36.惑星F25⑧
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船はギリギリのバランスを保ちながら、渦に巻き込まれないように慎重に進む。
すると、突然船窓が視認できないほどの黒雲が巻きついてきた。
まるで大蛇が首をもたげてからむような動きでガスがまとわりつき、船の姿勢制御を狂わせようとする。
「くそっ、視界がゼロじゃねえか……俺の人生か? アァン?」
君は思わず悪態をついた。
下層居住区民の人生が暗雲に満ちているのは周知の事実だ。
だがまあ、感じているのは苦々しさだけではない。
君の脳の奥底に仕込まれたサイバネ神経回路が、この焦燥感を昂揚感へと変換していた。
恐怖を警戒信号として感受した次瞬、神経ブロッカーが作動し、過度の恐怖は薄らいでいく。
代わりに興奮と快感だけが残るのだ。
「ああ、イイね……いや、良くはないが」
『センサーが乱されています。ガス中の粒子濃度が限界値を超えました』
ミラの人工音声が警告を発する。
視界を覆うガスの影響で、通常のカメラ映像ではもう状況を把握できない。
それでも君は操縦桿を握り、こじ開けるように加速と回避を繰り返す。
心臓が高鳴るたび、電脳の分泌システムがアドレナリンに似た化学物質を追加で放出し、まるで最高のドラッグをキメたような高揚に身を委ねてしまう。
「ぃよし! イクぜイクぜイクぜイクぜイクぜ!」
船体下部からはきしむような振動が伝わり、警告音が鳴り止まない。
メインモニターでは方位データが途切れがちになり、暗闇に目隠しをされたような心細さが迫ってくる。
しかし君は、その不確実性こそが人生の旨味だと感じる性分だ。
深呼吸してから表示された周辺マップを睨む。
ミラがこの乱流域を可能な限り簡易的にマッピングし、回避ルートの予測を立ててくれているのだ。
だが、予測線はぐにゃぐにゃと定まらず、あちこちに警告の赤いマーカーが散らばっている。
まるで迷路だ。
それでも、選ぶしかない。
そのとき、モニターの隅に一瞬だけ大きな影が映った気がした。
巨大な亡霊のような白い影。
電波の乱れでチラついた可能性もあるが、そのシルエットは嫌でも白鯨を連想させる。
それを見た瞬間、ゾクッとした寒気が背筋を走る。
だが君の電脳は即座に恐怖を鎮静化させる化学物質を放出した。
おかげで鼓動の高まりは一瞬で落ち着き、代わりに冷静さとわずかな興奮が同居する。
「嘘だろ……この乱流の中を潜ってきてるってのか……!」
普通に考えればありえない速度だ。
惑星F25のガス流は複雑だが、白鯨の感覚器官はそこを完全に把握しているのかもしれない。
この星の高圧ガスやイオン風の流れを、あたかも自分の血管のように読み解いているのだろう。
実際、物質の相変化が激しいF25の嵐の中では、音速や衝撃波の伝わり方さえ地球基準とは大きく異なる。
そんな環境に適応した生物が、人知を越えた追跡能力を見せても不思議じゃない。
「逃げ切る……絶対逃げ切るぞ……! やれる! 俺が逃げられなかった相手は借金取りだけだ!」
暗闇の中で勘だけを頼りに穴を飛び越えるような航行を続ける。
次々と巻き起こる気流の壁を避け、薄いガスのゾーンを探し当てる。
肉体は冷や汗をかきながらも、精神は妙に研ぎ澄まされている。
『下方より強い移動反応を捕捉。質量推定値から白鯨と考えられます』
「まじかよ……! こっちは乱流に邪魔されて進むのが精一杯だってのに、どうやって近づいてくるんだ……」
舌打ちをしながら操縦を続ける。
黒雲がいきなりさっと払われたかと思うと、遠方に巨大な白い流線形が見える。
少し距離があるせいで詳しい形状まではわからないが、あの圧倒的サイズはまぎれもなく白鯨だ。
「よし……何回目の賭けだかわからねえが、俺の勘が突っ込めと言ってるからなッ!」
君は破れかぶれの勢いで舵を切り、ガスの渦の深い部分へと船体を突っ込ませる。
揺れはさらに激しくなり、警報音が連続して鳴り響く。
「行けぇぇぇ……!」
操縦桿を押し込み、船は渦の縁をかすめるように急旋回する。
外部カメラには怒涛のガスが映り、まるで多色の油絵を荒々しく塗り込めたような光景がモニターを埋め尽くす。
ここF25のガスは熱や圧力でイオン化しやすい上、成分変化が速いから、局所的に思わぬ乱気流を生み出す。
その性質がこの星を危険な“ガスの海”たらしめているわけだ。
『白鯨が乱流に巻き込まれた可能性があります。移動反応が一瞬途切れました』
「好都合だ……今がチャンスだ、突っ走れ!」
さらに奥へと飛び込み、渦が作り出す上昇気流の力を借りる。
視界に稲妻が走り、爆音とともに船体を押し上げる風の壁を感じる。
極度の圧力変化にシールドは悲鳴を上げているが、どうにか姿勢を保ちながら上空を目指す。
船室では各種計器が警告を示す様に点滅しているが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「くそ、揺れる……でも……!」
視界が突然開けた。
