっちに目移りする浮気男は嫌われるのにいいのかしら?」
えっ!? と、ヴィゴラスが黄緑色の瞳を真円にしてリリアンを見返した。
そこへお告げを語り出す巫女のような面持ちで、鸚鵡を肩に乗せたリリアンが諭し始める。
「男の浮気性を快く思う女はいないのよ、ヴィゴラス。そこは気をつけて差し上げないといけないわ。そういう男性と一緒にいるなんて恥ずかしいだけだもの。それってね、一緒にいる女性が物足りないって言っているようなものなんだから。あなた、まさかハールカが物足りないって皆に触れ回るつもりなの? 嫌われちゃうわよ」
「そ、そうなのか。気をつける。だが、・・・どうしよう。俺としてはハルカとマコトとユウリ殿とを三つ並べておくのが一番嬉しいのだが」
「その通りね。けれど、それは諦めないと駄目。ただでさえハールカに名付けてもらった幻獣なんてあなただけなのよ、ヴィゴラス。更にそこまで望むのは強欲というものだわ」
それというのも全てにおいて、自分達に名前をつけようとも思わない無神経幻獣族が悪いのだが。
大体、名前がなかっただなんてどこまでマイペースなのかと、呆れるしかないドラゴンとペガサスだ。
「宝を集めるのがグリフォンの本能。まさかそれをゲヨネルの民に否定されるとは・・・」
「それを言うなら、私達だってこんな宝玉達は隠しておきたいのよ。だけどしないでしょう? 幻獣の性癖より幻獣の決まりを優先しなくちゃいけないわ。そうでしょう?」
微笑むリリアンはいつも穏やかで優しいドラゴンだ。
優理の護衛として傍にいるヴィゴラスとうまくやる為、リリアンとガーネットが組んだのだが、それはまだラーナとサフィルスよりうまくいくだろうという思惑によるものだった。
それはどうやら正しい判断だったらしい。
(ここで少しでも同調したら、グリフォンのことだもの。自分の岩山に姫様方を全員連れていきかねないわ。本当にどうしてこう自分の欲望に忠実なのかしら。そのマイペースさはたまに羨ましくなるけど)
それでもやはり遠慮しているのか、ヴィゴラスは神子姫達に強要はしない。そこはきちんと弁えているようだった。
そういう意味で、一番厄介なのは人間なのだろう。
「なぜ、そこでドラゴンの話が出てくるのだ。俺はグリフォンであってドラゴンではない」
「大事なのは相手を尊重することだわ。全ての幻獣がそうしているならば、グリフォンもまた足並みを揃えなくては。ハールカのお心を悲しませない為にもね。あなたのせいでハールカに、自分のグリフォンが申し訳ないって思わせてしまうつもりなの? それってあなたがハールカを傷つけるってことよ」
「・・・努力する」
「きっとお喜びになるわ」
「うむ」
人質のように、二言目には「遥佳の為」を持ち出され、ヴィゴラスは着々と躾け直されていた。
ディリライトの海は、昼間は青く輝いていても、夜にはまるでインクを流しこんだように暗くなる。
ざざざざーっと絶え間なく響く潮騒は、まるで自分の心に何かを促しているかのようだ。だからとても落ち着かない気分にさせる。
それでもカイトは大きな樹の枝に座って見ていた。
その塔の周辺、それも海に面した側を。
(今日はどうなんだろうな。いいかげん諦めりゃいいのに)
このディリライトに再び神子姫ハールカが訪れたという知らせに、ディリライト諸島全てが沸き返ったのは先週のことだ。
早速、ドモロール王国から派遣されていた小隊長ドカートンも、ご機嫌伺いに行ったらしい。
そういったことがあまりにも負担となってしまったのだろう。連日、皆が押しかけてくるというので、繊細な神子姫は臥せってしまったとか。
その為、今は皆に自重するよう、ディリライト首長コウヤの公示が様々な場所に貼られている。
(だからこそ、今ならばと思う人間が出るわけだが)
カイトにも、ドモロール王国の宰相から凄まじい速さで連絡が届いている。何が何でもお連れするようにと。その為の眠り薬と一緒に。
それとは別に、ドモロール王国からはドカートンに、「礼を尽くし、我が王国にお招きするように」という命令も下っているらしい。
それは表面的な国王の命令ということだろう。どちらであっても神子姫さえ来てくれればいいのだろうが。
けれどもドモロール王国からの貢ぎ物は、現在、神子姫が誰とも会える状態ではないということと、ディリライト首長も勝手に預かることを拒否した為に、そのまま宿舎で留め置かれている。
他国からも色々な使者が贈り物を携えてやってきているようだが、会える状態ではないということで、手をこまねいているようだ。
(そうなると、一番に会いに行った小隊長が渡した猫だけが、唯一受け取ってもらえたものってことになるのか)
まさか本当に神子姫が来るとは思っていなかったカイトだ。いつ来てもいいように用意しながら、心の底ではもう現れないだろうと思っていた。
自分が作業に行っている間に小猫が献上されてしまったと知り、その夜、こっそりと塔が見える場所からその様子を窺っていれば、小猫は塔の前にある原っぱで黄土色の髪をした青年と遊んでいた。
木の枝で輪や地面に平行な棒を作り、それに火を点けてその青年と猫は、火に当たらぬよう飛び越えるのを競っていたらしい。
(そうだな。猫は三日で飼い主を忘れると・・・、って、猫っ、半日も経ってねえだろがっ!)
