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まとめて一緒に夕飯を取ることになった経緯を話せば、「あ、そうなの」と少し驚いて芹沢さんが答えた。
「それに、俺、前期に一回無理して体調崩したこともあったから」
「そっか。でも、優しいね。宮瀬さん。文句言いつつも用意してくれるんだから」
「まあ、そうですね」
お礼はどうしただのと文句を言う宮瀬を思い出して、小さく笑って答えた。
そろそろ二時間目が終わるかなと腕時計に視線をやろうとしたところで、タイミング良く二時間目終了のチャイムが鳴り響いた。
「じゃあ、俺、犬居と約束してるんで」
「うん。あの、ありがとね。ほんとに」
「別に何にもしてませんよ」
鞄を手に立ち上がろうとすると、またお礼を言われた。苦笑いをして返しても、「それでも感謝してるよ」と返された。
「そうですか。まあ、あんまり無理しないで」
「気をつけるよ。じゃあね」
まだ座ったままでいる芹沢さんに手を振られ、俺も手を振り返してから、階段を降りていった。
***
「今日の残り、持ってく?」
10畳ほどのワンルームにある対面キッチンから、宮瀬が顔だけ出して聞いてきた。
「持ってく」
「りょーかい」
即答した俺に頷いて、宮瀬はまた顔を下に向けた。
『残り』とは今日宮瀬が作った夕飯の残りであって、木曜はたいていその残りを俺が貰って帰ることになっていた。宮瀬は金曜からの週末を彼氏である永井さんのところで過ごすし、俺は金曜に食事を作る手間が省けるしで、お互いの利害が一致して『残り』を持って帰っている。時には、俺と犬居とで分けて持って帰ったりもする。その犬居も、今日来る予定だったのだが、大学卒業と同時にようやく付き合うことができた先輩と会うことになったらしく、予定はあっさりキャンセルされた。
宮瀬の家から俺の家までは、自転車で20分ほどだ。宮瀬が今暮らしているマンションは、俺たちの大学がある駅から一つ隣になる。原付を持っているという自分の強みと一人暮らしの経験を生かして、宮瀬は部屋を決める際に大学のある駅圏内に絞らずに前後の駅圏内のマンションも調べたらしい。そこで見つけたのがここだ。駅でいえば一つ隣になるここは、駅から歩いて20分というところだ。周りは住宅だけで大学も何もない代わりに、ワンルームの家賃が安く部屋が広い。聞けば、この秋か冬に住宅街向けの新しいショッピングモールがオープンするという。ずる賢い奴だ。
「はい。タッパーは月曜ね」
「ん」
宮瀬がキッチンから戻ってきて、タッパーが入った紙袋を俺に手渡した。それを受け取って、宮瀬が俺から直角の位置になるところで腰を下ろすのを視界の端で捉える。紙袋は自分の鞄のすぐ隣に置いて、色が変わった宮瀬の髪を見た。
「また色変えたのか?」
「ん? うん。今度は暗めにしてみた」
テレビを見ていた宮瀬がこっちを向いて、嬉しそうに髪に手を触れた。
服装規定に厳しい塾に三年半バイトをしていたおかげで、俺たちは大学生だというのに髪を染めたことがなかった。その反動か、宮瀬はバイトを卒業したと同時に髪を染めた。初めは、明るめの茶色。宮瀬の好きな韓国アイドルグループの一人と同じ色にしたらしい。それが意外にも似合っていて、バイト仲間や宮瀬の友達、親にも似合うと言われたと言っていた。ついこの間、「そろそろ切りたい」と言っていたのを、授業のなかった今日決行したようだ。ショートカットにしたついでに、色も変えて明るさも落としたようで、今はトーンの落ちた茶色になっていた。
その髪でどこでバイトするんだと思ったが、今度のバイト先は知り合いに紹介されたカフェだという。
「俺も切ろうかな」
「思い切って染めたら?」
自分の髪に触れて言えば、にやにやと面白そうな笑みを浮かべて宮瀬が言った。俺ができないと知っていて言う宮瀬を軽く睨むと、さらににやにやと笑みを浮かべ出した。
俺のバイト先は、学部生のころと変わっていない。正確にいえば、バイトの場所は変わったけど、バイトする会社は変わってない。俺と宮瀬が学部生のころバイトしていた塾は全国展開のもので、それを利用して、俺は教室だけを変えたのだ。それをした理由は、やっぱり時間の拘束性だ。うちのバイト先は一週間単位のシフト登録制なので、時間のある時に入れられる。土日も基本的には休みだ。実験やらレポートやらで忙しくて、週に一コマか二コマ程度しか入れてないが、それすらも許されるという、ある意味三年半の立場を悪用している。実際、8時を超えて学校にいることも珍しくないため、これくらいが限界だ。唯一時間の取れる木曜に一コマだけバイトに行くことが常となっていた。今日だって、バイト
