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92 会話の欠片

 

 昼下がり。


 信号待ち。


 人の流れに紛れて、ぼんやりと立っている。


 風が少しだけ吹いて、

 誰かの髪が揺れるのが視界の端に入る。


 その瞬間――


 声がよぎる。


『それ、似合ってる』


 ふっと、隣から聞こえた気がする。


『バカじゃないの』


 少し呆れたような、でも柔らかい声。


『大丈夫だよ』


 最後は、静かに背中を押すみたいに。


 足が止まる。


 青に変わった信号。

 前に進む人たち。


 自分だけ、少し遅れる。


(……)


 胸の奥が、わずかに揺れる。


 今のは、


 ただの思い出のはずなのに、


 やけに鮮明で、


 すぐそこにいたみたいで。


 周りを見ても、


 当然、誰もいない。


 声の主なんて、どこにもいない。


 それでも、


 誰の声かは、


 分かってる。


 名前を呼ばなくても、


 思い出そうとしなくても、


 ちゃんと分かってしまう。


(……)


 小さく息を吐く。


 また歩き出す。


 人の流れに戻る。


 さっきの声は、


 もう聞こえない。


 でも、


 完全に消えたわけでもない。


 心のどこかに、


 欠片みたいに残っている。


 拾い上げれば、


 全部思い出せる気がする。


 でも――


 拾わない。


 そのままにしておく。


 欠片のまま、


 散らばらせたまま。


 それでも、


 誰の声かだけは、


 ずっと分かっていた。

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