あれだけ面倒をみてやったのに薄情なものだとショックを受けたカイトだったが、可愛がられているのならばいいと思った。
いささか乱暴な遊びに思えたのは否定しないが。
その赤や白が混じった黄土色の髪をした男が、当たり前のように塔に出入りしている様子を見れば護衛かと思うところだが、護衛があんなにもリラックスしてだらだらと遊んでいるということはあり得ないから、恐らくディリライト邸の家人か縁者なのだろう。
肝心の神子姫ではない人間に可愛がられているのはどうかと思ったが、幸せならばいい。
(いきなり環境が変わって怖い思いをしてるんじゃないかと思ったらあれだしな。どこぞの曲芸団にでも入る気なのか、猫。どうして火の輪くぐりをしようと思うんだ、猫)
一度は訪れた塔で、自分ににゃーにゃー鳴いてしがみついてきたことを思い出し、辛い思いをしているのではないか、怖い思いをしているのではないかと案じていたというのに、所詮は猫だ。
思いっきり馴染んでいた。
(虚しい。なんで俺、こんなんばっかりなんだろう)
そんなことを思い返していたカイトの薄い水色の瞳に、海から舟で上陸する男達が映る。
色素の薄い肌は夜目にも目立つ。だから浅黒い肌になるように塗料をつけ、その上で黒い長袖の衣服を身につけていたカイトは、音を立てずに着地した。
カイトが流れるような動きで砂浜を移動すれば、舟は五艘、男達は二十人ときたものだ。
彼らはやはり塔が目的らしい。頷き合って塔へと移動していく。
(数が多すぎる。とりあえず舟を壊しておくか)
その舟に穴を開けておき、そうしてカイトは彼らの後を追った。
どうやら見つからぬように誰もが茂みなどに分散し、少しずつ塔へと近づいていく様子だ。それは時折、見回りをしているディリライト兵士達に気づかれぬ為だろう。
カイトは背後から彼らを襲い、順番に気絶させていった。
(どんどん数が増えてくな。俺のせいか)
今までは、せいぜい数人程度だった。だが、やはり結果が出せないことに焦れたのか。こうならぬよう、殺しておくべきだったのか。
そんなことを思っていたカイトだが、彼らもまた仲間がいないという異変に気づいたらしい。
塔に向かうより仲間を探すことを優先し、そうして倒れている男達を発見した。
「何者だっ」
一気に緊張した声が闇の中に響き、彼らがその手に刃物を持ったのが分かる。
カイトはあえて動かなかった。多勢に無勢で、自分の位置を知らせるなど愚行だ。
(しょうがねえ。もう、無理だ)
彼らには見えなくても、カイトにはその動きが分かる。息を潜めようと、暗闇に紛れようと。
だから持っていたナイフを彼らの心臓や首にめがけて飛ばしていった。
「んぐっ」
「ごふぉっ」
次々と倒れていく仲間の様子に、木の陰にいて攻撃しにくかった男達が、事態を察する。
「何者だっ。神子姫様を狙おうという不届き者がっ」
さすがにカイトも呆れてしまった。
「そりゃてめえらだろうが。こんな夜中に、武器を持って男が二十人。それで夜這いとか言うつもりかよ」
布のせいでくぐもったカイトの声は、本来よりも年上に思わせたことだろう。
(あと六人か。結構きついな)
だが、返事があったことで少し落ち着きを取り戻したらしい男が、言葉を続ける。
「それはお前らだろう。我らは神子姫様を陰ながらお守りする聖なる戦士であるっ。貴様のような薄汚れた者共とは違うっ」
これは引っ掛けかと、カイトは思った。だから落ち着いた口調で言い捨てる。
「ならば立ち去るがいい。我らは神子姫様の穏やかな日々を守る為、警備している。何もせずに戻るならば見逃してやろう。だが、まだ居続けるというのであれば、その姿が神子姫様の目に入る前に始末する」
そうして素早く位置を移動して、近くの木の枝へと音もなく跳躍する。飛び移った先の枝と一体化して気配を消したカイトは、彼らの気配を探った。
先程の問いかけも、カイトが単独か複数かを知ろうとしただけだろう。
(さすがはここまで送りこまれてきただけはある。俺の位置を、声から見極めようとしていたか)
カイトが先程までいた位置を中心に、様々な刃物が投げつけられている。
さっさと立ち去れと言われて立ち去るものでもあるまいが、そもそも闇に紛れて侵入しておいて何が聖なる戦士だ。
(しょうがねえ。今夜は殺しにまで発展しちまったな)
今まではせいぜい気絶させる程度ですんでいた。だから彼らも数時間後には目を覚まし、そうして逃げ帰っていたのだ。
生かして帰す以上、これは覚悟しなくてはならなかったのか。
そんなことを思いながら、カイトは六人の動きをそれぞれに把握し、順々に始末していった。
「うわぁあっ」
「くそぉっ」
「逃げてくださいっ! ここに・・・ぐぇっ」
さすがに警戒状態にあった彼らの急所を狙うのは厳しく、どうしても位置はずれたが、その為に、無駄な血飛沫や悲鳴があがる。
「貴様っ、・・・ぐぉっ」
やがて周囲に動ける者がいなくなったと判断したカイトは、この死体をどうするべきかと考えこむ。
(いや、このまま置いていくか。目を覚ました奴が回収するにせよ、血痕は残る。ディリライト邸でも警護に力を入れるだろう)
犯人探しも行われるだろうが、カイトとて毎回うまく始末し続けられるとは限らない。
どうせ宰相の依頼など最初から裏切る気だったのだから、命令を達成できなくても問題なかった。
この血臭も落とさねばならない。
カイトは海を泳いで帰ろうと決め、歩きだした。
(他に誰か来たとしても、この死体を見りゃ即座に戻る筈だ)
だが、そこで風の動きが変わる。
海ではよく風の流れが不意に止んで、そうして全く違う方向から吹き始めるのだが、まさに今まで風下だった方が風上になったのだ。
(・・・っ!!)
それに気づき、カイトの体が大きく跳ねる。そうして高い木の枝へとジャンプを繰り返したカイトは、その身を枝葉の中に隠した。
気づかれたことに気づいたのだろう。一人の女が近づいてくる。
「あらあら。ごめんなさい。見物に徹するつもりだったのですけど。下りてきてくださいな、カイトさん」
転がっている死体を気にしない神経の太さは見事なものだ。
「下りてきてくださらないなら、明日、小隊長の前で声をかけようかしら。
『昨夜は、神子姫様の塔の前で何をしてらしたの?』
なんて。きっと楽しい騒ぎになるでしょうね。ああ、マーコットを迎えに行ったとでも言ってみます?」
この女なら確実にやるなと、カイトは思った。
「あ。私を口封じで殺そうとするなら、先に言ってくださいね。全力でお相手しますから」
カイトは諦めて、自分のいる木の真下まで近寄ってきていたルーシーの前にすたっと飛び下りる。
「ルース殿。あなたは一体なぜここへ? やはり神子姫様をお連れしようと?」
「まさか。私が姫様のご意思を無視することはありませんわ。それより、どうして帰ろうとしているんです? どうせなら姫様にお会いして、自分がこれだけやったんだって売りこんだらよろしいんじゃありません?」
ドモロール王国軍のディリライト派遣隊に、カイトのすぐ後で配属されてきた女兵士。
だからこそ誰かの息がかかっている筈だと、カイトは睨んでいる。
「毎晩毎晩ご苦労ですこと。そこまでして、どうして何も言おうとしないんです?」