が終わってそのまま宮瀬の家に来ているから、未だにスーツ姿だし。
「どう? 実験の方は」
自分の後方に手をついて、宮瀬が尋ねてくる。
「まあまあ。今はまだ教えられた通りにするだけだから」
「あ、そうなんだ」
「お前は? 目の下クマできてるぞ」
「んー。まあ、できるところはやっておこうと思って」
へらっと笑う宮瀬の目の下には、うっすらとクマができていた。そうやって笑って、宮瀬はいつも誤魔化す。
俺が体調を崩した時はえらそうに怒っていたけど、実際のところ、宮瀬だって俺と大差ない。何かに集中したとしても、宮瀬は他のことをないがしろにしたりはしない。他のすべてのことを理由に、できなかった時の言い訳にしたりしない。その結果、体調を崩すときだってある。いつだったか、貧血寸前までいったことがあったほどだ。あれも、俺たちが学部生だったときか。
急に、昼に芹沢さんと話したときのことが思い出された。『ありがとう』と嬉しそうに笑った、あの時のことが。
今日、芹沢さんにも言われたが、そんなにありがたがるようなことなんだろうか。宮瀬も、あの時は本当に嬉しかったんだろうか。変なことを考え出したら止まらなくなって、それならと、思い切って本人に聞いてみようと思った。
宮瀬の方を向けば、やっぱり疲れてるようで、両腕をテーブルにつけて、その上に頭を乗せる格好でテレビを見ていた。聞くのは今度にして帰ろうかと思ったところで、鞄に入れておいた携帯が震える音がした。隣に置いてある鞄を探って携帯を取り出し、何だとこっちを向いた宮瀬に断ってベランダへと出る。着信は、犬居からだった。
「なんだよ」
『あ、古賀?』
通話口から聞こえてきた犬居の声には、がやがやとした音も混じっていて、犬居が今外にいることが分かる。
『お前、まだ宮瀬ちゃんち?』
「ああ、そうだよ」
『今から行っても大丈夫?』
「夕飯ならないぞ」
先輩とケンカでもしたのかと思って言えば、どうやらそうではないらしい。『違う違う』と笑って否定された。
『先輩がさ、宮瀬ちゃんにお礼言いたいんだって』
「なんで若菜さんが宮瀬にお礼言うんだよ」
『俺がいつもお世話になってるお礼』
『何か買ってくからさ』と続ける犬居の言葉を聞きながら、ちらっとガラス越しに部屋にいる宮瀬の方を見る。宮瀬の体勢はさっきから変わってはいなかったけど、その目はやっぱりもう閉じられていた。
「あー。悪い。今度にしてくれ。あいつ、もう寝た」
『え、もう?』
その驚いたような声につられるようにして腕時計を見れば、なるほど、まだ11時半前だ。いつもの宮瀬なら、平気でまだ起きてる。よっぽど疲れてるんだろう。
『まあ、寝てるんなら仕方ないか。今度にするよ』
「おう。じゃあな」
『ああ。明日な』
電話を切って、もう一度部屋の宮瀬を見る。
あの時の気持ちは、あの時捨てた。時間は確かに掛かったけど、今の俺と宮瀬は学部生のころと変わらない関係のはずだ。二回生の後期のあの時が、俺の恋だった。今は、違う。今もまだ好きかと聞かれても、「違う」とはっきり言い切れる。なのに、あの時『ありがとう』と笑った宮瀬の顔が、断片となって記憶の隅でちらつく。今日、芹沢さんとあんな話をしたからかもしれない。
芹沢さんも、『ありがとう』と言っていた。俺の言葉を聞いて、楽になったと。そんなに何かを言ったこともないのに。ただ単に、思ったことを口にしただけだった。宮瀬の時は、何となくそういう言葉を欲していたことが分かったし、そう思っていたことも事実だ。だけど、今日はどうなんだろう。俺の思ったことが、たまたま芹沢さんの思ってたことと一致しただけなんだろうか。
よく分からない。
短く息をはいてから、音を立てないようにベランドの戸を開けた。中に入ってゆっくりと戸を閉めて、ベッドにある毛布を取りにいく。取ってきた毛布をそっと宮瀬に掛けてやり、つけっぱなしになっているテレビを消した。目を閉じている宮瀬は気付く様子もなく、規則的に寝息をたてている。
鞄とタッパーの入った紙袋を持って、ゆっくりと宮瀬の家を後にした。