第七話 さもなくば黙れ
死角からの不意打ち。
常人ならば成すすべ無く打ち据えられる所だが、俺には通用しない。
素早くバックステップして退避すると、床を打つ棒の乾いた音が響いた。
振るったのは、テレーゼの護衛をしている大男――ゲオルグだ。
ゲオルグは無表情のまま、獲物を取り逃がしたことを悔やむ様子もなく棍を引き戻すと、定位置であるテレーゼの後ろへと戻った。
「合格よ……いい反応ね。それだけ動ければ十分だわ」
部屋の奥、上質なソファに深く腰掛けたテレーゼが、楽しげに目を細める。
人を呼びつけておいて、いきなりこれだ。胸の奥で、怒りの火が灯る。だが、今はまだそれを燃え上がらせる時ではない。俺は這い上がるための足場を、この女から毟り取らなければならないのだ。
「……随分な挨拶だな。合格と言ったが何のつもりだ?」
俺がそう言うと、テレーゼはくすくす笑った。
「あら、そんなに拗ねちゃダメよ。それなら、本題に入りましょう。――ビジネスのね」
促されるまま、対面のソファに腰を掛ける。高級なソファのはずだが、座り心地を楽しむ余裕はない。
「私専属の闘士として、闘技場で戦ってもらう。勿論、報酬金も出るし、働きぶりによってはボーナスも用意しているわ」
「専属の闘士というのは、普通の参加と何か違いがあるのか?」
「対戦相手も、誰かの専属の闘士になる事が多いわね」
要は金持ちが自分の駒をぶつけ合わせて遊ぼうってわけだ。
いいだろう。この女からすれば精々頑丈な玩具を見つけた。くらいの感覚なのだろう。
勝てばいい。そして金を手に入れる。
「ボーナスというのは?」
「5勝出来たら、4級市民権をあげる」
4級市民権。その言葉に一瞬息が止まるほど驚いた。スラムに住む人間からすると市民権を得るのは最下級の4級だろうと夢のまた夢だ。
それがあればスラムから抜け出せる。人として最低限認められるラインに立てる。
テレーゼがぶら下げた人参から目が離せない。
「わかった、やろう。約束は必ず守ってもらうぞ、もし破るようなら」
俺の発する殺気に、ゴメスが反応する。
ゴメスの居合の抜き打ち。常人ならば切られたことにさえ気づかない無音の斬撃。
俺にはその動きが見えている。流石に今までで見た中で、最も速い動きだが、それでも――
その刃は俺の着ている服の一枚さえ切ることが出来ない。
俺は横っ飛びに躱すと、腰のナイフを抜いて身構えた。
今の一撃を避けられると思っていなかったのだろう。ゴメスの表情が変わる。
ゴメスがテレーゼを庇うように前に出る。そこでようやく事態を理解したテレーゼが驚きの声を上げた。
「お待ちなさいゴメス! 何をしているの!」
「テレーゼ様に殺気を向けるなど、万死に値します。この野良犬は処分すべきです」
ゴメスが自ら口を開く所を初めて見た。場に似つかわしくない妙な感動を覚えていると、テレーゼが俺に向かって話しかけてくる。
「アルトラ、私に殺気を向けるのは、今後冗談でも許しません。次はゴメスを止めることはないと思いなさい」
「ああ、わかった。だがそちらも約束は守ってもらう。こちらも本気だぞ」
「勿論よ。双方、武器を納めなさい」
テレーゼの言葉にもゴメスは動かない。まあ俺がナイフを構えていたんじゃ無理もない。ナイフをしまうと、ゴメスも納刀したがテレーゼの前から外れるつもりは無いようだった。
「今日は帰ったほうが良さそうだな。日時が決まったら使いをよこしてくれ」
平静を装いそう言ったものの。実際は体を襲う痛みを、誤魔化すのに苦労していた。
ゴメスの鋭い視線を背に受けつつ俺は部屋を後にした。
中層区の整然とした街並みを歩きながら、俺は自分の右手の感触を確かめる。
先ほどゴメスの抜刀を躱した時の、空気の震え。自分の体が、思考よりも早く、流れるように空間を滑ったあの感覚。
身体能力の爆発的な向上はありがたいが、引き換えにやってくるこの痛み。やはり、俺の体は作り変えられている。あの白い男の真の意図は未だわからないが。
やつは言った「生きてみせろ」と。その言葉が俺の中でハッキリと残っている。
境界線を越え、スラムが近づくにつれて、中層区の甘い香料の匂いは失せていった。代わりに立ち込めるのは、下水と腐敗が混ざり合った、いつもの匂いだ。
かつてロッソが支配していたこのエリアは、今やテレーゼの「庭」と化している。
俺の姿が見えると、ゴミの山を漁っていた連中や、路地裏で蹲っていた浮浪者たちが一斉に動きを止めた。
「おい、あれ……アルトラだろ?」
「ロッソを殺して、テレーゼ様の『お気に入り』になったっていう……」
俺のことを居ないものとして扱っていた連中が、媚びた笑顔で挨拶してくる。
しかし、誰もが俺では無く、後ろにいる権威を見ている。
俺を利用してどうにか這い上がれないか、そう考えているのが丸わかりだった。嫌な目つきだった。
「市民権、か……」
口の中でその言葉を転がしてみる。スラムの住人にとって、それは御伽噺に等しい。手に入れた瞬間に、名前のない「ゴミ」から、法に守られる「人間」に昇格できる魔法の権利。
テレーゼの提示した条件は、5勝。俺の命の価値は、たったそれだけで「人間」の域に届くというのならば、その道はとてつもなく険しいはずだ。
群がる連中を冷たい視線で一瞥し、俺は誰にも声をかけず足早に自分の寝床へ向かう。
数日ぶりに帰ってきた寝床。俺がベッド代わりにしていた古毛布の上に、見知らぬ人影が丸まっていた。