「・・・ルース殿。本当にあなたは、ただ居ただけなのか? ならば一緒にいる人達は何だ? それこそ俺を油断させて、あの方を誘拐しようと思っているだけじゃないのか?」
カイトは、ルーシーの後方にいる存在に気づいていた。
「何だと言われても・・・。友人ですわ」
「無理のある設定だな。どれもこれもかなりの手練れを揃えておいて、何がお友達だ」
ルーシーの後方、それこそカイトの動きを風下で見ていたであろう存在はどれも強いと、カイトは感じていた。
「その言葉、そっくりお返ししますわ。ドモロール王国軍に属しておきながら、小隊長の命令でもないのに何をやっているのかしら。そんなあなたを、誰が信じると思います?」
フッと、カイトの口元で空気が揺れる。
「生憎と俺ぁ、誰に何を信じてもらいてぇなんざ思いもしてないんでね」
カイトの言葉が一気に喧嘩を売るものになったことにルーシーも気づく。
それで怯むかどうか、ルーシーの反応をカイトは見ているのだ。
「私もですわ。自分の信念に従うってそういうことでしょう?」
その自信満々な態度に、これはと思ったのだろう。
疾風の如き速さでカイトが大きく振りおろしてきた剣を、ルーシーは素早く抜いた剣で受け止めた。
ガッキーンと、かなり嫌な音が響き渡る。
(私の受け止める速さも測っていたのね。何とも人のいい男だこと)
そして、この剣をぶれずに受け止められた時点でルーシーの膂力は見事なものだと、カイトは己の眼力が正しかったことを知った。
互いの呼吸と共に、背後へ飛び退った二人が向き合う。
「やり合いたくはねえが、しょうがねえか」
「そうですわね。あなた、素直じゃないんですもの」
「ぬかせっ」
あまり得意ではないが、カイトも大剣は扱える。
ルーシーの持っている物もかなりの厚みがあるものだと見てとっていたカイトは、大きく叩きつけるようにしてルーシーへと斬りかかった。
それを予想していたルーシーが再び切り結んだ為、周囲には、グィンッ、ガァンッと嫌な金属音が響き渡る。
「俺、この音、嫌だ。だから帰る」
何か行動する際にはちゃんと理由を説明しなくちゃいけないのだと何度も怒られ、今ではきちんと言えるようになった青年が、鼻に皺を寄せてぼやくように言った。
「何を言ってるの。ちゃんと見てなきゃ駄目でしょう」
「見る必要などない。わざと音を立ててるんだぞ。嫌がらせにも程がある」
木の陰から見ていたヴィゴラスは、そう言って塔へと戻ってしまった。
(ヴィゴラスにも困ったものね。理由さえ言えば何をしてもいいと、そんな解釈をしてなければいいんだけど)
リリアンは疲れた顔で首を振る。
たしかにカイトはルーシーに対して凄い力で何度も斬りつけているが、あれは防ぐことを見越してのことだ。どの程度の速さとどの程度の重さならば怪我をしないか、最初の剣で呼吸を測ったのだろう。
まさに周囲へ刃毀れした金属片が飛び散る程に、二人は凄まじい力でぶつかっていた。
ルーシーも兵士として人間の中に紛れていることにストレスが溜まっていたらしい。
適当な死体から剣を奪うと、二刀流で応戦どころか自分からも斬りかかる。カイトもそれに合わせ、同じように二つの剣を使い始めた。
(あの二人ってば・・・。あれ、絶対楽しんでやってるわよね)
できればリリアンだって塔に帰りたい。
金属がぶつかり合って生み出される不協和音はとても耳に不愉快だ。しかし、二人を放置しておくわけにもいかなかった。
あまりにも大きな音を立てて、二人は打ち合っている。それこそ、普通の人ならば肩が脱臼するに違いない迫力だ。
幾つかの剣は、根元から折れた。
(チッ。おかしい。どうして誰も来ない?)
カイトは、素早く次の武器を調達しながら、そんなことを思う。慌てて剣を奪い取ったので、気絶していた男の背中を思いっきり踏んだりもした。
「ぐぇげっ」
蛙が潰れるかのような声があがる。
だが、カイトにはそんなことよりもこの異常さが気にかかった。
普通、ここまで騒ぎを起こしているというのに。
(いくら神子姫が静かな環境を好んだとしても、ここまで警備の手を抜くものか?)
そこへ、闇を切り裂くような悲鳴があがる。
「きゃーっ。マーコット、駄目ぇっ! 危険よっ」
それは塔から駆けてきた小猫を追いかけてきた金髪の女性から発せられたものだった。
そこは、カイトとルーシーも油断していたと言っていい。
見物していたヴィゴラスとリリアンはそれなりに強いから邪魔しないと分かっていた。
だから、そんな無防備に割りこんで入ってくる存在がいるとは思いもしていなかったのである。
「猫っ!?」
「マー・・・っ!!」
両手にある剣を引こうとして、それが間に合わず猫に当たると判断した二人は、いっそ剣を手放そうとした。
ガキャーンッ、グワン、グウォンッと、誰もが耳をふさぎたくなるような音が響き渡り、そうなると剣が大きく制御不能で空を飛ぶ。
(無理だっ!)
(間に合わないわっ)
そうと知って即座に小猫を体で庇ったカイトとルーシーの頭上で、落ちてくる筈だった剣は落ちてこなかった。
「へ?」
「え?」
「・・・にゃ?」
まるで空中に床があるかのように、剣は頭上で浮遊していた。
カイトとルーシーに覆われた小猫が、きょとんとしたような顔になっている。
「にゃー」
そして、カイトの鼻先をちろりと舐めた。
「あっぶなかったぁ」
「全くだ」
塔の窓から見ていた優理が安堵した吐息と共にぼやけば、ヴィゴラスもまた同意する。
「違うでしょ、ヴィー。『全くだ』じゃないわよ。カイトさんが来てたならどうして教えに来てくれなかったの。だからほら、マーコットってばあんなに慌てて出ていっちゃったんじゃない」
「伝えた途端に駆け出していくなら、気づいた時点で伝えるのはまずいだろう。あの時、あの男は侵入者達を殺していたんだぞ。そんな所へマーコットを行かせたら可哀想ではないか」
「そういう問題かしら」
そんなやりとりにタイキとカシマ、そしてケイトも顔を見合わせる。
「ちょっと待ってちょうだい。カイトさんって、彼のこと知ってたの? ユーリ、えっと、今はハールカって呼ぶの? もうっ、面倒臭いわねっ」
「知らないけど、知ってたわ」
わけのわからない優理の返答に、タイキもぽりぽりと頭を掻く。
(やっぱりかぁ。敵じゃないと判断しといて良かったよ。あと少しで父上から馬鹿にされるとこだった)
だが、弟妹はまだカイトを要警戒対象者として見ていたのだ。
ここで何か言おうものなら、何故言わなかったのかと、妹の怒りが炸裂することがタイキも分かっている。
「兄上。もうユーリ、どうにかしてくれよ。あり得ねえ。ハールカならあり得ねえだろ。なんでこんなに同じ顔で違うんだよ」
カシマがタイキに向かって疲れた顔で訴えた。
「顔と性格は別物だぞ、カシマ」
侵入者に気づいたヴィゴラス達が塔から出ていったものだから、タイキ達も兵士達を呼ぼうとしたら、優理から止められたのだ。
『ヴィー達は強いから呼ぶ必要はないわよ。それどころか足手まといね』
だから皆で内輪の宴会を続けていたのだが、さすがにガキッ、ギィンッといった音が大きく響いてきたものだから、これを放置し続けていいものかと迷っていたところに、これである。
