第32話【意味が分かると怖い】私の中のF【怖いショート】
夜中、夫の声で目が覚めた。
「……うん、昨日は楽しかったよ。Fは本当にかわいいな」
寝室のドアが少し開いていた。廊下に立つ隆一の背中が見える。片手を耳に当て、声を落としている。
私は息をひそめた。
F。聞いたことのない名前だった。
枕元のスマホを取ると、電池は三パーセントしかなかった。
寝る前には、ほとんど減っていなかったはずなのに。
翌日、私は探偵に隆一の写真を渡した。
「浮気相手を調べてほしいんです。最近、私、眠りが深くて……夜、夫が出かけても気づかないんです」
写真をしまおうとしたとき、バッグの中に赤い口紅が見えた。
私が使う色ではなかった。その下には、知らないバーのレシートが入っていた。
その夜、我慢できずに聞いた。
「Fって誰なの」
隆一は、私の肩に手を置いた。
「疲れてるんだよ。……お義母さんのことも、まだ引きずってるんだろ?」
母が亡くなった日のことは、考えないようにしていた。
病院からの電話。間に合わなかった電車。最後に送られてきた、返事のできなかったメッセージ。
頭が痛くなり、私は床にしゃがみ込んだ。
次に気がついたとき、私はベッドにいた。
壁の時計は、二時間も進んでいた。
「無理しなくていいよ」
見上げた夫の口元が、少しだけ緩んでいた。
数日後、探偵から分厚い封筒が届いた。
付箋には、『必ずお一人で、落ち着いてご覧ください』とあった。
寝室で封を切ると、スマホが光った。
紫色の蝶。見覚えのないアプリからの通知だった。
『隆一:今夜、会えそう?』
通知を開いた。
隆一とのやり取りが、ずらりと並んでいた。
いちばん下に、新しいメッセージが二つ届いた。
『さっき、報告書が届いたよね。』
『そろそろFに代わってくれる?』
ドアの向こうの影は、まだそこにいた。
【解説】
夫の相手「F」は、妻と別の体を持つ浮気相手ではなく、妻の知らない時間に同じ体で過ごしている「もう一人の自分」です。
本当に怖いのは、もう一人の自分の存在だけではありません。
夫は「Fって誰なの」という問いに答えず、妻が触れられたくない母の死を持ち出します。妻が頭を抱えてしゃがみ込んだあと、次に気がつくと、場所がベッドに変わり、二時間が過ぎています。
この物語では、妻に強い心の負担がかかるとFが表に出て、そのあいだの記憶は妻に残りません。母の話の直後にできた二時間の空白が、その手がかりです。夫は、そのきっかけを知っています。
見上げた夫の口元が緩んでいたのは、妻の具合がよくなったからではなく、その二時間にFと会えたからだと読めます。「疲れている妻を気遣う言葉」は、妻を苦しめるためのものだったのです。
夫は、調査報告書が届いたことまで知っています。浮気を疑われているのに封筒を取り上げず、ドアの外で待っている。そして、妻が封を切った直後に「そろそろFに代わってくれる?」と送ってきます。
つまり夫は、真相を知られて困っているのではなく、真相を知った妻が動揺することを待っているのです。妻が自分を守るために頼んだ調査さえ、夫にとってはFに会うための機会になっています。
最初、ドアの向こうから聞こえたのは「Fはかわいい」という声でした。最後、同じドアの向こうで夫が待っている相手も、妻ではありません。
妻が助けを求めたいほど苦しんでいる、その瞬間を、いちばん近くにいる夫が待ち望んでいる。この話の怖さは、妻の苦しみを自分の望む相手に会うために利用する夫にあります。




