第二部最終話「静かな戦争」
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君の脳は危機に瀕していた。
件の施術から暫く、君の脳梁や海馬の一部では深刻なニューラル・ディジェネレーション──すなわち神経変性が進行しつつあった。
シナプス結合は脆弱化し、記憶の想起経路にはノイズが走り、論理的思考を司る前頭前野の活動は間欠的に著しい低下を見せている。
これが通常の被験者であれば、とっくのとうに生ける屍と化していただろう。
しかし君の体内では、予期せぬ出来事が起きていた。
簡単に言ってしまえば、単一の生命体としての生態系を逸脱した混沌のるつぼと化していたのだ。
君の体内を今も流れる半ゲル状の自己組織化細胞群。
それらは本来君の免疫系によって異物として排除されるはずだった。
だがこの細胞群は驚くべき擬態能力を発揮し、君自身の白血球やマクロファージから巧みに逃れ、変性しつつある神経細胞の周囲に寄り添うように定着したのである。
それらは脆弱化したシナプスの隙間を埋め、まるで柔軟なバイパスケーブルのように機能し、途絶えかけた微弱な電気信号を再接続させていた。
これはゼノ・インテグレーション、異種組織浸透の極めて稀な成功例と呼ぶべき現象だった。
さらにとあるメタノイドとの幾度もの接触により、彼女の体表を構成する自己修復型金属粒子が君の体内に微量ながら取り込まれていた。
これらのメタノイド由来粒子は君の血流に乗り、脳関門を突破して神経系へと到達している。
そして、電気信号の伝達効率が低下したニューロンに付着し、イオンチャネルの働きを安定させる触媒として機能していた。
不安定な信号の流れはこの金属粒子によってフィルタリングされ、思考のノイズは抑制される。
それだけではない。
君の肉体にはまだまだ様々な異物が混在している。
例えば自己増殖型ナノマシンだ。
これらは君の体内で劣化し始めた生体組織を分解し、再構成可能なアミノ酸やミネラルへと変換している。
ゴミの再利用といった所だろうか。
問題はここからだ。
そのナノマシンはそれらのアミノ酸やミネラルを最も緊急性の高い部位──すなわち脳へと供給し始めたのだ。
なぜ緊急性が高いのか。
なぜ脳へ供給するのか。
それらの理由は、ひとえに“侵略者”の存在があるからだ。
肉体の持つ潜在能力を極限まで使用できるように脳の働きを効率化し、その反応・行使に耐えうるように肉体そのものをより強靭に改造する──それがMMY0313オペレーションの全容である。
だがこの脳の働きを効率化──という部分が問題だった。
脳を極めて効率化することで何が起きるかといえば、それは被験者の自我の喪失である。
しかし君の肉体は──正確には、君の肉体を宿とする様々な細胞群はその変容を拒んだ。
まるで異なる思想を持つ複数の民族が、共通の巨大な敵を前にして不承不承ながら共闘するかのような振舞い。
君の体内に根付いた無数の居候たちが、それぞれの生存本能に従って抵抗を続けているのだ。
その結果、君の自我は未だ消えずにいるのである。
更にいえば、日々の悪癖もこの侵略者への抵抗力となっていた。
一本の有害な安煙草を吸うこと。
一杯の有毒なドブ酒を煽ること。
本来の被験者ならばこんな意味のない行為はしない。
なぜなら煙草にせよ酒にせよドラッグにせよ、それらを嗜む事で快感を得る、あるいは苦痛が減衰するからこそ嗜むのだ。
何の快感も得られないのにそれらをわざわざ摂取する必要があるか?
いや、ない。
だが君は、そうしたいという欲求もないのにそれらを嗜んでいる。
一見すればただの愚行なのだが、実際はそれら全ての行為が君の体内宇宙のバランスを僅かに変化させ、君の魂の輪郭をかろうじてこの世に繋ぎとめている一助となっている。
現状、その“侵略者”と君の内部に巣くう大量の居候たちの勢力争いはどちらかといえば“侵略者”がやや優勢だ。
ならばこのまま戦争に敗北するしかないかと言われれば、それは違う。
あるいは新たな居候が増えるかもしれないし、そうなれば戦況はひっくり返るかもしれない。
そしてそのままこの静かな戦争の決着もつくかもしれない。
そうなったとき、君がどうなるのかは──まだ誰にも分らない。
(第二部・完)