『カイトって男、あんな音を立てるのは嫌がらせだ。窓を閉める』
一人で戻ってきたヴィゴラスがぼやいた言葉を聞いた小猫が飛び出して行ってしまい、慌てて窓から身を乗り出した優理が剣を空中停止させたのだった。
「考えてみりゃ、あんだけの剣戟が聞こえてきていた時点で俺達も行くべきだったんだな。ああ、人任せにすべきじゃなかった」
「終わった後で言っても仕方ないだろう、カシマ。何にせよ、ルースさんにも怪我がなかったならそれで良かったよ」
小猫を庇ってしまったカイトは丸腰で、あそこには余力たっぷりなリリアンがいる。
「馬鹿だな、あいつ。猫ぐらい見捨てろよ。そうでなきゃ勝てねえぜ。戦いには役立たずだな」
「いいじゃないか。猫の為に剣を放り出せる人なんだろ」
カシマがどこか笑みを含んだ声で言えば、タイキも穏やかに口の端を上げる。
ルーシーは立ち上がったが、カイトはリリアンに首元へと剣を突きつけられていた。
小猫はカイトの肩に乗って、その顔を覆っていた布をちょいちょいと爪で引っ掛けて外している。
どうやら顔が隠れているのが嫌だったらしい。
「マーコットを庇ったことは褒めて差し上げます。いい夜ですわね。私はリリアンと申します。ちょっとお茶でもいかがかしら?」
「拒否権はないんだろう?」
さすがにここで、「じゃあ、さようなら」となる筈がない。
剣を突きつけられたカイトは塔までやってくると、その場にいた面々を見て、目を丸くした。
「こんばんは。カイトさん、いい夜ですね。変装も見事なものだ。そりゃ髪も肌も染めてしまえば、目の色だなんて夜には気づかれないですよね」
「初めまして、か。ディリライトのカシマだ。よろしくな」
ディリライト家の跡継ぎ兄弟は、ディリライト邸の敷地内だから当然かもしれない。
だが、カイトに剣を突きつけている女に見覚えがあったこともさることながら、そこにはカイトに鳥籠入りの小猫を押しつけた黒髪の美女がにこやかに微笑んでいた。
そうしてディリライト家の兄弟に挟まれて座っている快活そうな娘が、ふふっと笑う。
「こんばんは。私がハールカですわ」
「嘘だな。・・・何を考えている。神子姫の名を騙った詐欺か」
カイトがその娘を睨みつければ、鼻白んだ顔になった。
「あら。本当に分かってるみたいね。一瞬も考えてくれなかったわ」
タイキとカシマも、何だかなぁという顔になる。
「だから言ったでしょ。彼に身代わりはきかないって」
そう言って扉を開けて入ってきた少年の姿を見て、初めてカイトは表情を和らげた。
頭に鉢巻のような布を巻きつけているせいで短髪に見えたその顔は、とても懐かしい面影そのものだったからだ。
「マコ・・・」
そうして一歩近づこうとする。
それは、出会った時の真琴の姿そのままだった。
だが、そこでその少年が真琴じゃないことにハッと思い至ったカイトは首を横に振って、小猫を片腕に抱えたままその場に片膝をつく。
「ユウリ様。なぜ、そんな嘘を?」
「あなたにも分かってしまうのね。私がハールカじゃないって」
「いくら同じ顔でも、あのお方では少年の格好には無理があります」
「それは言えるわね。だけど今、私はハールカなのよ。そう呼んでちょうだい」
「はい」
「それからお願いだから立ち上がってちょうだい。偉いのは母であって、私達じゃないわ。何も成し遂げていない人間に敬意などはらう必要はないの」
「・・・ですが」
「いいから。あなたに感謝してるのはハールカだけじゃないわ。私もずっとお礼を言いたかったの。だから本当に敬語は使わないで」
カイトの腕をぐいぐいと引っ張って立たせると、優理はカイトを間近でじーっと見上げてくる。
「あの、・・・何か?」
そういう仕草は、真琴によく似ていた。
戸惑いながらも、顔はそっくりなので、つい撫でたくなる気持ちを抑えて、カイトは尋ねる。
「ううん。あなたのこと、お父さんに似てるっていう話だったけど、全然似てないわ」
「はあ」
「容姿でも性格でもなく体格で判断するだなんて、あの子、やっぱり私達と感性が違いすぎるのよ」
「・・・・・・」
「ハールカだって、お父さんみたいにお茶目なタイプじゃないって言ってたし、そんなことだろうと思ってたわ。やっぱりそう思うの、あの子だけなのよね」
「・・・・・・」
ふぅっと唇を尖らせて溜め息をついた優理は、一体何を期待していたのだろう。
(同じ顔でも、本気で性格は違うんだな)
カイトはしみじみとそう思った。
そんなカイトの血が飛び散った服に気づき、優理は申し訳なさそうな顔になる。
「かなり服も汚れちゃったのね。ごめんなさい、私の為に」
「これは別に。そういうわけではありません」
「ううん。ここ数日、ずっと私を守ってくれてたでしょ。シルフが教えてくれたわ。だから本当は会いに来てくれないかなって、ずっと待ってたんだけど」
「シルフが・・・。たしかにそれでは隠し事はできませんね」
隠し事というものを全てにおいて無にしてくれる存在がいることを、カイトは知った。
洗濯物を乾燥させることと、船の進行を手助けすること以外にも役立つ存在だったのか。
「ええ。・・・ところで敬語が要らないっていうのと、待ってたのに来てくれなかったってとこ、ここでスルーしちゃうの?」
そんなカイトに、優理はねだるような甘えた顔で見上げてくる。
「カイトさんだって、私が母の子じゃなかったら敬語つかわないでしょ? それでいいのに。ハールカのことだって普通に呼んでたわよね?」
「・・・分かった。なるべく気をつけよう」
「うんっ」
安心したように笑う顔は、本当に真琴そっくりだった。
自覚のないまま、カイトはその黒髪を撫でる。
くすぐったそうに目を細めて嬉しそうに笑うから、懐かしさに胸が締めつけられた。
「それよりね、あのね、カイトさん。教えてほしいなぁ。私って幾らになるの?」
「え?」
「私を連れていくと、幾らになるの? せっかくだから教えて。相場が知りたいの」
「そんなこと、知る必要は・・・。そんなこと、知らなくていい。あんな薄汚れた世界など」
その顔を見ているのが辛くて、カイトは優理の斜め横へと視線をずらす。
好奇心を隠さないその顔は、あまりにも似すぎていた。
「ぶーっ。もうっ、カイトってばすぐそれっ。だけどそれってさぁ、私の知る権利を侵害してると思うんだよねっ」
「え?」
「ひどいよっ。ちょっとユーリっぽくしてただけで、私が分からなくなるなんてっ」
「・・・え? まさか・・・」
少し拗ねた感じで不満をアピールする声。
肩にいる小猫が、何かを抗議するかのようにふみゃみゃみゃっと変な鳴き声をたてる。
何かというと、あの大陸間を渡る船の中で、真琴はそう主張したものだった。
「それにカイト、横暴なんだよっ。いっつも黙って守ってくれるばかりでっ」
「そんなの、・・・当たり前だろう」
まさかここにいるのは子供に戻ってしまった真琴なのだろうか。
カイトの心が揺れていく。
(だが、日中も大人になってからは完全に・・・)
そんな筈はない。だが、真琴は大人と子供を繰り返してもいた。
何よりもここまで無防備に抱きついてくる存在など、一人しかいない。
