九、ネットに於るファンタジー
一般的に能く知られる、出版物の意匠を巡ったついでに、私はネットを主として活動するアマチュア作家の意匠も巡りたくなった。
恐らく、ネットの創作者の大半には、出版物に己れの求める作品が無いことに対する(自覚的にせよそうでないにせよ)不満があって、偶々ネットと云う空間に片足を突っ込むようになったのだろう。地面があったところで種が無ければ芽吹くことすら無かったように、彼らには既に創造的意欲を持っていた。唯、彼らの種は、烈しい現実の生存競争を避けて、安全な環境を手にしたに過ぎない。これはこれで面白いことである。潜在的な想像力の種は、広大な新天地で進化するかも知れない。あとは上手く水が撒かれれば大輪の花が咲くことだろう。
併し、ネットと云う新世界は広過ぎた。余りにも広いがゆえに、いつの間にか吾々の現実世界と重なって、そこから更に広がっていることに気付けなかった。好きなものを好きなだけ散らかしても文句を付けられなくなるほどに、広かったのだ。精神的抑制を喪ったネット空間は、作者自身の情熱が赦す限り、彼の嗜好で塗り込められることと為った。
これ自体は左程問題ではない。吾々が何よりも気を付けなければならなかったのは、「面白い」と「好き」を意識的に分けて考えることだった。どちらも作者の情熱がこれを支えているのだが、或作者の「好き」が行き付く先は「夢」であり、「面白い」が行き付く先が「空想」なのである。人は誰でも自分の「夢」に憧がるだろうが、これを他者と共有することは出来ない。共有出来るのはこれを支える情熱だけである。情熱だけが人をして「夢」を魅せしめる。成る程、「夢」を追う人間の情熱たるや、何者にも負けない力強さと美しさがある。人はそうした情熱から創造的に成るやも知れぬ。「夢」を見るのは個人の自由だ。だがそれゆえに「夢」は個人的な占有物以上の何物にも成れない。若しそれが完全に成し遂げられたとき、そこに表れるのは個人の理想の「似せ物」だ。作者の観念が、満員電車の乗客のように詰め込まれたそれには、物好きで無い限りでもはや近付こうとはするまい。
これに対して「空想」とは万人の公共物なのである。あらかじめ「空」、他者の想像力の這入る余地を持つ「空想」は、各々がそれぞれに違う像を観るかも知れないが、その通奏低音は常に同じように響いているのである。これを持ち得たとき、ファンタジーは全世界的な普遍性を勝ち取ることが出来るのである。「空想」とは、数学の公式や函数のように、凡ゆる人間の触れるのこと出来る、併し時と場合に応じて変幻自在な想像力の鋳型でなければならないのである。人はこう云われると違和感を持つやも知れぬが、この「型」に、読者の流動的な「心」が籠められた瞬間、それは「形」と成る。「形」と為ったものをしか人は感ぜられないのだ。
そして「形」とは「物」のことでもある。吾々は季節が来ては咲き、過ぎては散る花のように変わり続ける毎日を送っている。新しく咲き誇る花々は、それぞれに美しいが、例外なくいつしか散らねばならない悲しさをも秘めている。これを無理矢理に留むることは出来ないが、吾々は来年も同じ花が咲くのを知っている。こうした生命の変わることのない本質、飽きれるほどに変わらない、美しい「物」を知ることで大きな安らぎを得る。傷付いたアーサー王はきっといつまでもアヴァロンで夢見ているし、いとけない犬宮は御前でも素晴らしい琴の音で人の心を打ち続けるだろう。桃太郎は動物たちに黍団子を与えることを忘れないだろうし、シンデレラは二十四時の時の鐘に周章てて帰宅することだろう。
こうした物語に手を加えて、己れの物にしてしまうのは簡単なことである。併し、そうしたところで、物語は依然としてそこにある。いくら吾々が「魔法」と呼ばれる包丁を凶器として扱おうとも、正義とか主人公特権を付与して暴力を振るわせようとも、作中人物をダッチワイフにしようとも、真実の籠められた美しい言葉を陳腐な科白に書き換えようとも、そして何より、空想的なモティーフの空隙に寓意的な解釈を持ち込んでこれを支配しようと試みようとも、「物語」そのものは、相も変わらず、そこに有り続ける。これは恐ろしいことであり、併し同時に嬉しいことでもある。国破れて山河有り。如何なる暴政者が物語に乗り込もうとも、過ぎ去ろうとも、物語は山や河のように、普段からの生々流転を止めることが無い。
ネットと云う全く新しい空間が、創造的な人々を迎え入れたとき、彼等の多くは物語の再興を希った筈であった。だが、バイキングルームのように開け放たれた空間で彼等の多くが見付けたのは己れ自身の嗜好や趣味であった。彼等はその嗜好を持ち帰り、再現するかのように手料理を始めるようになる。これ自体は素晴らしいことであるが、自炊が出来るからと言ってシェフとしてやっていけるわけがない。彼等は到頭最後迄、「面白味」と「好き嫌い」との区別を付けない儘に数量的に多大な読者を得て、職業作家としての道を進むことになる。従来のライトノベルに比して発想に乏しく、一般小説に比して技巧に乏しかった彼等を支えるのは、恐らくその作品に対する情熱だけである。結局のところ、ネットに流入した作者の過半数が己れの想像力の限りを尽くして征服したのは他ならぬ彼等自身の「夢」そのものであって、「空想」だけがなし得る本質的な物語の外縁を彷徨いただけに過ぎなかったわけである。




