102 回想 空白の形
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教室。
四月の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
まだ冷たい風がカーテンを揺らして、白い布がふわりと膨らむ。
ざわつく空気の中。
「恋は病気だよ」
唐突に、隣から落ちてきた言葉。
「は?」
初対面。
なのに距離が近い。
黒板の文字も、周りの声も、少し遠くなる。
あの時は、ただの言葉だった。
――ただの、はずだった。
..
帰り道。
夕焼けがアスファルトを赤く染める。
並んで歩く足音が、自然に揃う。
「今日の弁当さ」
「卵焼き焦げてたよね」
「うるさい」
どうでもいい会話。
笑う理由も、別に大したことじゃない。
昼休み。
机を寄せて、弁当を広げる。
誰かの唐揚げを奪って、軽く揉めて、すぐに終わる。
テスト前。
同じ問題で詰まって、
「ここ分かる?」
「分からん」
「使えないね」
「お前もな」
消しゴムのカスが机に散らばって、
ノートの端に意味のない落書きが増えていく。
何でもない時間。
何も残らないような時間。
...
ある日。
神代 蒼と話している凛を見た。
ただ、それだけ。
それだけなのに。
胸の奥が、少しざわつく。
(なんだこれ)
帰り道。
少しだけ距離ができる。
いつもなら隣にいるのに、
半歩、後ろ。
「どうしたの」
「別に」
目が合う。
逸らす。
沈黙。
触れそうで触れない距離。
言葉にすれば、変わる気がした。
でも、言えない。
言った瞬間、壊れる気がした。
....
夏祭り。
人の波。屋台の光。甘い匂い。
夜なのに、やけに明るい。
「はぐれる」
そい言いながら、手をつかまれる。
一瞬、止まる。
でも、振りほどけない。
そのまま、握り返す。
手のひらの温度が、やけにリアルだった。
花火が上がる。
音が遅れて、胸に響く。
光が空に広がって、すぐに消える。
帰り道
「ねえ」
「なに」
少しの間。
「今じゃない」
何かを言いかけて、やめた声。
でも――
あの時、もう始まっていた。
.....
「大丈夫」
そう言う回数が、少しずつ増えた。
「病院?」
「大したことないよ」
笑ってごまかす。
でも、その笑いが少しだけ薄い。
帰り道。
空がやけに遠い。
「未来の話さ」
「うん」
「別にいいかなって」
軽く言う。
軽すぎるくらいに。
風が吹く。
言葉が流れていく。
......
「優しいのがしんどい」
ぽつりと落ちる。
「……は?」
意味が分からない。
でも、どこかで分かっている。
既読無視。
返信が来ない夜。
画面の光だけが、やけに冷たい。
「愛に、なれるのかな」
遠くを見る目。
手を伸ばしても、届かない距離。
でもそれは、
壊れたわけじゃない。
戻れなくなっただけ。
.......
夕方。
世界が静かに色を落としていく時間。
「終わりにしよっか」
あまりにも、自然に。
当たり前みたいに。
(……ああ)
驚きは、なかった。
ずっと、どこかで分かっていたから。
「好きだったよ」
過去形。
その一言が、
胸の奥に、ゆっくり沈む。
言い返せない。
同じ気持ちなのに、
同じ言葉にできない。
壊れる前に。
嫌いになる前に。
この形のまま、残すために。
........
――教室。
あの最初の日。
「恋は病気だよ」
ただの言葉だったはずの、それが。
今なら分かる。
あれは、始まりで。
全部は、繋がっていて。
名前のない感情が、
形を持って、
そして――
形を変えただけだった。
(……)
だからきっと。
あれは、ちゃんと。
愛だった。