「だけど私が知らないままでいるのっておかしいよ。だって、・・・だってカイト、ずっと私と一緒にいてくれるんでしょ? ならっ、私も知っとくべきだって思うしっ」
「・・・え。いや、まさか」
カイトの腕にしがみつきながら見上げてくる表情は、とても懐かしいものだった。
強気で自分の要求を伝えながら、それでも今にも泣き出しそうに焦げ茶色の瞳を潤ませる。
――― お前が一番大事だ。もう、一人にはしない。
何度、不安そうな子供を抱きしめて眠ったことだろう。
いつもその表情は不安を内包して揺れているから、だから大切に育ててやりたかった。
「まさかじゃないもんっ。私が話してるのにっ、カイト、全然聞いてないっ」
「って・・・」
いつだってカイトを見つければ駆け寄って抱きついてくる子供。
カイトが何度も愛している、大事だと伝えて、そうしてやっと安心して眠った。
(ああ、本当にお前は、・・・どうしてそうなんだ)
カイトがその頬へ手を伸ばせば、くすぐったそうに片目を細める。
そのタイミングは、真琴以外の誰でもない。
「馬鹿だな、お前は」
「馬鹿じゃないもんっ。カイトの馬鹿っ」
知らないことは目を丸くして知りたがって、すぐに「大人だもん」と二言目には言い返して、だけど手間だけかかる後始末だけを残してくれては、何もなかったかのように抱きついてくる子供と暮らし始めて、カイトは幸せを知った。
「俺がお前の話を聞いてないことなどない。なのにどうして、お前は俺の言うことを聞かずにやらかしてるんだ」
ぶーっと、自分に向かって唇を突き出してくるその表情は、とても慣れ親しんでいて、時が一瞬にして巻き戻されていく。
「カイトが一人でドモロール軍まで入りこむのが悪いんだもんっ」
「んなの、終わったら全部潰してくるに決まってるだろ」
「怖いこと、・・・するの?」
カイトの手が覚えているままの黒髪と、不安そうに見上げてくる瞳。
目の前にいるのは優理ではなく、子供にまた戻ってしまった真琴なのか。
(どういう状態なんだ。体が子供に戻ったということは、記憶も混乱しているということなのか。それも一時的なものなのか。それとも・・・)
まさかと思うが、記憶まで昔に戻ってしまったのか。今のこの子供はどういう状態なのだろう。
カイトの心がぐらぐらと揺れる。
「どうしてお前が、・・・なのにこんな所にいて」
「カイトがいたから悪いんだもんっ」
懐かしい大陸を渡る船での日々を思い出し、カイトは優理を抱きしめずにはいられなかった。
初めての群れの子供は、あまりにも獣人としては出来損ないで、そんなことすらどうでもいいぐらいに皆から愛されていた。
「もう怪我するようなことはしないって、約束しただろう」
「してないよ?」
腕の中で言い返すのはいつものことだ。
船員の誰もが獣人や魔物だったりするだから、危険というボーダーが違いすぎるというのに。
「嘘つけ。お前は考えなしすぎる」
皆に可愛がられているのだから安心だろうと思って目を離せば、すぐに危ないことを、「大丈夫だよ」とか言ってやらかしてくれるその行動に、どれだけ慌てさせられたことだろう。
ロープさえつけていれば海でも泳げるのではないかと言い出した時には、どれくらいお説教したことか。
こうして腕の中に包みこめば、懐かしいまっすぐな黒髪がさらりと頬に触れていく。
「むぅっ」
「むぅじゃない」
「じゃあ、抱っこ」
「なんでそうなる」
そう言いながらカイトが抱きあげれば、いつものように首に抱きついてくるから額にキスをして、背中をぽんぽんと撫でた。
「本当にどうしようもない甘えっこだな」
「ぶー」
「いいから子供は遊んで食べて寝て大きくなれ。クソなんぞ、知らなくていいんだ」
ああ、そうだ。
薄い色彩が多い北の国で生まれ育った自分とて黒髪を見たことがなかったわけじゃない。けれども一緒に暮らし始めて、そうして自分は闇に溶けるこの色を綺麗だと知った。
「うん。・・・ごめんなさい」
「ああ」
「嫌いになる・・・?」
こうして悪いことをしたと分かったらすぐに謝る素直さを、今も愛している。
だから、いつだってその瞳の奥に揺れる不安を取り除いてやりたかった。
「ならないよ。世界で一番愛してる。お前だけが大事だ。だから危ないことに興味なんて持つな」
「・・・うん。カイト、大好き」
「愛してるよ」
耳元で囁かれる低く優しい声の響きに、なるほどと優理も思う。
ちょっと真琴の真似をしただけでコレだ。
(なんで真琴ばっかり甘やかされてるのかしら。信じらんない。とはいえ、たしかに体格はお父さんに似てるかも。本当に筋肉固いって感じ)
自分なんて皆のおさんどんをやっているというのに。
まずいご飯を食べさせられるぐらいなら、それはそれで構わないのだが、どうして真琴ばかりがお世話される側なのか。
あまりにも不公平ではないだろうか。
(しかもあの真琴相手にこの甘やかしぶりって何なの? 普通、男の人だからこそ一緒に危険なことに連れていきそうなのに)
けれども、そんな時間も長くは続かない。
「きゃーっ、痛いっ、痛いってばっ。ペシペシしないでよっ、マーコットの馬鹿っ」
「ふみゃみゃっ、んみゃっ」
軽く爪を出した猫にパシパシと頭を叩かれ、優理が悲鳴をあげる羽目になったからだ。
それで正気を取り戻したカイトも、ばっと体を離す。
「え? ちょっと待ってくれよ。どーゆーことさ、これ。兄上、分かる?」
「分かるが、何だか馬鹿らしくなってきた」
「同感だわ。私、ハールカが懐かしくなってきちゃった。毎日、居眠りしてくれていたことがどれだけ有り難かったことか。人って、失われて初めてその価値を知るのね」
ディリライトの三兄妹が疲れた顔になるなら、ヴィゴラスは少し不機嫌そうな顔になっていた。
大体、優理と真琴を両手に抱えて楽しんでいたいのは自分なのに、どうしてカイトだけがそんな楽しいひとときを甘受しているのか。
「あいつだって浮気してるぞ。だからあいつも嫌われるんだな?」
だからヴィゴラスはリリアンに問いかける。
「この場合は違うんじゃないかしら。同じ顔してたから騙されちゃったのね」
「不公平だ。あいつの方がひどいじゃないか」
自分の口元に片手を当てて、カイトはこの状況を整理しようとした。
「え? って・・・」
「ごめんなさい。そんなに似てた?」
「・・・わざとかよ」
「はい。ちょっと真似っこしてみました。何と言っても同じおうちで生まれ育った私達三人、お互いのフリは大得意なのです」
「勘弁してくれ」
何故俺がこんな目にと、言えるものならカイトは言いたかった。
「ところで、この猫の名は・・・」
「ああ、聞いたわ。この猫にマーコットって名付けてくれたんでしょ? とても嬉しいわ。おかげで一緒にいる気持ちになれたもの」
「ご不快でないなら・・・」
「なるわけないわ。この子も気に入ってるし、私も気に入ってるから」
「はあ」
自分の姉妹の名前を小猫につけられて本当に不快じゃないのかと、カイトは悩んだが、気にしていないというだけあって、優理は自分の腕に移ってきた小猫の頭を撫でながら、
「ごめんごめん。だからそう怒らないでよ」
と、平謝りしている。
(子供の気持ちは分からん。何がしたかったんだ?)
