16話。
沈黙が落ちる。
不安げな表情を隠しきれず、目線を彷徨わせるノナを見て、リティシアは小さく息を吐いた。
「気持ち悪い……か」
その言葉に、ノナの表情が絶望に染まる。
ヒュッ、と息を呑む音が喉から漏れた。
リティシアは、悪戯っぽく小さく笑う。
「お前は、確かに変だ。でも……それがノナだろ」
優しく、慰めるような声が出たことに、自分でも驚く。
遅れて込み上げた気恥ずかしさに、思わず顔を背けようとした。
――が、できなかった。
ノナが、顔をくしゃくしゃに歪めて、大粒の涙を零していたからだ。
声を上げることもなく、ただひたすらに泣き続けている。
ずっと泣いている。
このまま身体中の水分が無くなるんじゃないか――そんな馬鹿げた考えが浮かんで、
まだそんなことを思える自分に、ほんの少しだけ安堵した。
◇◇◇
「……うー……ありがとう」
新しい水で絞った布を瞼の上に置いてやると、ノナは小さく唸りながら礼を言う。
魔界で受けた暴行で赤くなっていた瞳は、泣いたせいでさらに腫れていた。
その様子を見て、リティシアは半ば強引にベッドへと横にさせたのだ。
横になったノナは、目に布を当てたまま、リティシアの服の裾を離さない。
仕方なく、リティシアはベッドの端に腰を下ろしていた。
「……それで、魔王様とやらの名は?」
わざと軽い口調で問えば、ノナは口を尖らせる。
「ねえ今それ聞く?」
「今逃したら、お前は絶対言わないだろ」
「そんなことッ……あるかもぉ」
ノナは片手で布を外し、身体を起こそうとした。
だが、リティシアが「おい」と低く声を落として睨めば、しばらく逡巡したあと、渋々とまた横になる。
「屈強な名前なのか?」
筋肉隆々の悪魔を想像し、鼻で笑えば、
「馬鹿にしないで!」
と窘められる。
「〜〜〜……ス」
布ごと顔を押さえ、羞恥か嫌悪か、呻くように呟くノナ。
湿った前髪が額に張り付いているのを、指先で軽く整えながら、リティシアは顔を寄せた。
「もう一回」
幼子をあやすような声で促すと、ノナは先ほどよりもはっきりと口にする。
「……ノ、ルナ……ティクス」
――ノルナティクス。
その名を聞いた瞬間、目の前の存在が輪郭を持ったような感覚に、リティシアは瞬きをした。
好奇心ではない。
もっと別の、ノナを知りたいと願う感情。
認めたくない。
名前を付けたくない。
それでも――嫌ではないと、思ってしまう。
「ノルナティクス……」
彼女の真名を、なぞるように呼ぶ。
ノナが自分を「リティ」と呼んだとき、意味もなく何度も口にしていたのを思い出す。
あの時は分からなかったが、今なら分かる気がした。
嫌いだと言っていたはずの名を呼ばれ、
咎めるように、布の隙間から睨みつけてくるノナと目が合う。
「ノ、ノナと似てるな」
浮ついた感情を誤魔化すように、話題を逸らす。
だがノナは勢いよく首を振った。
「全然違う!」
再び、リティシアの服を強く握り締める。
仰向けから横向きになり、縋るように身体を寄せてくる。
離さないと言わんばかりに距離を詰め、リティシアの腰元に顔を埋めながら、もごもごと呟いた。
「……た、確かに最初は、分かってるのかとか思ったりしたけど……ッ、でも、リティが付けてくれた、僕だけの名前だもん」
か細い声。
けれど、その言葉ははっきりと届いていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
耳に集まる熱を誤魔化すように軽く揉みながら、
リティシアは、自分の腰に顔を埋める旋毛を見下ろした。
「……お前だけの?」
「リティが付けてくれたから、ね…」
引き寄せられるように、腰に手が回される。
服越しに伝わる体温に、身体がわずかに強張った。
――僕だけの名前。
その言葉が、何度も頭の中で反復される。
今ここにいる彼女を象ったのは、自分だと認識していく。
その事実が、胸の奥を静かに満たしていった。
――他の誰にも、触れさせたくない。
ふと過った思考に、息が詰まる。
じわり、じわりと。
感じたことのない、くすんだ感情がリティシアの胸を侵食していった。