嵐の頂部を抜けたらしい。
まるで水面から顔を出したときのように暗黒の渦から解放され、薄いガスの広がる層へと飛び出す。
「抜けた……っ! 今なら外へ出られる。ミラ、ワープの準備を急げ!」
『了解しました。座標算出を最優先します』
依然として船体は限界寸前だ。
シールドは破損がひどく、外板にも火花が走る箇所が見える。
さっきまでの乱流で局部的にプラズマ放電が発生し、金属イオン化が進んでしまったのだろう。
「もう少し頑張ってくれよ~、俺のシルヴァー……かわいこちゃん、頼むからよッ……!」
ワープに必要な条件さえ整えば一気に星の外へと飛び出すことができるはずだ。
右手で計器を操作しながら、君はガスの海を突き抜けるようにさらに高度を上げる。
意識が遠のきかけるほどのGが襲うが、サイバネボディの筋繊維はすぐに最適化を始めた。
いわゆる“重力ストレス”はヒトの体には厳しいが、君のように骨格や筋をサイボーグ化している者には比較的耐性があるのだ。
それでも苦しさはゼロではないが、君の脳は“快楽物質”を追加分泌して痛覚を和らげる機能を働かせる。
ミラが算出を完了するまで数十秒。
逃げ切れるかどうかは神のみぞ知る──だが、やるしかない。
『座標算出完了まで、あと20秒』
「……急げ!」
時計の針がゆっくり動くように感じる。
外部モニターは薄紫から青白い色彩へと移り変わり、ガスがまばらになっていく。
ここまで上昇すれば重力の束縛も弱まり、白鯨が追いつくのは容易ではない。
しかし、決して油断はできない。
科学的に言えば、白鯨がこの圏域まで浮上するには相当な浮力調節が必要となる。
たとえば体内の特殊ガス胞や生化学的リアクターを制御しないと、こんな高高度へは来られないはずだ。
とはいえ、実際あの巨体が渦を突破して追いすがってきたのも事実。
予想外を覚悟しておくに越したことはない。
『15秒』
君は唇を噛む。
冷や汗が背中を伝うが、それもすぐにカラッと乾いていく。
電脳化された自律神経が、体温調節機能を通常以上に活性化させているせいだ。
ひたすら上へ、上へと船を操りながら、ハイパー・ドライブを開始する準備を進める。
『10秒……9……8……』
鼓動が耳の奥で爆発しているかのように鳴り響く。
もしここで白鯨が再び巨大な口を開けて出現したら、終わりだ。
『3……2……1……座標安定を確認。ワープ可能です』
「やった……! ミラ、ずらかるぞ!」
次瞬。
船体が青白い光に包まれ、一瞬すべてが弾け飛んだかのように視界が真っ白になる。
脳髄を鷲掴みにされるような、内側が反転する感覚の後に──
君の乗船、「シルヴァー」は惑星F25の大気圏内から姿を消した。
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【惑星F25報告書】
惑星名:F25
分類:木星型ガス惑星
距離:地球から約1800AU(1AU=約1億5000万km)
質量:木星の40倍以上(高重力環境)
居住適正ランク:E(居住不可)
【外観と環境】
ガス層:紫・青・緑など多彩な色彩を示す厚いガスの層が形成されており、地表は存在しない。
気象:惑星全体に強烈な嵐が発生し、乱気流や渦が絶えない。特に大気上層域ではプラズマ放電や稲妻に似た電磁現象が頻発する。
危険性:猛威を振るうガスの渦、強い風圧、稲妻状の放電などにより、船体・機器への負荷が著しく高い。着陸は不可能とされ、飛行・航行の際は高度なバリアシステムやシールドが必須。
【生態系】
大型生物の存在:惑星内部を回遊する「白鯨」と呼ばれる巨大生物(全長約5000m以上)が確認されている。
主食:惑星F25のガス成分。
船体捕食行動:採掘船の燃料や搭乗員を狙い、船ごと呑み込む事例が報告されている。
感覚器官:微弱な機械音や熱源を感知し、ガスの流れを巧みに把握して狙いを定める。船が検知された際には、“空気砲弾”のような高圧ガスの塊を射出する攻撃手段が確認された。
その他生物:詳細は不明だが、「白鯨」以外にも多数の未知生物が存在する可能性がある。惑星F25特有のガス中で生活する生態系が確立されているとみられる。
【資源的価値】
ガスの組成:複数のレア元素や高密度エネルギー源の含有が指摘されている。場所によって組成が大きく変化し、一部領域では未知の元素や高エネルギー分子が観測された。
採取の有用性:大規模なガス採取事業によるエネルギー問題の解決が期待されているが、現時点ではガス収集の実行は困難。暴風・乱気流・生物被害などの危険要素が多いため、さらなるデータ蓄積と安全対策が必要。
【本星に於ける主な業務】
船外カメラと専用ドローンを用い、ガス組成・気象変動・風速・温度・気圧などの数値を収集。
ドローンによるリアルタイム送信により、局所的な嵐の予兆や有望ガス領域の検出が可能となった。
今回の調査に於ける映像データ①
今回の調査に於ける映像データ②
今回の調査に於ける映像データ⓷
今回の調査に於ける映像データ④
今回の調査に於ける映像データ⑤