カイトは一気に年を取った気分でそう思うことにした。
けれどもその小猫を押しつけてきた黒髪の姉妹がここにいるというのはどういうことか。
「ところで、そちらの女性は・・・」
カイトが、ラーナとリリアンをちらりと見ながら優理に話しかければ、ラーナが前へと進み出る。
「あの時は名乗りもせずに失礼いたしました、カイトさん。実は私、ユーリ姫様にお仕えする者なのですけど、先に下見でこちらへ参りましたら、不審な動きをしているあなたに気づきまして・・・。だから、その小猫をあなたの所へ送りこんだのです」
カイトは愕然とした表情でラーナと小猫を見た。
「とても賢い小猫でしょう? あなたが本当に神子姫様に対して危害を加えるつもりがあるのかないのか、それを知ろうと思ってのことでした。申し訳ありません。許してくれるかしら?」
「いえ、そういうことでしたか。たしかに俺の動きが知られていたならば、それは当然のことでしょう。実際に俺はその依頼を受けています」
とっくに自分の情報は把握されていたようだと気づいたカイトだ。
だからあっさりと自白すれば、優理が小猫を撫でながら提案してくる。
「そうなのよね。ところでカイトさん、その成功報酬って幾ら?」
「は?」
「協力するということで苦労無しでしょ? 私とロクヨンってどうかしら? 強欲だと思われるかもしれないけど、私もね、ほら、分け合う必要があるものだから」
「・・・はい?」
カイトは、自分が何を言われているか分からなかった。
うふふと笑いながら、優理は詳しく言い直す。
「その成功報酬の六割を私、カイトさん四割ってどうかしら。その代わり、私、ちゃんと協力して誘拐されてあげるから、とっても簡単に終わるわよ。ね? それからお願いがあるの。これを達成したらカイトさん、名前が売れちゃうでしょ? それなんだけど、カイトさん、ちょっとした人材を派遣する組合に属していることにしてくれない?」
「確かに俺は、運び屋の組合に属していますが・・・」
「それじゃなくて。そっちの名前は出さないでほしいの。今回は、とある組合に属しているカイトさんは、なんと神子姫の誘拐をも成し遂げた凄腕ってことで話を作ってほしいのよね」
「つまりわざと誘拐されて、しかも嘘の攪乱情報を流すと?」
「その通りですっ。やっぱりカイトさんってば話が早くて素敵っ。有能って財産よねっ」
カイトは思った。
たしかにこれは真琴じゃないと。
「広告って大事なのよ。やっぱりここは派手にいかないと」
けれどもカイトに何が言えただろう。
「俺にできることなら・・・」
「勿論よ。あなただからできる。ううん、あなたにしかできないわ。私、この依頼を受けてくれたのがカイトさんで良かったって思ってる」
「はあ・・・?」
「だって他の人なら変な神子姫様幻想があるし、ラーナやルーシー達にも鼻の下伸ばして実力を見誤ってドジ踏んでくれそうじゃない? その点、カイトさんの実行能力は折り紙つき。となれば、これで完璧っ。狂言誘拐ってばれなければ、私、思いっきり被害者よね?」
「はあ」
小猫を腕に抱えた、かつての真琴そっくりな少年らしき少女は、握り拳を作ってガッツポーズをしている。
「これであの国王も逃げられないわっ。やっぱり独占企業に尽きるわよねっ」
カイトは、これは悪い夢だと、できることなら思いたかった。
小猫は、信じていた。
わざわざ夜にこっそりと塔へ来てくれたのは、自分を迎えに来てくれたのだと。
そして何故かルーシーとチャンバラごっこをしていたけれども、自分を見るなり抱きしめてくれたのは、やはり愛されていたからなのだと。
なのに、これはどういうことなのか。
「宰相の指示によると、あなたに眠り薬を飲ませ、彼ら曰く、ハールカ姫が愛しているキマリー国王子との再会の為、秘密裏にお連れするようにと。ですが、あの薬は恐らく思考能力を落とす成分も入っているでしょう」
「そうね。その友情と愛情とのはき違えについてはともかく、カイトさん、どういうルートで私を連れ出すつもりだったの?」
先程の真琴の真似が悪かったらしい。
一気に優理に対して丁寧に語るようになったカイトは、それで距離を置いてくる。
それでも大切な真琴の姉妹だと思っているからか、情報は詳細だった。
「ハールカ姫ならグリフォンが同行しているものと思っていましたので。あのグリフォンが強く頼りになるのは分かっていましたし、だから接触して事情を話し、ハールカ姫を連れて逃げてもらうつもりでした。同行していなくても後で合流することを考え、近くの島に隠れる場所を確保してあります。グリフォンがいない場合にも、そこから舟で脱出する手筈は整えてありますが、それはあくまでハールカ姫をご要望通りの場所へとお連れする手段です。用意していたルートもギバティ王国方面に向けていました」
小猫を肩に乗せて優理と同じソファに座って話しているカイトに、
(どうしてあいつばかりがいい思いをしているのだ)
と、かなり不機嫌だったヴィゴラスだが、そこでちょっと耳がぴくぴく反応する。
「グリフォンは強く頼りになるそうだぞ」
だからヴィゴラスは横にいたリリアンに向かって言った。
「だけど一緒にいないことを考えている時点で、完全には信頼されていなかったのね」
「・・・お前らなんて嫌いだ」
やはり遥佳に会いたいと、ヴィゴラスは思った。
(ハルカなら俺が一人占めしてもいいのに。なんでシルバータイガーだけが・・・)
そんなカイトは肩に乗せた小猫を撫でながら、優理の横に座っている。正しくは優理が横に座ったとも言う。
勿論、カイトとて、ギバティ王国行きがドモロール王国行きになったところでどうとでもできる。
けれども、できれば優理には思いとどまってほしかった。
「ユーリ様。何かあってからでは遅いのです。こういったことを計画されたのが気に入らないというのでしたら、彼らは俺が潰してきましょう。お金が必要だというのならばどうにでも調達します。危ないことに興味など持たず、どうか安全な場所で過ごしていてくれませんか?」
何となくそれは言われるだろうなと思っていた優理だ。
だから同じソファに座ったのである。
優理は、自分の外見がかなりカイトに対して有力であることを知ってしまった。
「大丈夫。だって、これからの毎日を怯えて暮らしていくなんて辛いだけだもの。それぐらいなら、カイトさんが協力してくれる状態でやるのが、一番成功率が高いでしょ? それに・・・」
「それに?」
「今、私がやっておけば、二人とも安心して暮らせるじゃない」
健気にも笑ってみせる。
カイトは無意識なのだろうが、右手を伸ばして優理の頭をそっと撫でてきた。
(ちょろいわ、カイトさん)
ちょっと甘えるような表情をすれば、それだけで抱きしめられて背中をぽんぽんと撫でられ、カイトは何かを考え始める。
真琴にやっていたことを無意識の内にしているだけらしい。
「なら、せめて身代わりを立てましょう」
「無理。だってハールカの顔を知ってる人がいる筈だもの。・・・だけどね」
ここで咽喉の奥に力をこめて、頬を赤くして泣くのを堪えているかのように見せかけるのがコツだ。
カイトの膝の上で、優理は明るく言ってみせた。
「ハールカ達には、させられない。怖くなんてないわ。だってお姉ちゃんだもの」
驚いたように、カイトの薄い色合いの瞳が見開かれる。
ぎゅっと優理を抱きしめて自分の胸元に顔を埋めさせると、下を向いて口の中で小さく、子供にここまで決意させるかと、苦々しく呟いた。
(ありがとう、シルフさん達っ。あなた達の諜報能力のおかげで大助かりですっ。ありがとう、カイトさんっ。あなたがそういう人で良かった・・・!)
