奈落の住人
灰はまだ、微かに温かかった。
ということは、離れてそう時間は経っていない。俺は動作解析ログに意識を向け、地面に残るわずかな痕跡――踏み固められた土、折れた下草の向き――を辿ることにした。
[ 追跡モード:足跡パターンを検出 ]
[ 移動方向:北西 / 移動速度:緩慢 ]
(急いでない、ってことは……逃げているわけではないのか)
油断はできない。この奈落の最下層で、俺のような新参者を除いて「生きている者」がいるとしたら、それは並大抵の存在じゃないはずだ。もしかしたら、モンスターよりよほど厄介かもしれない。
クロックダウンはまだ使えるはずだが、さっきの反動を思うと連発は避けたい。俺は普段の速度のまま、慎重に足跡を追った。
巨木の間を五分ほど進んだところで、何者かは唐突に現れた。
「――新人さんかい。また、送られてきたか」
声のした方を振り向くと、朽ちかけた巨木の根元に、小さな焚き火と、それに寄りかかるように座る人影があった。
老人だった。
白髪交じりの髪を無造作に後ろで結い、着ているものは布というより、なめした魔物の皮を継ぎ接ぎしたような代物。杖代わりなのか、先端に何かの牙を括り付けた木の枝を傍らに置いている。歳のわりに背筋は伸びていて、こちらを見る目には、老いた人間特有の濁りがまるでなかった。
俺は反射的に身構えたが、老人の方はまるで気にする様子もなく、焚き火に小枝をくべている。
「……あんた、何者だ」
「何者、ねえ。名乗るほどのもんじゃないが……まあ、ライラスとでも呼んどくれ。それより坊主、そっちこそ質問より先にやることがあるだろう」
「は?」
「その顔だよ。つい今しがた叩き落とされました、って顔をしている。ここ最下層で、その顔してる新入りを見るのは、ワシにとっちゃ久しぶりでも何でもない。何十回目かってくらいには、見飽きた顔だ」
言葉の意味を飲み込むのに、少し時間がかかった。
――何十回目。つまりこの老人は、俺のような「不要品」が投げ捨てられてくるところを、これまで幾度となく目撃してきたということだ。
「あんたも……教国に、捨てられたのか」
ライラスは焚き火の炎を見つめたまま、ふっと口の端を上げた。
「二十と何年前だったか、忘れちまったが。ワシは鑑定士だった。教国お抱えのな。ある日、上の連中が欲しがってた『答え』を出さなかった。それだけの理由で、ここへ送られた」
「答えを出さなかった、って……」
「詳しいことは、また今度話してやるよ。今日会ったばかりの兄ちゃんに聞かせるには、ちいと重すぎる話でね」
軽い口調でそう言われると、それ以上踏み込むのも野暮な気がした。俺は黙って頷く。
「それで、坊主。ステータスは見せてもらえるかい。ああ、心配すんな、盗ったり奪ったりはしない。ただの職業病だ」
悪意はなさそうだった。むしろ、ここまで人懐っこい態度を見せられると、警戒する方が馬鹿らしくなってくる。俺は素直に、頭上のステータスパネルを意識で呼び出した。
[ LV:47 / HP:39,900 / STR:4,120 / AGI:5,860 / VIT:3,990 / INT:2,010 / MP:―(測定不能) / 適性:なし / 固有スキル:デバッガー(開放) ]
それを見たライラスの目が、初めて大きく見開かれた。
「……はァ? 落ちてきて、まだ半日と経ってないんだろう。それでLV47ってのは、一体何をどうやったら――」
「詳しいことは、また今度話すよ。今日会ったばかりの爺さんに聞かせるには、ちいと重すぎる話でね」
わざと同じ台詞を返してやると、ライラスは一瞬呆気にとられ、それから声を上げて笑った。しわがれた、けれど楽しそうな笑い声だった。
「言うようになったな、坊主。気に入った」
その後、ライラスは意外なほどあっさりと、この奈落での知恵を分けてくれた。魔物のスポーンが止まる「キャッシュ領域」のこと、階層によって危険度が変わること、水源と食料の見分け方――俺が今日一日、手探りで学んだことのほとんどを、彼はもっと体系立てて知っていた。
「なあ、爺さん。あんた、地上のことは……知ってるのか」
聞くつもりのなかった質問が、ふと口をついて出た。ライラスは焚き火を見つめたまま、少し間を置く。
「知ってる、というほどでもないがちょくちょく噂は入ってくる。何日か前にも落ちてきたやつがいたんでね」
「噂……」
「今回の召喚で呼ばれた『規格外』様たちのうち、いくつかの組が、調子に乗って挑んだダンジョンで派手にやらかしたらしいぞ。それと――」
ライラスは、そこで一度言葉を切った。試すような目で、俺を見る。
「教国のお偉いさんの一部が、あの『鑑定の儀』そのものの精度に、疑いを持ち始めてるって話もある。まあ、酒場の与太話の域は出ないがね」
心臓が、一瞬だけ跳ねた。
だが俺は、それを顔に出さないように努めた。今、そこに突っ込んでいく理由はない。まだ、その時じゃない。
「……ふうん。それがどうした」
「別に。ただの世間話さ」
ライラスはそう言って、また小枝を一本、焚き火にくべた。
パチリ、と爆ぜる音が、静かな森に響いた。




