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ファンタジィ論  作者: 八雲 辰毘古
9/11

八、様々なる意匠をかぶる「物語」

「詩人が狙うのは、役に立つか、よろこばせるか、あるいは人生のたのしみにもなれば益にもなるものを語るか、のいずれかである。

 どのような忠告をあたえるのであれ、簡潔でなければならない。すみやかに語られる言葉は、心がすなおに受けいれ忠実に守るだろう。余分なものはなんであれ、いっぱいになった心のなかに入らず、そこから流れ出す。

 よろこばせるためにつくられたものは、できるだけ真実に近いものでなければならない。劇は、本当だと信じてもらいたいものがあるからといって、それを信じるように要求してはならない。(……)読者をたのしませながら教え、快と益を混ぜ合わせる者が、万人の票を獲得する。このような書物が、ソシウス兄弟に金をもうけさせ、海を渡って作者の名を高め、長い生を彼にあたえることになる。」

  ──ホラティウス『詩論』



 ファンタジー……つまり、空想への作者の憧れや、創造的意欲は、古今東西の文学の(ことごと)くに存在していた。それらは常に人をして興味を沸かせ、喜ばせしめた。それは別に作品の中に「剣と魔法」があったり、(ドラゴン)妖精(エルフ)がいたりするからと言うわけではなく、未知のものを知る喜びそのものである。併し、「形」にならないものを人は感知することは出来ない。こうした空想(ファンタジー)は自然と物語と云う「形」を必要としていた。面白い物語を読むとき、読み手の心はまだ見たことのないものに対する憧れを持つだろう。そして、物語の中で行なわれる出来事に対して見逃しはすまいとするだろう。

 ここで、私は世の中で人気を誇る幾つかの作風や、ジャンルと云う外部形式を散歩してみようと思う。具体的な作品を指してかれこれ言う積りはない。だが、そこに感じ、考えたことは偽りなく述べるだろう。

 「ファンタジー」が最も発展し、認められて来たのは、おおよそに於てゲーム、ライトノベル、漫画、アニメなどだろう。ゲームに(つい)ては前回やったので多くは語らないが、少なくともファンタジーはゲーム以前から有ったもので、何もゲームだけがファンタジーに影響を与えたと云うことはない。それは漫画やアニメも等しく影響を与えたとも云えよう。

 昔から吾々は言語と云う「形」でファンタジーを語って来た。ライトノベルと云うものは文章形式の一派生に過ぎないのであって、具体的な起源を記す必要は無い。(ただ)、ライトノベルと云う派生形式は、漫画やアニメと云うものと相互支援的な関係の元で築かれていたと言っていい。兼ねてより昔から、物語のメディアミックスは多く存在していた。近代化以降の大衆小説の映画化や、江戸戯作の挿し絵や何かで、物語を様々な表現方向から読み込んだ。時に映画の方が動的なイメージを演出しやすかったかも知れないし、一枚の抽象的な絵よりも、文章の方が分かりやすく説明して呉れることがあるやも知れぬ。(はさみ)とカッターナイフは、共に「切る」と云う目的を持っていても、そこに到る迄の方法が異なるのと同じようなものだ。実際、日本漫画を起こした手塚治虫氏、石ノ森章太郎氏、萩尾望都さんや、アニメ界のトルストイとも言うべき宮崎駿氏も、矢張(やは)り多くの読書体験に裏打ちされて物語を創り上げ、絵にして魅せたのだ。ライトノベルと云うものは、一度漫画やアニメ、ゲームで行なわれた物語の変奏が有する独創性に当てられて、文章に返って来たり、或は最初からそうした変奏を(たの)しんでもらうために書かれたのだろう。

 結果的に「面白い」ものを人は好むのであるが、「面白い」結果を期待させるためには、分かりやすいイメージで提供出来なければならない。百聞は一見に如かずと云う(ことわざ)がまだ活きているとするならば、ライトノベルの敷居の低さはその挿し絵などの(もたら)すイメージに()って支えられるわけだし、漫画やアニメの愛好家たちを惹き付けることも出来るかも知れない。そうして一度暖簾(のれん)をくぐらせれば、後は作者の発想力と、情熱の問題である。ライトノベルと云う商業的闘争の(はげ)しいジャンルでは、特にその発想力に(おい)て他の文学形式を遙かに凌駕(りょうが)するほどの魅惑的な、楽しそうなアイデアが乱立する。こうした発想力の豊かさに於て、ライトノベルとはとても素晴らしいジャンルであるのは確かなのだが、そうした発想が単に娯楽性の強いアイデア(つまり種無しスイカ)であったり、プロット構成や文体と云った技術の貧しさが災いし、文学として長らく専門家たちから毛嫌いされる破目になった。

 一方で、通常の大衆「小説」はアニメや漫画、ドラマや実写映画に変奏される。昨今は特写やCG技術がためにアニメや漫画の実写化もあるそうなので、ここら辺はライトノベルとはそう大差ないのであるが、イメージと云う不可解なもののために、この界隈で力量を魅せるには無数の苦労を必要とするようになった。メディアミックスのしやすいと云うことは、文章から直接的に五官イメージに置き換え、理解しやすいと云うことでもある。理解しやすいが文体と云う弱点を抱えるようになったライトノベルに対して、文章で物語ることを意識した大衆小説は、併し、その界隈の内で、物語発想力の刺激を受けることが少なく、抑々(そもそも)イメージの敷居と云う弱点を持ったがために、とても微妙な位置に立たされることと為った。

 前二者に較べて、所謂(いわゆる)「純文学」は悲惨なことになっている。最も藝術(げいじゅつ)的とさえ呼ばれるこのジャンルは、それらの持つイメージの敷居の高さのために立ち寄られること自体が少なくなった。精々(せいぜい)、ごく少数の有名作者がここで活きているものの、この界隈で知られる作者の著作は、残念ながらライトノベルの売り上げに数量的な敗北を喫している。こうした純文学が為すイメージは、謂わば病院に近い。痛烈な問題意識や、目的意識を持たない限りで、これらの敷居を(また)ごうとする人間は居ないからだ。そして、純文学の味わいを知っている人間は、屡々(しばしば)好事家のように観られるのである。

 純文学の持つ藝術性は、「藝術的」と言葉にするのは楽だがその具体的なイメージは判然しない。読み手はその中からとても貴重な体験を得ることが出来るが、その一方で、頭脳を使わなければ分からない(まま)に終わることも多い。当たり前である。そこに在るのは「物語」ではない。ディケンズやドストエフスキーのような「高級な通俗小説」の域をいつの間にか通り過ぎた現代の純文学は、()わばピカソの『ゲルニカ』のような強烈な個性だけを表現するように為った。凄まじい個性は確かに凡ゆるファンタジーを凌ぐ力を持つ。個性の深淵とは全人類普遍の真理と同じくらい不可解で(おそ)ろしいものである。だが、『ゲルニカ』を居間に飾ろうとする人間はそう居ない。人はそれを悪趣味と云うのである。文学も同じようなことに為っていて、つまり、「物」が喪われつつあるのである。「物」を語るから「物語」と云うのである。その「物」を尊重するのを()めた瞬間、語られる「物」は喪失し、「物」語は「己」語りにすり替わる。このとき、作者が「己」を能く分析し、表現する力と情熱を持って居れば、彼は『ゲルニカ』のような作品を創れるだろう。併し、失敗した場合、それら唯の自己主張に終わることになってしまう。

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