けれどもカイトが腕を緩めた時には、あくまで穏やかに微笑んでくる。
子供には何一つ負担させまいとするその姿勢が、何かと身勝手な男達に囲まれていた優理の心を慰めていった。
(凄いわ、マジュネル大陸。本当に子供は保護されちゃうのね)
神子姫だからとか、女の子だからとか、そういう理由ではなく、ただ当たり前のように子供は守られて当然とする、・・・うん、これは愛だ。
「俺の命に代えようとも・・・。あなたには髪の毛一筋たりとも危害を加えさせません。お約束いたしましょう」
真琴と違って、最初から優理は女神の子供と分かっているからだろう。その意見を一蹴することなく、カイトは優理の意思を優先する。
だが、マジュネル大陸の獣人は、人間よりも子供に対して大人が保護する感覚が強い。
今のカイトには、恐らく優理が見た目通りの17才の少女ではなく、ほとんど10才程度の子供に見えているのかもしれない。
初めて会った時の真琴を、彼がその程度の年齢だと判断したように。
「うん。信じてる」
しかし優理は10才の子供ではない。
それどころか真琴がカイトに父のタイガを重ねたのなら、やはり頼りになる筈だと、そう確信している程度にはちゃっかりしている。
優理は、内心でガッツポーズをしながらも、まさに信頼100パーセントの瞳でカイトに向かって微笑んでみせた。
(やっぱりコレよねっ。妹達の為に我が身を危険にさらしてもってお涙ちょうだいパターンっ。ふっ、これでカイトさん、私に完全協力状態っ)
心の中ではもう笑いが止まらない優理だ。
(何なのコレ。どーゆーことコレ。どうして私が無視されてるの)
優理の気持ちはともかく、カイトの肩にいる小猫はとても不機嫌だ。
どうしてカイトは、自分ではなく優理を守ることになっているのか。
どうしてカイトは、遥佳と一緒に逃げる手筈なんて整えていたのか。
しかもどうして自分は簡単な手紙一つで捨てられてしまったのに、自分の姉妹だけはカイトにそこまで尽くされているのか。
だけどここでみぃみぃ鳴いて優しいラーナやガーネット達の所に行こうものなら、完全にカイトを優理にとられてしまいそうで、それもそれで嫌なのである。
今、小猫にとって最大のライバルは、かつての自分そっくりな顔の持ち主だった。
「ユーリ様に協力してもらえるなら、そしてそちらの方々も同行するのなら、大きめな船を手配し直しましょう。そしてディリライトの跡継ぎ殿が見逃しに協力してくださるというのであれば、話はもっと楽に進みます」
「勿論、全面協力させていただきますよ、カイトさん。何と言いましても、ハールカ姫のご希望は全てにおいて優先されます」
にこにことタイキがそれを受けて頷く。
つまり、船籍不明なそれを見逃してくれるということだ。小さな舟より大きな船の方が揺れにくい。
快適な船旅を思えば、カイトとしては波一つで転覆しかねない舟より、大きな船の方が優理にとってもいいだろうと判断したのだ。
確約を得たカイトは立ち上がる。
「では、俺は引き払う用意と船の用意、そして人目につかぬルートを確保しておきましょう。ユーリ様のご都合がいい夜をルース殿から伝えてくだされば、それに合わせて決行いたします。誰かの目に触れぬよう、俺はもうここにはそれまで参りません。何かありましたらルース殿にお伝えください」
「分かったわ」
「ですからここの警備はもっと厳重にするよう、跡継ぎ殿からも首長殿へお伝えを」
「耳が痛いですね。分かりました」
タイキが苦笑すれば、カイトは音を立てぬ歩き方でヴィゴラスの前へとやってくる。
さっき褒めてもらったことにより、カイトに対する好感度が出てきていたヴィゴラスだ。
だから特に喧嘩を売ることもなく、座った姿勢でカイトを見上げた。
「ヴィーと言ったか。マーコットは誰にでも懐く子だが、あんなにも一緒にいて楽しそうにしていたのは君だけだった。可愛がってやってくれ」
カイトの肩にいた小猫は、そこでひょいっとヴィゴラスの手に渡された。
そのまま連れて帰ってもらえるのかなと思っていた小猫が、「なぬっ!?」といった顔になる。
(え、・・・ええーっ!? 何故っ!!?)
それをヴィゴラスの隣にいたガーネットとリリアンは確かに見てしまった。
タイキが笑いを堪えて腹筋に力を入れれば、優理は救いがないといった表情で天井を見上げてしまう。
「分かった。ちゃんと可愛がろう。俺はいつでもマーコットを愛してるからな」
「そうか。君になら任せられる」
ヴィゴラスは強いと判断していたカイトだ。しかも、連れてこられたその日の内から小猫と一緒に遊んであげていたのを見ている。
この男は無類の猫好きなのだろうと、安堵した気持ちでヴィゴラスを好意的に捉えた。
(猫に食欲を抱くような女より、猫に愛を告げる変態の方がまだマシだ)
だからヴィゴラスの両手で包まれた小猫の頭を優しく撫でて、カイトは別れの言葉を告げる。
「良かったな、マーコット。いい子で可愛がってもらえ。だけどあんまり危険な遊びはするなよ」
「・・・んみゃ?」
ヴィゴラスの手の中で大人しく身を委ねている小猫だ。きっと幸せに暮らせるだろう。
「それでは失礼します」
小猫がただ放心していただけだと気づかず、カイトは皆に軽く別れを告げると、流れるような身のこなしで出ていった。
そうして彼の姿が塔の外へと広がる闇の中に消えていったのを確認して、皆の目が小猫に集まる。
「えっと・・・。私、見てて思ったんだけど、カイトさん、優しすぎるんじゃないかしら。だって私が追いかけてったマーコットに気づいた途端、剣を放り投げてマーコットを庇ったのよ? 大怪我も覚悟の上で。だけどきっとヴィーと一緒に遊んでいるのを見てたか何かして、マーコットが幸せならって渡してったわけじゃない。それだけマーコットの幸せを祈ってるってことだと思うの」
焦ったようにやや早口になるサフィルスだが、小猫の顔は固まったままだった。
「別に猫なんて家に居つくもんだろ。よーしよし、そんなら俺が可愛がってやろう。お前は見どころがある。な、マーコット」
「マーコットは俺のだ」
カシマが手を伸ばせば、ヴィゴラスがそれをはたく。
「そこまでにしとけ、カシマ。それより父上に事の次第を報告しないと。さ、邸へ戻るぞ。カシマ、ケイト」
「はぁい。私達、何の為にあのカイトさん見張ってたのかしら」
「全くだよな。あれならさっさと仲良くなっておくんだったぜ。なんか滅茶苦茶強そうじゃねえ? てか、いつの間に他の島に隠れる場所なんて確保してたんだよ」
そうして三兄妹も出ていった。
優理は、言葉を探すようにしながら頬をぽりぽりと掻く。
「えーっと、そりゃあね、だって本来の飼い主だって思ってたラーナもいたわけだし、カイトさんだって真琴を連れて帰れないわよ」
慰めてくれているのだと分かっていても、小猫とてそれには突っ込めるところがあるのだ。
「なら、私をラーナに渡すと思うんだけど」
「俺がもらったんだ。だからマコトは俺のだな」
ヴィゴラスが小猫に頬ずりする。
(うむ。これだ、これ。ああ、やはり神子達には触れているだけで世界に繋がる息吹を感じる)
こんなにも幸せになれる存在をどうして手放せるだろう。
これが分からないマジュネル大陸やジンネル大陸の生き物は、本当に哀れな存在だ。
やはり世界で一番真実を分かっているのはグリフォンに違いない。
そんなことを考えずにはいられないヴィゴラスは、放心している今だからこそと、遠慮なく小猫の体を撫でまくる。
「どうしよう。私、今まで真琴の真似っこしても全然楽しくなかったけど、・・・なんかクセになりそう」
「優理の馬鹿っ」
小猫は泣きたい。
どうしてカイトは自分の目の前で優理を抱きしめるのか。
どうしてカイトは自分ではなく優理を守ると約束するのか。
どうしてカイトは自分をヴィゴラスに渡して帰っていったのか。
こんなひどいことがあってもいいのだろうか。
「誰が馬鹿なのよ。感謝してちょうだい、真琴。私のおかげでカイトさんに、誰よりも大事で愛してるって言ってもらえたんじゃない」
「そ、それはそうだけど。だけど私じゃなくて優理に言われたんじゃ、・・・意味ない」
優理は感謝しろと言うが、あれは自分に言われるべきセリフだったのに。
そこが小猫には首を傾げるところだ。
「それはともかく、カイトさんって過保護もいいところよ。あなたの何が危ないっていうのよ。どこまで猫かぶってたわけ? 本当に真琴ってばみんなに甘やかされすぎ。そのままじゃダメ人間に向かってネコ快進撃中よ?」
「そっ、そんなことないもんっ。ちゃんと私、カイトの家でもお手伝いしてたもんっ」
能力をセーブしていたのは否定できない小猫だ。だからそこまで甘やかされてはいなかったと、反論する。
「猫が何のお手伝いをできたというの」
「そ、それは・・・」
「それは?」
「朝、起こしてあげたりとか」
「あなた、朝、早いものね。だけど虎なんて夜行性でしょ。かえって迷惑だったんじゃない?」
そんなことはない。だってカイトは自分が起こしてあげたらいつも嬉しそうにおはようのキスをしてくれた。
そう思いはしたものの、虎が夜行性とは知らなかった小猫は違う反論をする。
「ご飯のメニュー、考えてあげたりとか」
「作らない人間の口出しって迷惑なのよ。普通は家に残っているものを考えて買い出しして作るもんなんだから」
ご飯はいつも作ってもらっていたから、作る人間の気持ちなんて分からない小猫だ。
「お仕事してる時だってちゃんとお手伝いしてたし」
「休憩時間になったら呼びに行くのをお手伝いとは言わないわ、真琴。単にそれ、自分のおやつをもらう為でしょ」
「・・・・・・ぅ」
小猫は無言になった。
「別に俺なら気にしないぞ、マコト。朝は一緒に寝ていればいいし、ご飯は作ってもらえばいいだけだし、一緒におやつも食べよう。きっとハルカも喜ぶし、全ての世話はイスマルクがしてくれる」
「はい、先生。ここにもっとダメ人間なグリフォンがいます」
「その駄目グリフォンは矯正中なのよ、真琴」
そこでラーナが口を挟んだ。
「ですが今回の仕事、達成した途端に口封じされるのでは? 本人も追われる覚悟を決めて、潰すつもりだったようですけど」
「大丈夫よ。その為にカイトさん、違う組合に属してるって偽装するんだもの。ここまでお世話になっといて評価を落とさせるようなこと、絶対にさせられないわ」
「ユウリ殿もあのカイトがお気に入りなのか? まあ、見る目のあるシルバータイガーだが」
ドラゴンとペガサスによって怒られてばかりのグリフォンは、そんな中で自分を強く頼りになると言ってくれたカイトを見る目のある奴認定してしまった。
「そりゃあね。だってあの状況の真琴を助けてくれた人だもの。別に私は誰でもいいの。出来損ないの半獣人だろうが、少年だろうが、少女だろうが、小猫だろうが・・・、どんな真琴でも大事にしてくれる人ならね」
「俺だってマコトを大事にしてる」
「だけど一番じゃないでしょ。それじゃ意味がないわ。お母さんの子供じゃなくても真琴を一番だって言ってくれる人だから、私は彼を信頼するのよ」
「優理・・・」
自分を思う姉妹の愛に、小猫の瞳が感動に潤んだ。
「あのカイト、マコトじゃなくてユウリ殿を抱きしめていたじゃないか。一番じゃないぞ」
小猫の顔がハッと引き締まる。
そうして恨みがましく優理を見上げた。
くるりと、優理が明後日の方向を向く。
「まあ、楽しかったのは否定しないわ」
ぽそっと優理は呟いた。
「優理の馬鹿ぁっ」
「ああ、もう。本当にどうしようもありませんわね。ほら、いらっしゃい。マーコット。今日は私達と一緒に寝ましょうね。こんな意地悪グリフォンなんか放っておいて」
「なんだとっ!? マコトは俺がもらったんだぞっ。俺はマコトと一緒に寝るつもりだったのにっ」
「言っておくけど、ヴィゴラス。それ、セクハラだから。もう真琴は成体になってるのよ」
これではいつまでたっても収拾がつかないと踏んだガーネットにより、涙目の小猫は回収されていった。




